理屈じゃない8


真夏の夜は深夜になっても蒸し暑い。湿度の高い空気は肌に張り付くようで気持ちが悪く、熱に弱い燈矢にとっては苦痛の日々である。
ボロアパートの階段を上るのも慣れて、あたりがしずまった時間にカンカンと音を鳴らすのは心地よい。騒がしいのは苦手だった。
階段を上り終わると、自分以外住んでないはずのアパートの通路に人がいる。大きな体を丸めてしゃがみ込んでいる男は、父親の炎司であった。
「は?」
零れ落ちた小さな声に、俯いていた炎司が顔を上げる。燈矢だとわかるとすぐに立ち上がって、感動の再開とでも言いたげな顔をしていた。
「なにしてんの」
「燈矢を、待っていた」
そんなこと、言われなくてもわかる。仕事で疲れていた燈矢は、炎司との些細なやり取りでもすぐにイライラした。
「なんの用?」
「燈矢に会いに来た」
「こっちは疲れてんだけど」
「……すまない」
メーワク。しょぼくれる炎司に燈矢ははっきりとした声でいった。
炎司はまた申し訳なさそうに下を向いて、すまないと謝罪した。
「そこ、ジャマ。どけよ」
炎司の体を蹴りつけ、ドアの前からどかす。大きな体がどたどたと、狭い通路を後退りした。
燈矢はガチャガチャと鍵を開け、ドアを捻る。炎司を入れるつもりはなく、ドアを閉めようとすると、「待て」と声と共に隙間に手を入れられる。今回ばかりは引くつもりもないようで、燈矢は大きな溜息を吐き、諦めたように玄関から手を離した。
炎司は部屋に入ると、きちんと戸締りをして、部屋の隅に正座する。まずはいつもドアの取っ手に掛けていた差し入れを手渡ししたくて、小脇に抱えていた物を仰々しく差し出した。
しかし燈矢は父の存在を無視し、シャワーを浴びようと身支度をする。燈矢にとって炎司は招き入れた客ではない。ベタつく体を早くシャワーで流したかった。
燈矢に無視された炎司は宙に差し出した袋をゆっくり下ろした。拒否していた息子に押し入ってきた自分には、されて当然の仕打ちだと思った。
燈矢がシャワーから出てくる間、炎司は正座したままじっとしていた。燈矢を怒らせるつもりできたわけではない。少しでも会話をして、心を開いて欲しかったのだ。
燈矢は炎司の存在を無視したまま、上半身裸で髪を乾かし始めた。ごうごうと鳴るドライヤーを動かしながら、無視をしているはずの炎司の体が視界にチラつく。燈矢の狭い部屋では、その大きな体は嫌でも目についた。
「そのまま黙ってるつもりか?」
燈矢はひとしきり寝る準備を整えた後、しぶしぶ炎司に声を掛ける。炎司は燈矢から声を掛けてくるまでずっと待っていた。このまま燈矢が無視して寝てしまうようなら、黙って帰ることも覚悟していた。しかし悪態をつきながらも、結局燈矢は自分を気遣ってくれた。やはり優しい子のままなんだと思って、炎司はとても嬉しかった。
ぱあっと表情が明るくなる父に、燈矢は不快な思いをする。また勝手な解釈で悦に浸っているのは明白だった。あまりの鬱陶しさに見かねた燈矢の思いは、炎司には何も伝わっていなかった。
「仕事はどうだ? 職場の人とは仲良くやっているのか?」
当たり障りのない話題に傾けた耳が一気に冷める。答える気にもならなくて、なんでもいいだろと一蹴した。
意味のない会話をしてまで起きている意味はなくて、燈矢は布団に潜り込む。無視して寝ようとするのを、炎司が慌てて止めた。
「受け取れ、少しでも足しにしろ」
炎司はそう言って茶封筒を差し出した。中身は確認しなくてもわかる。お金だ。それも、以前貰った額より多いのだろう。厚みのあるそれが物語っていた。
燈矢はひどくガッカリして、大きく溜息を吐く。いらねー、と冷めた声で答えた。
「今は使わなくても、これくらいもっておけ」
「うるせえな。てめえから金もらうほど困ってねえ」
反発する燈矢に炎司は食い下がる。
俺にはこんなことしか力になれん。そう言って燈矢の胸元まで茶封筒を押しつけた。
燈矢は押し付けられた炎司の手を払い落とす。触るなとばかりに強く叩かれた炎司は驚いていた。
燈矢は炎司の押し付けにはうんざりしていた。お前のためだと行ったことはすべて炎司の自己満足で、本当に相手が求めているのか確認しようともしなかった。炎司の一方通行な態度を面倒臭がって受け止めていると、それがどんどんとエスカレートしていくし、いざ不要だと言っても聞く耳を持たず、結局は俺の言うことを聞けばいいんだと抑圧的な態度になる。物や金を与えれば自分に従うと思っている態度も癇に障った。それがおそらく、無自覚だということも、燈矢は気に食わなかった。
「あるだろ。てめぇができることが、他によォ」
では暴走する父をどう止めればいいのか。
「ヤってただろ。家では、さんざんな」
燈矢は足に掛けていた布団を蹴飛ばすと、パジャマにしている薄手のハーフパンツを、下着ごと下ろしていた。


2021/07/15