理屈じゃない10


燈矢は父の口の中で頂きに達した。
炎司は慌てて周囲を見渡し、端に置いてあったティシュ箱を掴む。大量のティッシュを取り出すと、口の中のものをげーげーと吐き出した。燈矢はそんな父を見て笑っている。
燈矢はひとしきり笑った後、冷めた声で『帰れよ』と炎司に言った。暑さと口淫で気持ち悪くなっていた炎司は、燈矢の言葉に促されるまま、早々に身支度を整える。
「ちょうどいいや」
自分の荷物を持った炎司が俯いたまま立ち上がると、燈矢が閃いたように声を上げた。
それ、持って帰れよ。そう言って指差した部屋の隅には、炎司が差し入れた食べ物が山積みになっている。
「それ、いらねーやつ。邪魔だから持って帰れ」
よかれと思って差し入れた物を突き返され、炎司は言葉も出ない。
それでも、燈矢の細身の体を心配していた炎司は、少しでも食べ、生活の足しにして欲しかった。炎司は差し入れた食べ物をある程度抱えると、燈矢にアピールするように持ちきれないと呟く。
だから、食べてくれ。炎司はそう言葉を繋げようとしたが、「タクシー呼べよ」と間髪入れずに返ってきた燈矢の言葉に遮断され、その言葉は続けられなかった。

炎司は一人でタクシーに荷物を詰め込み、燈矢の家を後にする。燈矢の部屋は炎司がいなくなるとすぐに灯りを消していた。
見送られることを期待していたわけではないが、一人で放り出されるのはいつだって寂しい。別れの挨拶にも言葉を返さず、さっさと寝てしまった息子を思いながら、炎司は静かな車内で夜の街を眺める。
日中は騒がしいこの街も、深夜三時を過ぎれば車もほとんど走っていない。数台のタクシーとすれ違うと、炎司は不意にセンシティブな気持ちになる。こんな時間に走る車には、自分と同じように複雑な事情があるのだろう。
炎司は手持ち無沙汰になり、燈矢から引き取った荷物を見つめる。ふと、返却物の中に思い出の葛餅が入っていないことに気付く。
燈矢が葛餅を食べていたのは、手を汚すことなく、調理も不要で、簡単に食べられるという理由だが、炎司はそんな事情を知らない。
炎司にとって葛餅は特別だ。燈矢が自分の好物を気に入り、食べたいとせがむのが嬉しかった。息子という個体が、自分の血を分けた存在なんだと改めて認識できたきっかけだったようにも思う。
燈矢はすっかり大人になり、炎司には理解のできない生き物になった。行動の理由も、発言も、炎司は到底ついていけない。
だがこうして、ほんの些細なことで燈矢をたまらなく愛しく思う。燈矢が自分をどう思っていようとも、炎司は燈矢の全てが愛おしかった。



2021/07/15