マーメイド2


夜が明ける頃、ベジータは朝焼けと共にバーを出て隣町の宿に戻った。本来であれば近くの領主のところに顔を出し、そのまま城へ戻るところなのだが、ベジータは夜になると再びあの町のバーに向かっていた。
一夜明けて行ったというのに、店内の顔ぶれは変わらず、まるで一日中この場所にいたのかと錯覚してしまいそうだった。ベジータは昨日と同じ酒を頼むと、あの男が現れるのをじっと待った。暫くすると男が後方のドアを抜け、するりと中央に進んでいく。昨日とうって変わって、どこか憂いを帯びた眼差しに、ベジータはまたも釘付けになった。男は昨日同じ民族衣装を着ているというのに、まるで別人のようなオーラをまとってる。
凛とした佇まいの男が店内の中央に立ち、客を見据えると、男の呼吸に合わせる様に音楽が鳴り響く。ゆったりとした重低音は騒がしい店内を一気に黙らせた。男はとてもゆっくりと体を動かしはじめると、昨日とは違った舞を見せた。力強く爽やかで、同じ男でもほれぼれとしてしまうほどの格好良さを見せた武芸とは違い、見るものを惑わせ、しなやかな体の妖しさに、人々は呼吸も忘れて虜になっていく。不意に、男は空いていたテーブルに掛けられていたテーブルクロスを手に取ると、それをベールのように体にまとわせた。ときにひらひらと靡くそのベールは、男の妖艶さをさらに際立たせる。
音楽が徐々に小さくなると、静かだった店内が息を吹き返す。そしてハアハアと必死になって酸素を吸っている内に、またも男はどこかに消えてしまうのだった。
ベジータは男がいなくなったバーの中で、まずい酒を飲みながら小さく舌打ちをした。今度こそ男を引き留めようとしたのに、男の魅力に取りつかれると、思考がすっかり停止してしまう。
ベジータは男を引き止めて、何かをしようとか、伝えたいことがあったわけではない。ただもう少しだけ、ベジータはその姿を見ていたかったのだ。


あくる日もまた、ベジータはあのバーに通っていた。一国の王として、こんなことで時間を使っている場合ではないと思うのに、あと一日だけ、とベジータは自分を説得してしまう。
ベジータは同じようにバーで男を待った。男はまた同じような時間に現れる。
音楽はとても有名なワルツ曲だった。ベジータも一度社交界で踊ったことがある曲だ。男は微笑みを浮かべながら、軽い足取りで歩き出すと、ベジータの座っている席の前で足を止めた。そして無言でベジータに手を差し出すと、踊りませんか? と伺うように首を傾げる。ベジータは呆気にとられながらも、思わずその手を取って立ち上がっていた。
ワルツには決まったステップがあったが、その男のダンスはステップなんて無視した無茶苦茶なものだった。どうやらワルツのルールなんて知らないようだ。こんな状態で続けるのかとベジータは混乱したが、目の前の男がとても楽しそうな顔をしているので、ベジータもステップなんてどうでもよくなっていた。ダンスなんて、音に合わせてくるくるとそれらしい動きを見せればそれで十分なのだ。店内の客たちもきちんとしたものを求めているわけではなく、こうして二人が音に合わせて回るだけでそれらしいものなってしまう。
どれくらいの間二人が躍っていたのか。ベジータも時間の感覚が分からなくなっていた。しかしぷつりと切れる音楽で、その夢のような時間は無情にも終わりを迎える。
「いつも来てくれんだな」
男はそう言って微笑むと、くるりと振り返った。ベジータは反射的に腕を伸ばし、男の手を掴もうとしたが、男は器用にその手をすり抜けていく。
しかしベジータは必死になって後を追った。外は真っ暗で、バーから遠ざかると闇は更に深くなった。今日は新月で、月明かりもない田舎は真の闇だ。だがそれでも、徐々に目が慣れてくれば、暗闇の中で男の山吹色の服が浮かび上がる。
ベジータは無我夢中で走った。しかしそれでも男にはなかなか追いつかない。ベジータはこの国の王であり、国で一番の力の持ち主だった。その武力によって荒れた大地を統一したこともある。しかしそんなベジータが全力で走ってもその男との距離が縮むことはなかった。一体何者なのか? 男に対する興味は増していくばかりだった。
男の姿が突然目の前から消えると、ザバンッという何か大きなものが水に飛び込む音がした。風は若干の湿度を含み、少し強くなっていた。暗闇で気付かなかったが、ベジータの目の前は海だった。
ベジータは海を目の前にして足を止めた。何が起きたのか、どういうことなのかと思考を巡らせると、海の中から何かが顔を出した。そこには先ほどまで山吹色の服を身にまとっていた男が、上半身を裸にしながらこちらを見上げていた。海には大きな岩がいくつか飛び出していて、男はその岩の上に体を乗り上げる。いまは寒い季節ではないが、夜中に海に潜るほど温かいわけでもない。ベジータが呆然として男を見つめていると、その男の下半身には魚のような尾っぽが生えていた。
「おめえにだけは見られたくなかったな」
男はそういうと静かに海に潜っていった。水飛沫も上げずにいなくなったその男は、それから二度とバーに現れることはなかった。



2020/07/25