天使なんかと恋10
ベジータは誰もいなくなった公園に一人残され、天を見上げる。空を眺めてもカカロットの姿なんて見えはしなくて、ベジータはカカロットが天使であることを痛感する。ベジータとカカロットは本来の関係に戻った。人間と、それらを見守る天使だ。
ベジータはゆっくりと上る朝日に合わせて歩みだす。カカロットにはカカロットの世界がある様に、ベジータも人間の世界がある。空虚な気持ちになっても学生の本分である学校がなくなったりしない。
ベジータはとぼとぼと力のない歩みのまま帰宅し、学校へ向かう。カカロットが来てからほとんど毎日共に歩いていた通学路が広く、ベジータの虚しさが募る。学校に着けば互いの校舎に分かれて、カカロットはいつもベジータに手を振っていた。そんな光景もなくなって、ベジータは小さなこと一つ一つに気を落とした。
朝練のために部室へ向かうと、飾ってあった写真にぽっかりと空白ができていた。それはカカロットが一日だけ助っ人として出場した大会の優勝記念写真である。
その写真はカカロットがいた場所が不自然に空いていた。ベジータはその写真を握りしめ、近くにいる部員に歩み寄る。部員たちは懐かしいといってその写真を覗き込んだ。だが誰も悟空の話をしないことに違和感を覚え、ベジータは絞り出すように声を出した。優勝を決めた試合、副将が誰か覚えているか?
――ええっと、誰だっけなあ。
――たしか、ナッパさんが怪我して、誰かが入ったんですよね。
――そうそう!……で、誰だっけ、入ったの?
部員たちは懐かしそうに話をしながら、誰一人として悟空のことを覚えていない。悟空に関する記憶だけがきれいに消え去っていた。
カカロットは天界に戻る時、地球での悟空に関する記憶を消すと言っていた。まさしくその通りで、悟空に関する情報は写真や文字問わず、何一つ残っていない。
だがベジータはすべて覚えている。それもカカロットとの約束だ。
ベジータは適当に話を切り上げて写真を戻す。カカロットがいなくなって戸惑っているのは自分だけで、何も覚えていない周りには関係のないことだ。ベジータはいつも通りの朝練を済ませると、一限目の授業へ向かった。
ベジータは帰宅後、適当に荷物を放り投げてベッドに寝転ぶ。体が重くてしょうがなかった。
カカロットの記憶が残ることは、ベジータにとってとても疲れることだった。この世界で誰も知らないカカロットを己だけが追いかけ、残像を見続ける。二度と存在しないとわかっていてもその影に振り回され、ベジータは心が落ち着かない。
あの時、記憶を残せといった自分にベジータは心底後悔した。カカロットとの思い出がこれほど自分を傷つけるとは思ってもいなかった。周りの人間たちと同じように忘れていれば、こんな苦しみを感じることもなかっただろう。ベジータは枕に顔を伏せ、無力な自分を嘆くことしかできなかった。
カカロットの残像が消えないベジータは、休みの日になるとその姿を追うようになった。カカロットの好きだった場所や二人で訪れた場所を目指してベジータは彷徨う。ベジータは様々な場所を訪れるたびに身が削れていくような気がして、余計に虚しくなった。
ベジータは次々と思い出の地に向かい、ついに美術館に辿り着く。そこは二人が最後に出かけた場所だった。すでにカカロットと共に見た展示は終了していたが、ベジータは常設展のチケットを買って入館する。特別展示会がやっていない美術館はカカロットと訪れた時より人が少なく、ベジータはゆっくりと歩いて回った。様々な大きさの絵画や彫刻は、多くの国から集められ、テーマにこだわらないそれは二人が見た内容に比べてバラエティー豊かなものだった。
とはいえ、芸術に興味のないベジータには退屈に変わりなく、ノルマをこなすように眺めていると、壁一面の大きさで描かれた絵画が、ガラスの中に飾られていた。それはカカロットと見た天使の絵画だった。展示会の多くは近隣の美術館から期間限定で集められていたものだったが、思い出が詰まったこの絵画だけは、この美術館の所蔵だったのだ。
ベジータは大きな絵画の前に立ち止まり、息を飲む。微笑んだ天使が空から地上を眺めているそれが、いまのカカロットと重なって見えた。ベジータにはカカロットの存在を知ることができない。しかしきっと、この絵画の天使のように、カカロットは今も空から人間を眺めて、見守っているのだ。もちろん、その人間には、ベジータも含まれるだろう。
ベジータは絵画の脇に飾られた小さな説明書きを読む。タイトルは「人が焦がれた光」といい、あの時の展示会のテーマと同じだった。あの展示会は、この絵画をもとに作られていたのである。
ベジータは思い出の絵画を見ながら、ことさら強い寂しさを感じた。だが同時に、ふっ切れたように前を向いた。今のカカロットと自分の関係こそが、本来あるべき姿なのだ。
帰りの電車に揺られながら、ベジータは美術館で買った小さなポストカードを見つめる。常設展示である天使の絵画のポストカードだった。ベジータはそれをお守りのように鞄にしまう。窓の外に見える景色が、電車のスピードで流れていった。
ベジータの帰宅の足どりは軽やかだった。探し回った残像は消えていた。
時刻は夕暮れ時。すっかり日が短くなって、あたりの景色は茜色の夕日に染まっている。
家に向かって路地を曲がると、ベジータはそこがカカロットと出会った公園の通りであることに気付く。カカロットと別れた後、ベジータはその公園を避けるようになっていた。あえて遠回りをして帰宅していたのだが、気持ちが浮ついていたベジータは、ついクセでその公園への道を歩いてしまっていた。
以前なら引き返していたベジータだったが、その時はもうどうでもよくなっていた。公園の前に辿り着くと、紅葉が美しかった木がすっかり裸になっていて、寒そうにしながら枝が風で揺れていた。寒い日が続いた砂場にはしばらく子供が遊びに来ていないのか、風でならされた砂が平らに広がっている。
その時、不意に突風が吹きつける。舞い上がった砂ぼこりを防ごうと、ベジータは咄嗟に目を瞑った。何かが上から落ちてくるような気配がして、ベジータは薄く瞼を開いた。
「カカロット……?」
「ハハ……久しぶり」
冬でも変わらず薄い布をまとった天使のカカロットが、ばつの悪そうな顔をして目の前に降り立つ。背中の大きな翼が窮屈そうにたたまれていた。
ベジータはカカロットの姿を見ながらも、その情報を処理しきれず困惑する。本当にあのカカロットなのかと疑いながら、しかしふわりと舞う羽から感じる熱が、それが現実なのだとベジータに理解させた。
ベジータの心臓は、色が滲むように少しずつ鼓動を大きくしていく。ベジータがやっとの思いで過去にしたカカロットとの思い出が、目の前の現実で上書きされていく。
「怒られちまった。おめえの記憶消してないことバレちまってよ」
怒り心頭の神様が、もう少し修行してこい! とカカロットを天界から落としたらしい。カカロットは暫くの間、天界に出入り禁止だという。
「オラ天使なのに、出禁なんてひどいよなあ」
困った顔をしながら文句を垂れるカカロットを見て、ベジータはふっと笑いがこみ上げる。ベジータの知るカカロットがいつもの調子で語り掛け、ベジータの困惑がどこかに吹き飛んだ。ただ嬉しくて、いつの間にかうっすらと潤んていだ瞳を瞑れば、目じりから小さな水たまりが零れ落ちた。
「へへ、めえったよなあ」
ベジータにつられてカカロットも笑う。それはベジータにとって、絵画で見た天使たちの何倍も神々しい姿だった。
完
2020/09/27