グレイゾーン17


ベジータの考えていた通り、カカロットの持つ情報とその能力はとても有益なものだった。カカロットは下級戦士で、地球で育ったサイヤ人の出来損ないであるが、戦いに関する嗅覚はサイヤ人のそれである。カカロットは他所の星の文化と、サイヤ人の文化を混ぜ合わせた、不思議な発想を持つ男であった。そこが理解できない部分でありつつも、ベジータはこの男を一介の下級戦士とは言い難いと認めざるを得なかった。
また悟空にとっても、ベジータと深く関わることで、サイヤ人の印象を大きく変えていた。プライドが高く、血の気が多いのはサイヤ人の特性のようだが、ベジータはそれが他のサイヤ人よりも突出していた。さすが王族の血統というべきか、その特性が色濃く出ているようである。ベジータは誰よりも粗暴でありながら、自分がサイヤ人たるべき行いをすることに誰よりも誇りを持っていた。
強い者だけが生き残り、そうあるべきだという考えは、地球の生物の世界でも存在している。いってしまえば悟空だって、その食物連鎖の中にいる。
悟空はベジータと話をしていると、己が生きるために獣を殺し、食べることと、ベジータが弱きものを殺し、生きていくことは一体何が違うのだろうと思った。言葉が通じることが大事なのか? 人型であることが大事なのか? それらを仲間として命を助けることは、果たして正しく正義なのだろうか。考えるととても難しく、悟空は答えを出せなかった。
とはいえ、ベジータたちサイヤ人は、必要以上の略奪行為や、殺戮も行う。それは生きるためではなく、戦いそのものを楽しむためだ。悟空はその行為を許せないと思いながらも、戦うことが楽しいという気持ちは、まったく理解できないわけでもなかった。
悟空は戦いを楽しんでいる自分に気付く時、己がサイヤ人であることを実感し、同時にベジータ達をはっきりと糾弾できなくなった。もし惑星ベジータで育っていたなら、こうして殺戮に疑問を持たずに生きていたかもしれないと思うと、悟空はやるせない気持ちになる。
悟空が修行の日々を繰り返す中、他所の惑星への遠征は引き続き行われていた。今の悟空がサイヤ人の軍に飛び込んでも、無駄な被害を生むだけで、自分自身が犬死にするだけである。確実にその行為を止めるためには、まだ力が足りない。悟空はそう言い聞かせながらも、遠征に飛んでいく宇宙船から目が離せなかった。
一方で、ベジータは悟空と関わったことで、サイヤ人以外の存在を少しだけ見直すようになった。ベジータにとって、世界の中心はサイヤ人である。すべてをその支配下に置くか、存在価値すらないと葬るしか選択肢がなかったベジータに、下等生物たちにも秀でた能力があることを認めさせたのは悟空の存在である。悟空が持っていたホイポイカプセルもその一つだ。ベジータは文化の低い星という地球への認識を改めなければならなかった。
二人は交流の中で互いの理解を深め、歩み寄りながら、それでも決して己の立場を変えることはなかった。ベジータにはサイヤ人としてのプライドがあったし、悟空もまた、地球で生きて、信じた考え方を捨てることはできなかった。悟空はサイヤ人がサイヤ人の信念のまま生きることを認めながらも、他人の命を奪うという行為を決して許すことはできなかった。たとえ命を奪う相手の線引きが曖昧だとしても、その線引きが曖昧だということを理由に虐殺行為を認めることはできなかった。
ベジータもまた、たとえ認めた相手に諭されようとも、自分のアイデンティティを変えるようなことはできなかった。それは己だけでなく、サイヤ人という生き方そのものへの否定となるからだ。
二人は広いトレーニングルームの中で手を合わせている時だけ、そのどうしようもないしがらみから離れることができた。自分がサイヤ人であること、地球で育ったことを忘れ、決して負けはせぬと拳を振るう時ほど、二人が楽しいと思う時間はなかった。


2020/12/06