diary

×個人的に

例えば。
ジュースは子供っぽい。
お茶やコーヒーしか飲まないのは大人っぽい。


大人っぽいっていうのはつまらない。
でも体のことを考えていくとつまらない選択がどんどんベストになるし、味覚も変化してそもそもジュースがあまり飲みたいとも思わなくなる。
あと普通にジュースみたいにお茶もコーヒーも美味い。そもそも昔から爽健美茶とか麦茶とかその感覚があって、そのバリエーションが増えただけとも言える。私的には香ばしいお茶は甘みがあると思うし。だから昔は緑茶や烏龍茶が好きではなかった。(香ばしさないし渋みも強かったりするし)


年齢を考えると年相応なことを求められるし、それは当然だと思うし、経験によって学んだことを出していけば自然と大人っぽくなっていったりするし。


そんなこんなで、大人は大人になりたくて大人になっていったわけではなくて、年齢や経験やそれまでに得た知識が、その人を自然と大人っぽくさせていってしまっているところがある。

例えば自分より若い人が、ある物事にある選択をした時に、同じような経験が自分にあったとする。
二つの選択肢があったとして、どちらがベストか?ということを、私は経験上知っていたとする。
なぜそれが正しいかを若者に説いても、若者からすると経験してないのにその選択はおかしい、理解できないとなることがある。


正しい道を示すことが大人なのか?
若者に経験を積ませることが大人なのか?

そんなことを思ったりする機会が明らかに増えた。
時と場合によるというのは便利な言葉だ。大人だってそんな選択経験してないことだらけなんだから知らんし、導くことがタメになる子もいれば、黙って経験させることがタメになる子もいて、時と場合なんてどんだけパターンがあるんだよって感じだし、それだって私と若者を外から見た人からすれば、私の最善策を間違ってるという人もいるだろうし。


日々ため息だし、それじゃなくても色々こうすればよかったのか、みたいなことがあって、本当に人と関わらなければ考えなくてすむのになと思うことが多い。極論だ。

でもこうやって経験を重ねないといつまで経っても成長しないとも言えて、もうええて〜〜みたいな気持ちになる。


ところで、時と場合によるはケースバイケースという言い方もできると思うが、ここでケースバイケースとは言わずに時と場合によるという言葉を選ぶ自分が自分らしいと思うし、世の中はケースバイケースというんだろうなとも思った。



最後に、久々に日記を更新して、というか管理ページを開いてアクセス解析を見たりして、カウンターまわってて、自分が思ったより回ってて、必ずしも私のことに興味あって開いてるとは限らないけど、それでも誰かが何かを期待して今まで見に行きていた、私が何もしない間も、と思ったらありがたいし嬉しかったです。

また何かにハマって小説を書くかもしれないし、来ないかもしれないけど、今小説読んだりしてるのが、長い人生で何かに活きてくることがあるかもしれないから、もう少し時間が経った私はもっと面白い小説が書けるような気がします。
(2025/01/26/23:31)
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