資料室に用事があって、鍵を借りて向かう。
ドアノブを握ってドアを開けると、あまり人の立ち寄らないその部屋は薄暗いけれど、まだ昼間の光で室内は明るい。電気はつけなくていいか、とそのまま入室して、目的の資料のある棚へ向かう。索引を辿って、視線を巡らせて、目的のもののある棚へたどり着く。ものの、高いところに置いてあるそれは、背伸びしても届かなそうだ。
「(脚立…)」
脚立を探そうと振り返ろうとしたわたしの耳に、ふう、と生暖かい息がかかる。そこから体の力が抜けるような嫌な感覚に思考が追い付く前に、わたしの声帯が震えた。
「にゃっ……!?」
「ッハハ、いーい反応」
思いきり後ずさって思い切り振り返ったときに少し棚に頭をぶつけた。痛い。耳に残る生々しい温度と自分の情けない声に心臓が騒ぎ立てている。わたしの後ろに立っていたのは、
「イヌイ室長…!!」
「よう」
飄然と現れた戌事業室の長、イヌイ室長。わたしの耳に息を吹きかけたのはこの人だ。熱を持った耳に手を伸ばしたかったけれど、絶対に笑われそうだから必死に押しとどめた。片方の耳だけ熱くて気持ちが悪い。
「い、イヌイ室長も探し物ですか」
「んー、まあ、そうだな」
場を繋ごうと当たり障りのない質問をしてみるも、はっきりした回答が得られずにモヤっとする。特に答えが欲しくて聞いた訳ではないけれど、適当にごまかされている感じだ。
「お前のそれ、ほんとに反射なのな。面白い」
「人で遊ばないで頂けます…?」
眉をしかめるわたしをおかしそうに見て、イヌイ室長はわたしに被さるように、腕でわたしを閉じ込めた。そう、ちょうど、棚とイヌイ室長に挟み込まれるような形になって。電気をつけなかったのが災いして、何というかこう、あんまりよくない雰囲気を醸し出してしまっている、ような気がする。さっと体温が引いた気もする。棚に押し付けられた背中が冷たい。
「じゃあさ」
ぐ、と顔が近づいて、イヌイ室長の深い香水の香りがふわりと漂ってくる。これはまずい、と思ってイヌイ室長の胸板を思い切り押してもびくともしない。それどころか楽しそうに緩んでいる口元の笑みがますます深くなって、逃げるように目を逸らした。
それを許さないとばかりにイヌイ室長の指が私の顎を無理矢理上げて、不敵な色をした瞳としっかり視線が絡まる。
「三回回って、ワンって鳴いてみ」
「はぁ…!?」
「あー、回んなくていいわ。ワンって言ってみて」
「い、意味が分かりません!」
訳の分からない要求に押している胸にもっと力を籠めると、イヌイ室長はくつくつと喉を鳴らして笑う。わたしのことを何だと思っているのかと睨みつけても、イヌイ室長の楽しそうな様子はそのままだ。わたしのことをオモチャみたいに思っているんだろう。失礼な人だとぶっ飛ばしてやりたいけども上司なので我慢する。我慢するというか、抵抗してもびくともしていない時点でわたしは負けている。く、とわたしの顎に添えられた指がわたしの顔をもっと上向きにさせて、イヌイ室長の顔が近づいてきて、
「何してるのかな?イヌイ室長」
ばっと声のする方に顔を向けたのはわたしもイヌイ室長も同じタイミングだった。
「ひ、ノト室長…」
「チッ」
棚に頭を預けて、スマホ片手にわたしとイヌイ室長を見ているヒノト室長。口元は笑っているけれど、目元がちっとも笑っていない。舌を打ったように聞こえたイヌイ室長の手は、するりとわたしから離れていって少しだけほっとした。イヌイ室長には分からないように小さく息を吐いたら、強張っていたらしい肩が少しだけ下りた。
「これはこれはヒノト室長。部下が困ってたもんでね」
「ふーん?うちの事業室の子なのに悪いね…でも、」
言いしな、イヌイ室長はわたしの欲しかった高いところにある資料を簡単に抜き取って、私の手元に押し付けた。お礼を言おうと口を開いたけれど、呟きかけた謝辞はふたりの言葉の応酬にかき消される。
「俺の大事な部下にパワハラしてるようにしか見えなかったんだけど?」
「ッハ、何を根拠に?」
「裏は取れてるんだよ?」
す、とヒノト室長が携帯の画面を見せつけるようにイヌイ室長へ向ける。その表情には一切の感情が乗っていない。ボイスレコーダーだろうか、画面を見たイヌイ室長は、また小さく舌打ちしたあと、ヒノト室長を嘲るように笑った。
「過保護なこって。ご執心だな?」
「大事な部下だからね。だから早く離れてくれる?」
見せつけるように携帯を揺らすヒノト室長。イヌイ室長は鼻で笑ったあと、「じゃあな」わたしにだけ聞こえるであろう小さな声で呟いて、わたしの頭を撫でつけた。特に資料を探すでもなく、イヌイ室長は去っていく。ふたりがすれ違う瞬間、空気がピリッとしたような気がしたけれど、気のせいであってほしい。バタン、と資料室の戸が閉まる音を確かめてから、ヒノト室長はわたしへと目を向けた。
「大丈夫?」
こつこつと革靴の音をさせながら、ヒノト室長がわたしに近付いてくる。この微妙な空気はどうしたらいいんですかイヌイ室長。無力なわたしではどうしようもないだろうと割り切って、はい、と短く返事をする。
自然に手を頬に添えられて、輪郭をなぞっていった。顎にヒノト室長の指先が撫でるように掛かって、得体の知れない悪寒のような何かが背中を巡った。抱きしめるようにして持っていた資料がくしゃりと音を立てる。
「あ、あの、遅くなって申し訳ありません」
「いいよ、そんなの。さ、早く戻ろう」
そっと腰を抱かれて資料を抜き取られる。距離について文句を言おうと思ったけれど。刺々しい雰囲気が残っている気がしてそっと口を噤んだ。あの二人が仲が悪いのは十分に知っているけれど、わたしを間に挟んで喧嘩するのはやめてほしいなあ。何で資料室にいるんですかと、聞きかけてそれもやめておいた。
The air breathes upon us here most sweetly.
空気はいと甘く、吹く息はまことにかぐわしく
Shakespeare "The Tempest"