「亥事業室、久しぶりです。懐かしい」
くるりと見回した部屋の中。かつての古巣であるここにわたしのいた頃、わたしの机やらの面影はなくて、ちょっとだけ寂しくなってしまう。それでも、本をお借りしたくてお邪魔したそこの空気は変わっていないし、ハナレ室長も相変わらずだ。コーヒーを勧められたけれど、すぐに戻らなければいけないからと丁重にお断りした。
「うまくやっているか?」
「はい、今のところ大きなミスもなくやってます!」
はて、前はここにあったのに。目的の本が見つからなくて、ハナレ室長に向けていた視線を棚へと戻す。おかしいなあ、と思いつつ、久々にお会いできた慕っている上司との時間も勿体なくて、本を探しながら言葉を次ぐ。
「ハナレ室長。今度以前言ってたきな粉餅の、」
突然視界が暗くなる。本壁にハナレ室長の手が置かれているのが見えて、見上げると、いつの間にか、席に座っていたはずのハナレ室長がいた。もともと表情の読めない人だったけれど、一年も近くにいて、彼の心の動きはちょっとずつ掴めるようになってきたと思っていたのに、今のハナレ室長の感情は少しもわからなくて、少しだけ、怖い。よく見知った人のはずなのに、知らない男の人のようだった。
「コトカから、俺の匂いがする」
さらりとわたしの髪に触れたハナレ室長の髪から、わたしと同じ香りがする。遊ぶようにわたしの髪を弄っている彼が近くて、触れ合いそうな肌の近さに気が気でない。さっきまで、なんてことない世間話をして、わたしはきな粉餅の話をしようと思っていたのだ。貰いすぎた餞別のお礼と、積もる話を片付けるふたつの理由を込めて。
「ハナレ、しつちょ」
そういう日常的な雰囲気は、ハナレ室長が簡単に捨ててしまったようで。今この部屋にはありふれた風景など一切なかった。真剣な顔をしたハナレ室長は、逃がさないとばかりにわたしを腕で囲っている。ここをなんとかやり過ごす術も、わたしにはない。真っ白になった頭をもて余したまま、動揺している他にない。
わたしの短い髪の香りを確かめるように顔を近づけたハナレ室長は、わたしの瞳をちらりと見つめたあと、そのまま髪に口づけを落とした。咄嗟に抵抗しようとハナレ室長に伸ばされた手は当たり前のように捉えられて、恋人にするように指が絡んだ。わたしの頬が熱を持ったのなんて一目瞭然だろうに、ハナレ室長は追い討ちをかけるように繋がれた手を引いて、わたしはハナレ室長の腕の中に収まる。
「ハナレさん…!」
「ヒノトになんかやらなければ良かった」
首筋に埋められたハナレさんの顔。ハナレさんが喋るたびに熱い息が薄い皮膚を撫でて、喉がひきつりそうになる。痛いくらいに抱きしめられて、ハナレさんの匂いでいっぱいで、胸が張り裂けそうなくらいに早鐘を打っている。
「ハナレ、さん」
わたしの頭の中身はもう混乱しかなくて。すぐ近くで聞こえる呼吸の音に、心臓をまさぐられているようだ。自分が紡いだ声の大きさが、心臓の音に負けてしまいそう。
「わたし、もどらないと」
絞り出した声をきちんと聞き取ってくれたハナレさんは、するりと視線を上げて柔らかく、困ったように笑う。困っているのは、わたしの方なのに。
「真面目なのは相変わらずだな」そう言って、わたしを抱き締めてなんていないみたいに、いつも通りの所作でわたしの頭を撫でた。男女のするような抱擁と、いつもの上司のハナレさん。ふたつの動作があまりにちぐはぐで、目が回る。
「今日は定時か」
「う、あ、はい、たぶん」
「…迎えに行く。逃げるなよ」
前髪にくちびる、が、落ちてきて、既に限界だったわたしにトドメを刺す。こんなの、こんなの。もうこれ以上ないくらいに赤くなっているだろうわたしの頬を撫でて、ハナレさんは熱い、と笑う。
「そんなに可愛い顔をするな。帰せなくなる」
ハナレさんはわたしの腕に、わたしの目当てだった本を押し込む。エスコートするみたいに部屋の扉の前までわたしの腰を引いて、戸を開ける前にわたしの指先を掬う。そうしてハナレさんは、わたしの指先に唇をくっつけた。まるで映画のなかの登場人物がやるみたいに。
亥事業室を出て扉が閉まった瞬間、腰が抜けそうになった。この状態のまま、どうやって仕事に戻れと言うのだろう?そうしてわたしは一体、定時を迎えたその瞬間、どんな行動を選び取ればいいのだろう。だって突然露呈されたハナレさんのこころに、あつい瞳に、わたしの平静さはぺろりと食べられてしまったのだ。