「(電車止まってる…)」
やっと仕事が終わったと思ったらこれだ。スマホの画面を恨みがましく見つめてみても、わたしのスマホには一切の罪はない。今日は金曜日だし、さっさと帰ってゆっくりしようと思ったのに。スマホの右上に表示されている数字は暗にわたしが残業をしていることを示していて、溜息をつきたい気持ちを押し殺す。別に残業に不満があるわけではない。ただ、いつもと違うことをしてちょっと疲れたなっていう気持ちが強いだけ。
「……おい」
低い声。戌事業室・イヌイさんのものであるそれに、わたしはくるりと視線を返した。
未事業室に務めているわたしだけれど、今日は人が足りないとかで、戌事業室に駆り出されていた。ヒノト室長はぎりぎりまで渋っていたけれど、仕事なのだから仕方ない。勝ち誇った顔をしたイヌイ室長と共に、わたしは今日一日戌事業室で働いていたのであった。
なかなかの業務の量に、わたしとイヌイ室長は残って仕事を片付けていた、というわけで。
「時間あるか?メシ行くぞ」
「え」
「今日一日世話んなったからな。奢る」
「え、いえ、そんな」
さも決定事項だとばかりにそう言うイヌイ室長に向かって思い切り手を振ってみせる。おなかは空いているけれど、仕事でしたまでだし、そんな良くしてもらうわけにはいかない。電車も止まっているみたいだし、駅で何か食べて帰るし。ぐるぐると断りの文言を考えて何と言うべきか迷っていると、軽く息をついたイヌイ室長は、つかつかとわたしの方へ歩いてきた。
「わあ、室長っ」
「こういうときはカワイく笑ってありがとうって言っときゃいいんだよ」
伸びてきたイヌイ室長の手ががぐしゃぐしゃとわたしの頭を撫でる。それ以上の言葉の応酬はなくて、イヌイ室長はついてこいとばかりに部屋を出ていこうと歩を進めていってしまう。慌てて電車を調べていたスマホを鞄に押し込んで、その背中を追いかけた。小走りしながら今の台詞、どっかで聞いたなあ、と思うと、頭の裏にぽっかりとヨルシカの顔が浮かんできて納得する。イヌイ室長とヨルシカ、そりが合いそうだな、と思いながら、イヌイ室長の横に並んだ。わたしが追い付いたことを横目で確認したイヌイ室長は、そっと歩く速度を緩めてくれた。早いままで大丈夫ですと言おうと思ったけれど、彼の心遣いを損ねる必要はないと思って、口をつぐんだ。
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「こんないいとこ……」
「そういうのいいから。晩酌付き合え。お前酒は?」
「あんまり飲まないです」
「飲めるのか?」
イヌイ室長に連れられてやって来たのは、とても上品で高尚な雰囲気な和食中心の料理屋さん。品のいい和洋折衷の店内は個室で、高そうだと気張りすぎず、(無論、イヌイ室長という緊張する上司が一緒だからリラックスとまではいかないのだけれど)のんびりと腰を落ち着けることができた。
「分かりません」
「ふーん」
「す、すみません。楽しくお付き合いできないかも」
「あーだから、いいから。いいか?今はオフだ。好きなもん食って、好きなもん飲め。酒は俺が見繕ってやる。具合悪くするほど飲むなよ」
「でも」
「いいな?」
「ありがとうございます…」
お酒に関しては、今まで潰れるまで飲むだとか、自分の限界を知るだとか、そういうことをしたことがない。だからちょっとだけ心配していたのだけど、特に心配はなさそうだ。怖いイメージが先行しがちなイヌイ室長だけど、仕事中もわたしの様子を見て、フォローもしっかりしてくれたし、今だってこんなに優しい。ぶっきらぼうでわかりづらい心配りがじんわり心に染みた。
「お前のおかげで助かった。ありがとな」
「恐縮です」
あのイヌイ室長に褒められるなんて、と、少しだけ浮き足だってしまう。固ぇ、とイヌイ室長はおかしそうに表情を緩めて、注文した日本酒を煽った。わたしも一口口をつけてみる。お酒に詳しくはないからよくわからないけれど、口当たりのいい、飲みやすい日本酒だった。そのあとはイヌイ室長がみかんのお酒だとか、スパークリングワインだとか、色々試すみたいに注文してくれた。食事もすごくおいしくて、イヌイ室長が許してくれるのをいいことに、たくさん箸を伸ばした。
上司と言いお店で食事しているというのに、よそ行きの時に感じるほどのストレスを感じることはないみたいだった。疲労もあるのか、いい具合に体から、溶けるように力が抜けている感じがする。
自宅のような安心感とはいかないまでも、いつも意識して保っている姿勢も、張っている肩も、お酒の効能もあるのか自然と溶かされたみたいに柔らかく解されて。わたしはいつか、電車の止まっている不満も忘れていた。
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「………え?」
生活音で目が覚めたのか、自分で起きたのか。ぱ、と目を開けて漏れたのは、困惑を示すもの。自分の家じゃないことにはすぐに気付いた、天井が高い。身じろぎしてぎし、と鳴るベッドもわたしのものじゃあないし、ふわりと香ってきたにおいも知らないもの。一切の冷静さを失って、謎のいやに寝心地のいい柔らかいベッドから起き上がれないまま、わたしは視線だけでおそるおそる部屋を見回してみる。
黒を基調とした、スタイリッシュな部屋。恐らく男性の部屋だろう、とばくばくうるさい心臓が言う。正直わたし、男の人の部屋なんて入ったことないんだけど。観葉植物、テーブル、質の良さそうな革張りのソファー。女性の部屋にしてはいかついかな、と思う。そこそこの広さのあるそこはひとりでは少し広すぎるだろう。
そう言えば頭が痛い、と思って、じわじわと昨日の記憶が浮き上がってくる。食事、お酒、イヌイ室長。そこまで思いが至った瞬間、絶望的に目の前が真っ暗になって勢いよく起き上がった。
「起きたか」
絶望に追い打ちをかけるように、ちょうどのタイミングを見計らったみたいに。一寸先の闇に突き飛ばされたような気さえするその声。自分を律するために必死に布団を握り閉め乍ら、おそるおそる目をやってみる。
「おはよ。よく寝てたな」
違っていてほしかったわたしの記憶。楽し気に口元に笑みをつくる低い声の持ち主は、どこからどう見てもわたしの上司、イヌイ室長であった。おはようなんてありふれた言葉も、ここで聞くと鎮魂の言葉かと思う。全身から気力という気力が蒸発しているような気がした。
「昨日は楽しかったな?」
にやりと妖しく笑顔を作ったイヌイ室長を見て卒倒しそうになったのは言うまでもない。「とりあえず起きれば?」そう言われ慌ててベッドを出ると、脚がスースーした。下を見る。
明らかに自分のものではないカッターシャツ。そして。下着は履いていたけれど、上に関しては明らかな解放感があって。冷や汗をかきながらイヌイ室長を見ると、「ああ、」と意味深な声と、わたしのカッタージャツを見ているだろう視線だけ残してキッチンへ戻ってしまう。
まさか、まさか。ほぼ残っていない昨夜の記憶の残滓をかき集めようとしたけれど、全くないものは集めようがない。そっと触れてみた胸はカッターシャツ以外の感触をわたしに伝えることはなかった。
必死にどこまでなら思い出せそうか頭を抱えていると、「おい、飯が冷める」とイヌイ室長の鋭い声が聞こえて慌てて立ち上がった。脚がスースーして、あまりにやるせない気持ちになった。
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イヌイ室長に食事をご馳走していただいたのは百歩、いや、千歩譲っていいとして。そこで泥酔した挙句その場で寝こけ、イヌイ室長のお家に連れてきていただき、しかもイヌイ室長のベッドで朝を迎えた。朝どころではない、わたしはなんと10時まで寝ていたのだ。もうどうしようもない。そしてわたしより早く起きていたイヌイ室長は粗方の家事を済ませ、朝食まで準備してくれた。わたしのスーツはしっかりとハンガーにかけられ、知らん顔でわたしの身から離れている。そしてシャツ、下着、ストッキングに至るまでをイヌイ室長はわたしから脱がせ、あまつさえ洗濯までしてくださったと言うのだからもうわたしは一体どうしたらいいのか。穴があったら入って地球の内核まで埋まりたい。いっそ溶けてマグマになってしまいたい。
「食い終わってさあこれから晩酌ってとこでイヌイさん眠いですとか言って突然寝出すからびっくりしたわ」
わたしをからかうようにくつくつと喉を鳴らす。わたしすら知らない、わたしの泥酔のようす。頭は痛くないのに、綺麗さっぱり記憶がない。途中まではしっかり覚えているのに、本のページがしっかり破かれたみたいになにもない。
イヌイ室長は食器を片付け、わたしの手を引いてリビングに戻る。動揺するので正直手は取らないでほしい。むきだしの体温は心臓に悪い。
「お前、酒飲むとちょっとずつ饒舌になって終いに寝るのな」
「えええ待ってくださ、わたし余計なこと言ったりしてませんか」
「さあ、どうだと思う?」
どさりとソファに座ったイヌイ室長は、手を引いてわたしを隣に座らせた。ソファの溝の通りに座っていたのに腰を抱かれ、ずるずると室長の方へ寄せられて密着させられた。むき出しの太腿がイヌイ室長に触れてしまって恥ずかしくて離れようとすると、それ以上の力で押さえられてしまう。衣擦れの音すら恥ずかしくて、自分の動きを最小限にしようと体を縮こまらせた。
「イヌイ室長…」
「その呼び方萎える。昨日みたいに呼べよ」
「え」
イヌイ室長は俯くわたしの顎を掬って、わたしと彼の視線を合わせた。昨日みたいって何ですか、と、聞きたくても怖くて口が動かない。そんなわたしを知ってか知らずか、イヌイ室長は唇を開けさせるように指を使ってわたしの口元で遊んでいて、頭を引いてももう片方の手がわたしの後頭部をしっかり引き寄せて離してくれない。
「……なあ、ホントに覚えてないの?」
鼻先が、紙一枚で触れてしまいそうな距離になる。イヌイ室長の吐く息が唇を撫であげて、からだが小さく揺れた。頬が熱くて、頭はぐるぐるして。わたしは失った昨日の記憶を、あまりにも切望していた。ピースをかき集めても一向に、わたしの経験はかたちにならない。泣きそうになる。
「……ぶはっ」
「え」
無駄な記憶探しに躍起になっていると、イヌイ室長がわたしの肩に額を寄せて、肩を震わせ始める。固まっているとするりと、下着をつけていない背中を撫でられて体が縮まった。その振動に動かされるみたいにまた、くつくつとイヌイ室長がわらう。
「……今オフだから室長は嫌だって言ったろ?仕事のこと思い出させんなって」
「え、えっと、あの……イヌイさん?」
「ん。ちゃんとそれで呼べよ、コトカ?」
散々笑いつくしたらしいイヌイ室、いや、イヌイさん?は目元に涙を浮かべて(笑いすぎである)、そっとわたしの髪を手櫛で梳かす。しっかりと呼ばれたわたしの名前、恋人のような距離感に心臓が冷える。わたしは、やっぱり。昨夜、まさか、この目の前の上司さまと。
「……まあ、なんにもなかったけど」
「………へ?」
「着替えさせたから色々見たし、お前が色々喋ってたのもホントだけど、お前が想像してたようなことは残念ながらないな」
お前爆睡だったからな。投下される言葉をうまく処理できない。なんだって?
「眉間にシワ寄ってんぞ」
「あの!イヌイ室長!」
「おいおいコトカ、さっき約束したばっかりだろ?」
するりとしなやかなイヌイ室長の指先がわたしの両唇を閉じさせるように触れる。「なあ、何想像した?俺に教えろよ」あまりに恥ずかしい煽り文句に無礼を承知でイヌイ室長の手を振り払ったら、室長は怒ることはなくまた楽し気に喉を鳴らした。イヌイ室長ってこんなに笑う人なんだと、思っている余裕もない。
「帰ります!」
「おっと」
立ち上がろうとしたわたしの腰を、イヌイ室長が思い切り引く。わたしはソファに寝転がる形になったイヌイ室長の上に乗っかる形になって、手首を取られてしまえばわたしはそのまま密着させられてしまう。
「冷たいな、一晩一緒に過ごした仲だろ?一緒に寝はしたんだぞ?」
「……っ、」
イヌイ室長の胸元に自分の、下着をつけていないふくらみを図らずも押し付ける形になって死ぬほど恥ずかしい、いっそ死にきれないほど恥ずかしい。シャツだって足元が捲れて、太腿が丸見えになっていることだろう。もぞもぞと体制を探そうとすると、ますますからだが触れていることを意識してしまうことに気付いてすぐにやめた。
「一宿一飯の恩、忘れてねえよな?」
脅しにも聞こえるその言葉は、わたしの耳元に甘やかに注がれる。イヌイ室長が何をしたいのか、わたしにはさっぱり理解不能で、それでも、抵抗できるほど強く出れる立場ではなくて、わたしは混乱を抱えたまま、手の力を抜く他なかった。