生暖かい夏風が不自然に俺の横を通り過ぎる。ふわりと俺の長い髪が、いたずらに持ち上げられたかのように靡いて、慣用句としてではなく言葉通り、後ろ髪を引かれたような気がして振り返る。ちらりほらりと見える人影はすべて霞んで、ただ、真っ赤な番傘が、それだけが目に映る。世界を色づける色だ。鮮やかに、艶やかに。俺を、誘う色。冷静に思考する力を理性と呼ぶのなら、俺のそれはその傘に見入った瞬間に手放されていたのだと思う。視界はその赤い色に塗りつぶされて、それしか考えられなくなる。

「ねえ、」

考える前に口が動く。その傘の持ち主を呼び止めるために。他の人影は地面から上がる陽炎のようにぼやけて見える。俺の目は釘で打ったように、彼女だけしか認めていない。
りん、と。鈴の音のような音がした気がして、その音に弾かれたかのように、番傘が止まる。くるりと振り返ったその人は、綺麗な髪の色を揺らして、可憐な瞳を見開いていた。

――ずっと、ずっと、焦がれた色。

高貴な白練色。全身が震える、探し求めていたのは君なんだと、俺の体が謂う。どくどくと心臓は高鳴って、じっとりと高い気温のせいだけではない汗が頬を伝って、地面に落ちた。俺の記憶よりずっと、彼女は大きくなっていたる。俺と同じように。俺と会った時の女の子は、俺と同じくらいの、本当に女の子だったのだ。すらりと伸びた体躯を太陽から隠す番傘でできた影を伝うように、長い睫毛は色めく瞳に影を落として。理由は分からないけれど、その硝子細工のような瞳は、驚きの感情を反射させていた。どんな絹より上質な髪の色を。濡れ映えた、光を反射する瞳を。うつくしいと、思考をやめた頭で、それだけを思った。瞳を抉り出されてもいいと思ったいつかの感情と、それはぴたりと重なった、ような気がした。

彼女は一切の感情を表に出すことなく、俺から去っていこうとする。踵を返して、俺から離れていこうとする。それを黙って見ていられるほど、俺の中に溜まった感情は、軽いものではない。やっと、やっと、会えたんだ。内側から震え上がる重たい感情はどんどん俺を勝手に動かす。まるでそれが決められたことであるかのように、手を伸ばす。

「待って、俺」

唇に触れるそれが彼女の指だと、理解するのに時間を要した。俺たちの間には、一歩では跨げない距離があったから。音もなく俺の前に現れたその女の子は、番傘を持っていない方の手で、咎めるように俺の両唇を指先で塞いでいた。そっとその指が俺から離れた後も、俺はその指先に声を抜かれたかのように何も言えない。ただその指を瞳で追う。その指先は彼女の唇の前へと場所を移した。俺に触れた人差し指は、口を結べと、彼女の口をに十字を作るように立てられる。しい、と、吐息を抜いた声が、俺と彼女の間だけで揺れた。頭の中、ずっと焦がれていた影と、目の前にいる彼女の輪郭が重なる。

「今夜、山の鳥居を潜っておいで」

俺の耳元を、吐息をまぶした無声音が掠めて。ずっとずっと探していた、虫を誘う花のような噎せ返る甘い香り。ぐらりと頭が、熱に香りに揺らされる。

すれ違いざまに、俺の鈴を模した首飾りを、彼女の指先が掬って揺らす。りん、と音が鳴って、頭を殴られたかのように現実に引き戻される。俺の身に着けているこれは鈴ではない、音なんて、鳴る筈がないのに。視線をすぐに下げてみても、首元にその鈴を模した装飾品は、何の変わりもなく鎮座している。

彼女を追うように振り返る。そこにはただ、いつもの光景しかなかった。相も変わらず、太陽に焼かれた地面から、陽炎が立ち上る。目を引く赤い番傘も、ふわりと風を纏う髪も、視界のどこにも映らない。狐につままれたような心地がするのに、歓喜が尾を引いたように高ぶったままの心臓が、鼻孔に残る甘い香りが、これが夢ではないと証明している。ぼんやりと眺める空があまりにも青くて、目の奥を染めてしまえのではないかと思うくらいの、快晴だった。