眠い目をこすりながら始発電車で帰ってくると、部屋は相変わらず荒れていた。カーテンは閉め切られていて、机の上には飲みかけのコーヒーが置いてある。部屋が汚い原因のほとんどが俺のせいだった。俺のせい、とは、この家は現在もう一人の男とルームシェアしている状態だったのだ。
 同居人は一二三と言った。彼は俺とは違って顔が良いし、明るくて話が上手なのでホストをしている。もともと彼は昔のトラウマのせいで、女性恐怖症だった。でもその女嫌いを克服するために、わざわざホストになったというのだから男らしくて度胸もある。そんな彼はお客とのアフターのようで、家に帰ってはいなかった。彼はいつも家に帰ると、マメな性格なので綺麗に掃除と食事を作ってくれた。うるさいが気配りも出来て優しい男だ。
 そんな彼に対し、俺は医療系機材会社に就職して約×年。特に良い結果を上げられず、万年ヒラサラリーマン。上司には毎日頭を下げ、後輩には影で笑われている。役職なんてもちろん与えられていない。更に年収は上がらないのに、毎年払う税金はどんどん増える。嫌な現実だった。
 昨日だってあのハゲ課長に仕事を押し付けられた。そのせいで始発電車で帰ってきた。しかも今日は休みではない。あと四時間後には出社しなければいけないのである。
 急だが俺は今日で死のうと思う。特に理由はない。死にたくなったから死ぬだけだ。心残りは俺に唯一優しくしてくれた、一二三と会社の取引相手の寂雷先生にお別れを言えなかったことだけだ。彼らだけが俺を暗闇から引っ張ってくれた。しかし彼らに迷惑をかけるのはこれでもう終わりにしようと思う。
 それ以外はこの世に未練なんてなかった。だから今日、俺は死のうと思う。死んで今度こそは新しい明るい人生スタートさせたかった。
 遺書は一応書くことにした。そっちの方が自殺感が強くて、来世はもっと良い人間にやり直せそうな気がしたのだ。残念ながら良い遺書用の紙が見当たらなかったので、プレゼンで使った資料の裏に書いた。こういうところも神様は見ているかもしれないが、描かないよりはマシだろう。

拝啓 皆様へ。
僕は今日をもちまして人生を終了させていただきます。この世に未練はありません。さようなら。
観音坂独歩 敬具

 こんなもんでいいだろう。字は汚いが、きっと誰も読まないと思うし。
 俺はそれを机の上に置いて、シンジュクにある有名自殺スポットとなっているビルへ向かっていた。その名は第×トーアビル。ホストクラブとキャバクラの入っているビルで、なんとつねに屋上があいているらしい。高さは七階で、頭から飛び降りたら一瞬で死ねる高さ。自殺者が多いのなら、鍵を掛ければいいのに、未だに対策はしておらず無防備だそうだ。そういうところがシンジュクらしいといえばそうなるのだが。
 烏が鳴き、ゴミが散らばっている道路を抜けて、酔いつぶれているホストの隣を過ぎると、あっという間にお目当てのビルについた。無表情でエレベーターに乗って六階のボタンを押す。チン、と古いエレベーター特有の音がなって扉が開く。あとは階段でもう一階だけ上にあがっていく。そこには噂どおり鍵の掛かっていない扉があった。それを開けると簡単に、屋上に出ることが出来た。
 春が近づいているとはいっても、朝は冷え込んで寒い。ついでに花粉も飛んでいるのか、鼻水も止まらない。俺は、ゆっくりと古い柵へ手をかける。死ぬときまでこんな鼻水を垂らした格好で、本当に俺はダメな人間なのだと再認識した。これはもう死んでやり直すしかない。
 革靴を脱いで、柵を乗り越える。息を大きく吸って吐く。あと十秒後に飛ぼうと思う。決心はもうついていた。
 カウントダウン。
 じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ご、よん、さん、にい……。
「あれ? 自殺すんのー?」
 あと一秒で死ねるはずが、とある声のせいで台無しになってしまっていた。思わず後ろを振り返ると、片手にチューハイとコンビニ袋を持っていた女が立っていた。女は俺に近づくと、高く足をあげて柵を乗り越えてきた。危ない、と声が出るとおにーさんも危なくね?、と笑われた。
「とりあえず乾杯する?」
「……は?」
「死ぬ前に一杯だけ。いいでしょ?」
 女はそう言ってコンビニ袋からチューハイを一本手に取る。それを断ると、グレフル嫌いだった? 桃にする?と無理矢理桃味のチューハイを渡された。
「それ、期間限定だって!」
「あー、僕…。」
「はい、かんぱーい!」
 まだプルタブの開いていない缶に無理矢理缶を当てられて、僕は彼女と乾杯するはめになってしまった。こういう時に断れないのが、俺の性格だった。昨日の残業も、あの忌々しいハゲ課長に言われて断れなかったのだ。今日の朝一で出さないといけない書類をなぜもっと早くに言わないのか。早く言ってくれたらもっと早く帰れたのに。あいつはまじで死んでくれ。
「おにーさん、飲まないの? あ、もしかして今流行りの缶の開け方分からない小学生みたいな?」
「いや、缶は開けられるけど……。」
「じゃあ早くー! こんな可愛い女の子と乾杯して飲まないとか、死んでも天国いけないよー?」
 彼女の言葉に俺はしぶしぶ缶の蓋をあけた。期間限定らしい桃味のチューハイは甘ったるくて胸やけしそうになる。死ぬ前に酒なんて飲んだら罰当たりな気がするが、無宗教だったので関係ないと言い聞かせておいた。そんな俺に彼女はコンビニ袋からサラミとピーナッツを取り出すと、俺の手のひらに乗っけていく。
「あ、」
 ころころとピーナッツが手のひらから落ちて、下の道路へ見えなくなってしまった。
 そういえば、俺、自殺するんだった。彼女のせいで薄れてしまったが、俺はこのあと死ぬ予定なのだ。
 ピーナッツとサラミが混じったものを口の中に押し込んで、チューハイでそれを流し込む。それをみて彼女は「いい飲みっぷりだねー!」と笑った。
 俺はこれから死ぬのに、なんて呑気な人なのだろう。目の前で人が死ぬかもしれない状況なのに、彼女はこれからのことを考えていないようにみえた。
「そういえば、おにーさん名前は?」
「……名前?」
「うん、名前。」
 彼女はチューハイを飲みながら、俺の方に顔を向ける。「観音坂です。」と言うと彼女は目を輝かせて俺に顔を近づけた。
「すごーい、神様みたい!」
「かみさま…?」
「そう! 神様!! 神様なの?」
 彼女はピーナッツを頬張り、袋の中から俺の手のひらに再びそれを乗せる。俺もそれを口の中へいれると、彼女は御利益ありそうだからもっとあげるね、とまたまたピーナッツとサラミを俺に渡した。
「神様の下の名前は?」
「神様って、僕は……。」
「え、もしかして下の名前はアレな感じ? キラキラネームとか?」
「いや、そういう訳では……。」
「じゃあ、なんなのー?」
 彼女はあのハゲ課長のように、自分のことしか考えていないようだ。いきなり俺を神様って言いだしたり、名前を聞いていないのにキラキラネームと決めつけたり。キラキラネームってなんだよ。神様っていう時点で相当痛い奴だろ。
 俺は大きくため息をつくと、独歩です、と答えた。彼女は少し考えて、どっぽってどんな字?と俺に聞いてくる。
「独りの独に、歩くっていう字です。」
「独立独歩の独歩かあ。」
「独立独歩?」
「自力で物事をすることっていう意味だよー! おにーさんって意外と……。」
「あ、馬鹿ですみません。」
「あははっ……! 嘘だって、私も今調べたもんー。」
 彼女はスマホの画面を俺に見せるとケタケタ笑う。大人をからかうな、という目をすると彼女はチューハイをみせつけた。俺の心の中まで読み取っているようで、少し変な気分になる。
「観音坂独歩ねー! なんか本当に神様みたいだね。努力の神様……みたいな?」
「キミさっきからその神様っていうの……」
「キミじゃなくて、名前って言うんですー!」
 彼女は俺に舌を出して大声を出す。俺が名前さんね、と言い直すと、彼女は頷く。そしていっきにチューハイを飲み切ると、缶を足で潰してコンビニ袋に入れた。
 こんな狭いところでやって足を滑らして落ちてしまったら危ない。俺は思わず彼女の腕を支える。それに対し、こんな俺を気持ち悪がることなく、彼女はありがとうとにこにこ笑った。
 意外に笑った顔は可愛くみえた。こんなこと彼女には口が裂けても言えないが、俺が普段なら絶対話さないタイプの女の子だった。うるさいし、自分勝手だし。一二三もそういうタイプだが、それとはちょっと違う。なんというか突っ走ってどこかに行ってしまうように思えた。
「……神様はさあ、それ飲み終わったら死ぬの?」
 彼女は俺のチューハイを指さして、あっけらかんと言った。俺が軽く頷くと、彼女は黙ってしまう。何かを考えているようだ。すると彼女はその何かを思いついたのか、俺のチューハイを奪い取ると、それをいっきに口へ流し込んだ。
 ゴクゴクと喉の音をたてて、それを飲んでいく。少し口元からチューハイをこぼすと、それを手の甲で拭う。そして俺に向かってさっきのように笑うと手を振った。
「神様の分のお酒、私が飲んだから代わりに私が死ぬね!!」
「は!?」
 そう言い切ると彼女はいきなり細い足場からジャンプしていたのだ。一瞬の出来事だった。
 咄嗟に俺は手を伸ばしていた。間に合うかなんて分からない。でも何故か体は動いていた。腕をこれでもかというくらい伸ばして、彼女の肘を掴んでいた。ぐらり、と彼女は体重を下の道路へと移動するまえだった。そのまま肘を掴んだまま、彼女の体を自分の方へ引っ張っていく。今まで一番最大限の力を出した瞬間だった。
 細い足場で彼女の体を持ち上げて、自分ごと柵を乗り越える。もう落ちる心配がないことを確認すると急に汗がふきだしてくる。ドクドクと心臓がとても速く動いていた。
「……馬鹿か! キミが死んだら……、俺は……!」
「……キミじゃないって。」
「今はそういうことは関係ないだろ!」
「…でも独歩なら助けてくれると思ってたよ。」
「もし間に合わなかったら、名前さんは死んでいたんだ……! こんなクソみたいな俺より先に死んだら、俺はっ…!!!」
 頭がいっぱいになって言葉がうまくしゃべれない。声も震えてしまう。道路へ真っ逆さまに落ちる彼女を想像するととても怖くなる。さっきまで笑っていた彼女が見るに堪えない姿になっていたかもしれないのだ。
 見ず知らずの人間なのに、何故か分からないが嫌だった。目の前で誰かが死ぬのが怖いのではない。それももちろん怖いが、こんな俺の代わりに死のうとしてくれた彼女が死んでしまうのが怖かった。
 息を整えようと、深呼吸をする。ひゅーひゅーと喉がなって息が吸えない。そんな俺に彼女は強く抱き着いた。
 ぬくもりを感じると不思議なもので、身体がだんだんと落ち着いていく。赤子が母親に抱きしめられて泣き止むのと同じ原理なのかもしれない。呼吸が落ち着くと、いつもどおり息が吸える。落ちていないのに、死んだような気分になって死ぬのが怖くなっていた。
「……独歩、落ち着いた?」
「まあ、なんとか……。」
 ポケットからハンカチを出して、汗を拭う。スーツは床に直接座っていたので汚れてしまっていた。もう少しで出勤時間なのに、こんな酒臭くてどろどろでは出勤できなそうだ。そう思うと腹がきりきり痛む。俺が会社のことで腹を痛めていると、彼女は俺から離れずにそのまま優しく腹を撫でてくれた。
「……名前さんってさっきも思ったけど、僕の心読めてるんですか?」
「#name1#でいいよ、独歩のほうがおにーさんだし。」
 彼女は俺の腹を撫でながら呟く。彼女は相変わらず、自分勝手に話しをする。俺が少し黙っていると、「あ、答えなくて拗ねてるでしょ。」と笑っている。やっぱり心が読まれているではないか。
 そんな彼女はトクベツに独歩だけに秘密を教えてあげるね、と俺の耳元でコソコソと口を開いた。
「……私ね、実は世界を30°だけ傾けられるの。」
「は……?」
「そうすればね、相手がどんなことを考えているか分かるの。ビルの上にいた独歩をたまたま見つけた時に、独歩がとっても寂しそうに見えたの。独歩が本当は死にたくないって思ったよ。」
 中二病かよ、と突っ込みたくなるが、彼女なら本当かもしれないと思ってしまう。そんなことを思ってしまう俺も中二病なのかもしれないが。
 彼女は俺に自分のスマホを渡すように言った。俺がポケットからスマホを取り出すと、勝手に操作して会社に電話をかけていた。おにーちゃんがお腹痛くてどうしても〜と嘘をぺらぺら喋っていく。電話をおわらせて、スマホを渡すのと同時にピースサインまでした。
「独歩、今日はズル休みだねー!」
「そんなこと今までしたことなかったのに……。あのハゲ課長にバレたら…!」
 どうやら彼女は俺の会社に電話をして、休みの連絡をしたらしい。この会社は腹痛で当欠なんて絶対に出来ないのに、それを可能にしてしまったのだ。どうやってやったかは電話の内容だけではわからないが、今日はとにかく休みになったらしい。
「大丈夫だって! だって私、世界を30°だけ傾けられるから!」
「だったら名前の力であの忌々しいハゲ課長を地方へ転勤させてくれ…!」
「んー、それは無理だ!!!」
 彼女はゲラゲラと笑って、俺の手を引く。明日出社した際にこっぴどく叱られるのが怖いと考えていると、彼女は俺の心を読んだのか「大丈夫、コーヒー一杯奢れば平気〜〜!」と教えてくれた。
 世界は本当に30°だけ傾けられた気がする。何故なら俺は少なくともこの世にまだ存在している。それが答えだ。