(※このお話には、間接的ですが性描写が存在しています)

 ――彼女がいなくなってからも、その幻を見た。何度も、何度も。顔を上げれば彼女のデスクは空になり、その後しばらくもしないうちに別の人間のものになっていたが、そこに座って真剣な顔をしていた彼女のことを、ありありと想い出せる。彼女がどんなに生き生きとプレゼンをするか、きめ細かに客先でのフォローをするか、部下に優しくするか……砂糖をたくさん入れたコーヒーを飲む時の幸せそうな顔も。契約を取れなかった時の落ち込んだ横顔も。名前を呼ぶ時の、はにかんだような笑顔も。


 忘れられない。忘れたいと願うことさえも忘れてしまった。それほどに、彼女の面影は強く独歩の中に息づいている……つまりそれは、呪いにも等しい思慕だった。観音坂独歩は今も、愛に呪われている。ひょっとすると生涯、彼女以外の誰にも知られることもない愛に。

 外出して、取引先を回り、残りの仕事のために帰社するそのたびに、一つ息を吐きたくなる。吐いた分だけ、独歩の人生は縮まっていく……幸せが逃げる、ともいうが、独歩は逃げていくような幸せにはなから期待はしていなかった。冬の冷たい空気にさらされて冷え切ったままの体が、社内の停滞した風にあたり、わずかに指先が痛む。抱え込んだ機材の資料などが入ったカバンをなんとなくなぞりながら、エレベーターへ向かった。入社した当時は輝いて見えたこの職場も、しばらくもすれば来客の目に触れない場所に隅に転がる埃も見え、そしてそれがいつまでたっても拭い去られないことを知った。誰しもが余計なこと、無駄なことだと判断するからだ。自分から仕事を増やすような真似をする人間は、どこにもいない。独歩もそうだ。そしてそんな自分に心底絶望したことを覚えている。

 やってきたエレベーターに乗り込んで、もう一度ため息。「はあ、」と存外大きな声が出てしまったことを恥ずかしく思いながら、閉めるボタンを押した。がこん、と音を立てて扉が閉まる。その瞬間だけ、独歩は真の意味で一人になれる。誰の視線からも解放され、腹の底から息ができる。そんな気がしていた。

 あの頃は、と独歩は無意識に思っていた。違った気がする。もっと楽に呼吸をしていた。彼女がここにいたからだ。彼女は、まさに独歩にとっての光や救いと呼べる存在だった。彼女は独歩を導いてくれた。颯爽と歩く後ろ姿を追いながら、独歩は気づかれないように、そっと彼女を見つめて……

 ――その瞬間、エレベーターが止まる。


 開かれたエレベーターの向こうには、いつも通りのオフィスがあるだけだ。そこには、いつも通りの湿った空気が流れている。閉まりかけた扉をこじ開けるようにして、エレベーターから這い出た。灰色の床、白い壁。よろよろと歩きながら、独歩は無意識に願っていた。そこに彼女がいるのではないか。当たり前のように。しかしもちろん、そんなはずはない。

 独歩を迎えたのは、なんの変哲も無いオフィスフロアだ。雑多に並ぶ机、そこに座る同僚たち。青や灰色のスーツが並ぶ中、独歩は彼女を探す。探して、探して、そして、見つけられなかった。

「……戻りました」

 独歩が失意の中で漏らした言葉は、誰にも顧みられることなく消えていく。一瞬だけこちらに向けられた視線はあっという間にそらされる。まるで無いもののように……わかっている。無駄だからだ。気にかけても無駄な存在に、人は注意を払わない。床に落ちた埃のように。

 観音坂、そう名前の書かれたプレートを外出から戻しながら、また足元に視線を落とす。今すぐに帰りたい、思うことはそれだけだった。独歩にとって仕事をして生きることは、楽なこととは言い難かった。それを聞けば誰かは言うだろう、人にとって誰しも生きることは楽ではないと。幸も不幸も、どう生きるかも、すべては自分次第だ、とも。もちろん独歩も思う。この世に存在することがこんなに苦しいのは、すべて自分のせいだということを、独歩自身が一番よく知っているのだ。自分が自分を苦しめている、自分であることからは決して逃げられない。おそらく、吐く息が止まる日までは。


***

 許されるなら、触れたかった。独歩の前を歩く彼女を、後ろから抱きしめたかった。すらりとしたスーツを着こなす彼女は、驚くだろう。それでもそのまま、腕の中に閉じ込めてしまいたかった。そのまま、二人でいたかった。どこにも行かないで欲しかった……


「……観音坂君!」
「えっ、あ、はい!」

 またぼんやりと、心の中に彼女の残したものをなぞっていると、大きな声が降ってくる。パソコンの前に座って、画面を見つめていた独歩だが、どうやら誰かに話しかけられていたようだ。慌てて立ち上がると、そこにいたのは独歩の苦手な課長だった。一瞬で口の中に湧き上がった苦味を押し殺しながら、課長に向き直る。

「すみません……その、一体、なん……でしたでしょうか」
「……はぁ」

 課長は大げさにため息をつく。吐いた息がジリジリと独歩の神経を焼くようで、必死に笑みを浮かべようとした。

「例の案件は滞りないのか? あー、あの、新宿中央病院の」
「はい、今月末に機材を搬入することでまとまりました。今、報告書を作成しています」

 課長の目が一瞬、見張られたことに、独歩はちいさな快感を覚える。まさか独歩が、それなりに大きい金額を動かすような契約を取るとはついぞ思っていたなかったに違いない。この課長は、独歩に期待をかけるということをとうにやめていた。もう何年前かはわからないが、新卒から時を経るごとに、自分に向けられる視線というものはわかってくる。同期と比べればなおさらだ。

 それでも、独歩は、ここ一年ほどで結構な数の契約を取っていた。結構な、とはいっても、勿論一番のエースとも呼べる先輩の足元にも及ばないが。少なくとも今までの独歩からは考えられない程度には、というところだ。

「そうか……だったらぼうっとするのは辞めて、しっかり仕上げたほうがいいな。また書類不備で契約破棄になったらどうする」

 ……しかし、課長の目には、いつだって独歩の努力は映らない。過去の失敗ばかりがそこにあって、独歩を決して認めてはくれない。ぎゅっと握りしめた拳はデスクで見えないだろうが、独歩は必死な作り笑顔で、「ははは……」と周りに合わせてみせた。

 確かに、独歩は出来が良かったとは到底言えない。契約がうまくいかなかったことも、担当を変えてくれと言われることもあった。課長がたびたび口にするように、書類の不備が元で騒動を起こしたこともあった。それでもそれは入社から数年のことで、今となっては過去の出来事だ。今の独歩は違う。昔よりは、ずっと上手くやれているはずだ……苦情も言われないし、契約も取れる。数年の経験で、それなりの振る舞い方も身につけた。確かに元から営業職は得意ではなかったのかもしれないが、今は全くの役立たずではないはずだった。

「すみません、気をつけます……」

 それでも独歩は、頭を垂れて、課長の望む言葉を吐き出すしかない。何を言っても無駄だ。どう努力しても、どんな成績でも、課長の目には独歩は、いつまでも出来の悪い部下なのだ。どれだけ成果を出そうがこれか、と思うと馬鹿らしくなる。いつまでも過去の出来ない自分として扱われ続けるのならば、どうしてこんな仕事を続ける必要があるのだろう。

 わかっている。すべて、独歩が悪い。独歩は、雑談などで話しかけられてもうまく対応できない。なんと返せばいいのかわからないうちに、畏まったままで終わる。コミュニケーションが苦手で、周りの同僚たちとも仲が良いとは間違っても言えない……本音を見せず、自分の内側に閉じこもっている、とは何度も下されてきた評価だ。そういう人間ほど、周りを信頼していない、何を考えているのかわからないとされて、扱いづらく悪いところばかり目につきやすいのかもしれない。

 それに加えて、成績も課長の望む基準に応えられていないのだろう。まだ十分ではない。それだけの話だ。そう思うものの、やはり評価されないままで努力を続けるのは虚しい。生きていくため、給料をもらうためとは言え、取引先を回り、希望などをヒアリングして、機材についても勉強し、業者ともやり取りをする。それに伴う事務仕事を行い、必要な経費の申請をして……そのすべてが、独歩には苦痛だった。

 息苦しい。独歩は、課長のため息や、去っていく足音を、頭を下げたままで聴きながら、無性にネクタイを解きたくなった。呼吸が出来ない。こんな場所で生きていきたくない。何度もそう思ったけれど、独歩は結局はここにいる。それは呪いのためでもあったし、独歩が臆病なせいでもあった。独歩は、もう三十になろうという歳だ。転職をするにも、厳しくなり始めている……しかし、このまま同じ日常を繰り返して生きていくのか、と考えていると嫌になる。どこかに行きたい。どこにも行けない。もう、目が覚めたら世界が終わればいい。願ったところで、この世界は死ぬことはないけれど。

「中王支社から査察が入るまであと少しだからな……みんな、それを肝に命じてミスがないことを第一に努めるように」

 どことなく、課長自身もピリピリとしているようだったが、それが原因か。確かに、月初のミーティングでも話が出ていたが。H歴となってしばらく、この会社も支社を中王区へと置いていた……上層部にも女性がかなり増えたということだ。反比例するように、この社では女性の数は少ないが。

「誰が来るか決まりました?」
「ああ、ここには名字君が来ることになったよ。それで随分と気は楽になったが……」

 課長と主任の会話が聞こえる。その中から彼女の名前を拾った途端、独歩の思考は止まった。名字――名字名前。独歩の脳裏には、また、その笑顔がよぎる。残り香が胸をくすぐる……柔らかい頬に触れた指先。まるで五感がバラバラになったように思い出しながら、独歩は、その事実を噛みしめる。

 彼女がこの社にやってくる。つまり、名前に、また会える。

「……中王支社の名字さんって、社報でよく見る名前ですけど。もともとここに居た人なんでしたっけ」

 独歩の目の前のデスク、まさに名前の後にその場所に収まった新卒の後輩が、好奇心を抑えきれない様子で隣の席の同期に問いかけた。同期の彼は、いつものように曖昧に笑って見せながら、無知な後輩の好奇心をあやす。その笑顔は、多分、本人が願うようには優しげには見えないが。

「そ。H歴が始まって、どデカイ壁ができて、中王区に支社を作るって時に引き抜かれてったんだよ。もともとはお前の席に座ってたかな」

「はあ、そうだったんですね……自分はお会いしたことはないですけど、引き抜かれるくらいすごい人だったんですか」

 当たり前だ。そうでなければ、中王支社に連れていかれるはずがない。独歩は、心の中で一人思う。名字名前は、独歩にとっての憧れで、目標だった。彼女の気配りや、ヒアリング、聞くものを引き込むような巧みな話術は、まさしく営業としての一つの理想の形だった。

「ったり前だろ。女で初めてのプロジェクトリーダーとか主任までやった人だよ。お前もあの人から引き継いだ取引先から言われたことないか? 名字さんによろしくって」
「ああー、言われてみれば……すごいですね、三十ちょっとで中王区住まいなんて」

 新卒の後輩は、間抜けにそう言った。彼女の抱えていた取引先は、いくつか後輩も引き継いでいる。その上での返答はいかにも無関心なものだったが、それでいいとも独歩は思う。彼女のすごいところも、脆さも、何もかも、自分だけが知っていれば良いからだ。

 静かにキーボードに数字を打ち込んで、独歩は思う。テンキーを使いながら資料に視線を落として、こう言ったやり方を教えてくれたのも彼女だった、と思い出す。

「ま、その辺りは観音坂の方が詳しいわ。名字さんが教育係だったし、ずっと直属の上司と部下だったからな」
「……別に、それだけの話だけど」

 話が振られたので、淡々と返す。名前のことを、わざわざ誰かに話す気にはならない。どうせ、ここにいなくなっただけで忘れていくだけの人間に、教えてやる義理もない。心のうちで仄暗い満足感を覚えながら、独歩は数字に間違いがないかどうか繰り返して見ていく。セルの調整の仕方、これも名前に教わった。見やすい書類や報告書の作り方、電話の仕方、挨拶の仕方……そのすべてを、名前が独歩へ教えてくれた。

「またまた、名字さんの送迎会で泣いてたじゃん、観音坂」
「ええっ、観音坂さんが?」

 ――ひたり、と指が止まる。その日のことは、独歩の中では触れられない禁忌に等しい出来事だった。

 後輩の視線を感じて、顔を上げる。その目に輝くのは、何も知らない人間の好奇だ。付き合ってやる義理はない、と思いながらも、独歩の頭の中では再び、あの日のことをなぞりだす。


「社に入った時からの上司だったし……世話にもなったから。すごい人だったと思う、たくさん、勉強させてもらったし、……」

 祝いの酒の席のはずなのに、独歩はちっともうまくない酒を味わった。高い酒だと言われていたけれど、楽しめるわけがなかった。名前が、遠くへ行くことを喜ぶ席になんて、一秒だっていたくはなかった。

 ただそれで、名前を悲しませることを恐れただけだ。これが最後になるのなら、一心に名前を見つめていたかった。嬉しそうに笑い、労いの言葉に礼を言い、これからの激励に神妙に応えて見せていた、名前の横顔。思い出すのは、名前のことばかりだ。送っていくという独歩の言葉に嬉しそうにした名前。夜風に涼しそうに目を細める名前。

 どこにも行くな、と肩を掴んだ独歩を、驚いたように見つめ返す名前。

「本当はもっと、いろんなことを教えてもらいたかったけど……」

 誰も知らない。独歩の本当の気持ちも。あの日、送迎会の後に起こったことは、二人だけの秘密だ。きっと誰にも、明かすことはない。


***


「行かないでください、名字さん」

 自分があまりにも泣きそうな声を出していることに、独歩は情けなくなった。ちがう。こんなつもりじゃなかった、という言葉が頭の中で渦を巻く。まるで言い訳でもしてるみたいに。

 想像では違った。もっと、華麗に、言ってのけるはずだった。肩をつかみ、腕を引き寄せ、そのまま抱きしめてしまえるはずだったのに。

「……か、観音坂くん?」

 名前の手が、恐る恐ると言ったように独歩の腕に触れる。それだけでも、体が跳ねた。情けない。顔が赤いのが、自分でもわかった。

 当たり前だろ、と独歩は何処かの誰かに向かって叫び出したくなる。ずっと想っていたんだ。憧れていたんだ。その人に触れて、見つめられて、そして触れられて。それだけでもう、たまらない気持ちになることを、誰が責められるだろう。

 名前の目が、独歩を見ている。そこにあるのは困惑と、そして独歩には計り知れない何かだ。何を想っているのか、知りたかった。名前はいつも独歩の先を行き、独歩を導いてくれる。独歩の失敗だって、笑顔でカバーしてくれた。社会人として、営業として、必要なことをすべて教えてくれた。

「好きです、名字さん。ずっと、あなただけが好きでした」

 ずっと、名前だけを見ていた。憧れと恋慕がいつのまにか混ざり合って、どうにもならないところまで来てしまった。口に出して仕舞えば後戻りはできないと知りながら、独歩は何度も繰り返す。好きです、と、何度も。

 夜のシンジュクの街は、ネオンや街灯によって煌々と輝いている。人通りは少ない道の中で、二人。車がガードレール越しに二人の横を通り抜けて、その風やガスが名前の髪を揺らした。

「行かないでください、どこにも行かないで……」
「観音坂くん、酔ってるのね」

 首を横に振る。酔っている、ことは間違いではない。酔わなければやっていられなかった。叫び出しそうだった。そして逃げ出したかった。どうしてどいつもこいつも、喜ばしいことのように振舞っているのか理解に苦しんだ。

「中王区に行ってしまったら、もう会えなくなる……そんなの、嫌だ……俺は」

 わかっている。栄転だ。社会的に見れば、素晴らしいことなのだ。中王区に支社を構えられるということも、そこで確かなポジジョンを得て、勤めることができるということも。

 今や中王区は、絶対的な権力を確立している。女性のみが政治へと参加し、もはや男性にその力はない。社会制度としても同じこと。壁に囲まれた、堅牢な、女たちの城。そしてその中王区に入ることが許されるのはほんの一握りの、女性に限られる。

 彼女が抜擢されたのは当然のことだった。それだけの結果を残しているし、今後のキャリアも約束されていた存在だ……そして中王支社には、女性しか入れない。中王区自体が、女性だけののものだからだ。

「好きだ、名字さん……名前さん。あなたをどこへもやりたくない。俺の手が届かないところへ行かないでくれ」

 中王区に勤めるからには、住まいも中王区になる。その申請をした、と名前は話していた。ギリギリで申請が下りた、とも。そしてとうとう、新しい住まいを見つけたと笑っていた。そこに行ってしまえば、もう二度と、シンジュクには帰ってこないかもしれない。そうしたらきっと独歩のことも、忘れてしまうだろう。

 胸にこだまする悲しみに負けるように、ついに独歩は、名前を抱きしめていた。ずっとこうしたかった。頭にあるのはそれだけで、嫌がられてしまったらとか、言っていないだけで恋人がいるのではないかとか、そう言った考えは吹き飛んでいた。いつも独歩の頭を押さえつけていたものが全てなくなって、晴れやかな気持ちだった。今なら、なんでもできそうだと、独歩は思った。

 このまま、名前を奪って逃げてしまおう。遠くへ逃れて、そこで二人で暮らそう。名前がいれば、独歩はどこへだって行ける。一二三のことは心配だが、きっとわかってくれる。大丈夫だ。

 そう思いながらも、もちろんそんなこと叶うわけがないことはわかっていた。名前を連れて逃げて、それからどうする? 社会的な立場を失えば、名前を満足に守ることもできなくなるだろうに。名前を不幸にしたいのか、と言われればそうではない。そうではないのだ。

 ただ、名前を失いたくない、それだけなのに。

「……酔ってるのよ」
「違う!」

 ゆるゆると背中に回された手は、あやすように独歩を撫でる。名前は、おとなしく身を任せていた。ひょっとすると、振り払われるかも、逃げられてしまうかもしれない、と心の片隅で思っていたが……もちろん、逃がすつもりはなかった。このまま力を込めて閉じ込めてしまえば、名前は逃げられない。歪んだ思惑を知りもせず、名前は静かに、ため息をついた。

「酔ってる。私たちは酔ってるの。そういうことにしましょう」

 囁くような声が、溶けていく。独歩にしか届かないまま……彼女らしくもない振る舞いだった。いつもよく通る声でしゃべる彼女が。何故、と思う前に、名前が独歩から体を離す。
 その目にあったのが、戸惑いだけでなかったことに気づいた時。独歩は驚きとともに、息を呑んだ。

「観音坂くん」

 まるで、大切な誰かの名前を呼ぶように、独歩を読んだ名前は、それきり沈黙した。独歩がキスをしたからだ。もう何も言えないように、呼べないように。誰のことも。

 ああ、今、世界が終わってしまえばいい。彼女が口にする最後の言葉が、独歩の名前であったらいいのに。それがきっと、この世でいちばんの幸せだ。泣きそうになりながらも、独歩は強く、名前を抱きしめた。


***


 誰にも言わないで、と彼女は言った。だから独歩は、今もその秘密を守っている。

「必ず戻ってくるから……観音坂くん、あなたのところへ」

 独歩を抱きしめて、名前は囁いた。あれほど朝が来なければいいと思ったことはなかった。朝になれば、すべてがなくなってしまうような気がして。安いホテルのシーツに沈む名前を、独歩はいつまでも抱いていたかった。それが叶わないのなら、朝よ来ないでくれ。ひたすらに願い、その日はずっと一緒にいたのだ。今となっては、遠い幻のような記憶ではあるが。

 それでも、たしかに独歩は名前に触れた。名前に愛を告げ、名前もそれに応えた。甘い記憶は、時間が経てば経つほど、独歩の心臓を締め付けるばかりだ。

 不思議なもので、一度でも手にしたものだからこそ、こんなに焦がれてしまうものなのだろう。手に入らないままであれば、いずれは別の欲望に紛れ、そのまま消えていっていたのかもしれない……うつくしい思い出に成り代わって。


 独歩は、もう終電に近い電車に滑り込むようにして乗り、帰路に着いていた。あのあと仕事は思うようにははかどらず、つい名前のことばかりを考えてしまった。こんな独歩を知れば、彼女は叱咤するだろう。

 けれど、叱咤でも、なんでもよかった。名前の声が聞きたかった。名前の顔を見て、その存在をすぐそばに感じたかった。

 また駅に着き、ぎゅうぎゅうと押し込まれるように人が乗り込んでくる。独歩は自分を守るようにカバンを両手で、握りひたすらにドアの横で耐える。目を閉じながらも、いつもより世界に絶望していない自分に気付かされた。なんだか、こんな電車でさえも許せるような、そんな気がしたのだ。

 それはきっと、もうすぐ名前に会うことができるからだった。中王支社から査察でやってくるという事実は、独歩の胸を躍らせていた。無味乾燥な会社での扱いも、電車での煩わしさも、すべてがどうでもよく思えてしまいそうなくらいに。
 電車に揺られながらも独歩は、密かに決心をした。今晩、名前に電話をしようと。いつもいつも、悪い想像ばかりしてしまって、通話ボタンを押すこともできなかった。ひょっとすると、全部が夢だったのではないかとか、電話をすることで名前の迷惑になるのではないかとか……他に、だれか恋人ができたりしたのではないか、とか。考えても仕方がないことだったが。

 それでもよかった。もう一度名前に会えるなら。恋人ができても、迷惑でも。独歩は今でも、名前を愛している。名前のことだけを想っている。伝えられたら、もうそれでいいかもしれないし、今度こそ名前をさらって逃げようと思うかもしれない。どうなっても構わないのだ。


 なぜなら独歩は今も、その愛に呪われている。忘れられない愛に。

「あなたが好きよ」

 そう甘く囁いた名前の声を思い出しながら、独歩は、ただ目を閉じる。何度も思い出し、何度もなぞった、あの一夜の記憶。名前が幸せそうに笑いながら、涙した瞬間のこと。


「ずっと、あなたが好きだった……」

 独歩は何度だって、俺もです、と返すだろう。もう名前が独歩を愛していなくても。その言葉を、あの夜を、想うだろう。忘れることを忘れたままで。それが独歩の愛だ。

 ――だからきっと、この呪いを解くことができるのは、名前しかいない。独歩は揺れ続ける電車の中で、静かに目を開けた。そして、静かに微笑む。誰にも知られないその笑みは、ただ一人だけに向けられ、そして消えていった。