「名字です。入ってもいいですか?」

 院内に人影はほぼなく、軽いノックの音でさえやけに響いた。鞄を置いてから中にいる人の気配に全神経を集中させる。耳を澄ませても何も聞こえなかったのだが、突然誰もいなさそうな部屋からガタンと大きめの物音がした。

「……寂雷先生?」

「待っていたよ。どうぞ、座って」

 真白の扉を開けると穏やかな声で迎え入れられる。前に会ったのはちょうど一ヶ月前だった。まだ最後に会った日からさほど時間は経っていないのに、久しぶりに会ったような気持ちになってしまうから不思議だ。
 寂雷先生は椅子に腰掛けて、両腕にたくさんの書類を抱えている。大きな物音の正体は床に落ちたリングファイルだった。それを拾う先生の肩口から滑り落ちる髪にしばらく見とれていた。先程から机の整理をしていたのだと話す彼は、残りの書類を引き出しにしまおうとして身を屈めている。白衣の裾が揺れる度に良い香りが鼻腔をくすぐっていく。ただ、先生は香水を振りかけて仕事をするような人ではないから私の気のせいかもしれない。

「お仕事、いいんですか」

 机の上に散らばっている資料や本が気になって思わず尋ねてしまう。診療時間が既に終わっているとはいえ、他の仕事も残っているに違いない。お医者さんは忙しいのだ。仕事の邪魔だけはしたくなかったのだが、先生はひらひらと手を振ってから、転がっていた筆記具をペン立てに戻す。それから口元を手で隠して欠伸をした。
 私に気を許してくれているのが伝わってきてくすぐったいような気持ちになる。彼が患者さんや職場の人の前で大きな欠伸をするとは思えない。

「ああ。やるべきことは早くに片付けてしまったからいいんだよ」

「先生、もしかしてちょっとお疲れだったりします……?」

 邪魔をしてしまったかな。タイミングが悪かったのかもしれない。今日は早めに帰った方がいいかな。来て早々に帰ることを考え始める私を前にして、先生は一瞬きょとんとしてからかぶりを振った。

「部屋の中が妙に暖かくて眠たくなってしまうんだよね。疲れているわけじゃないから大丈夫」

 人によっては、この空間にいるだけで落ち着かない気分になるらしい。私も、他の病院であったならここまで長居していない。待合室で自分の名前を呼ばれるのを待っている時間も、診察室に入って医師と対面する時も、少なからず緊張するものだろう。相手が寂雷先生でなければ、余計な話をする気なんて起こさずにさっさと退散している。
 詳しく話すと長くなるが、先生は命の恩人だ。どれだけ感謝してもし足りないほどお世話になった。治療が一通り済んで通院する必要がなくなってからも、診療時間が過ぎてから退勤するまでの間にわざわざ時間を作って、私がこうして会いに来ることを許してくれる。

「体調はどうだい」

「ん……普通です。可もなく不可もなく?」

「どうして疑問形なのかな?」

 毎日同じことの繰り返し。疲れは当然溜まっている。元気が有り余っているとは言い難いが、食欲がなくて困るということはない。夜もきちんと眠れている。良くもないが決して悪くもないと答えると、先生は喉を鳴らして笑っていた。それなりに元気そうでよかった。名前さんは何でも正直に話してくれるから嬉しいよ。褒めているのか、面白がっているのか、どちらとも言えない感想を述べて口元に長い指を押し当てている。

「最近、風邪が流行っているから心配していたんだ。朝晩は特に冷えるだろう。名前さんは寒がりだから余計に」

 私の知らないところで、先生が私のことを考えていてくれる。たったそれだけのことで嬉しくなって、耳の奥に響く鼓動が少し駆け足になる。緩んだ表情を見せたくなかったので、静かに俯いて服の裾を握っていた。きちんと顔を見て話をしたいのに平静を保っていられる自信がない。真正面から向かい合った時に、つい俯きがちになるのは私の悪い癖だ。

「先生も気をつけてくださいね」

「寝込んだら医者の不養生だと笑われてしまうな。気をつけるよ」

「別に笑ったりしません。だって、先生はお仕事休めないでしょう。具合が悪くても無理してそう。前だって、首を痛めたって言ってたのにずっと働いてたし」

「……否定はしないけど、私はこう見えて丈夫なんだよ。そんな顔しないで」

声や表情が目に見えて変わったわけではない。だが、こちらへ向けていた眼差しが、不意に甘い熱を帯びたような。そんな錯覚に陥る。診察室を満たす空気が変わったと感じた。彼は目尻を下げて、すらりと伸びた指先で私の頬に触れた。形の良い唇は弧を描いている。
 好かれている自覚はある。寂雷先生からの特別扱いを、当たり前のものだと思えるほど私は傲慢ではない。大切にされているということは痛いほどに伝わってくる。しかし、それが恋愛感情に結びついたものだと言いきる自信はなかった。いっそのこと、口に出してくれれば応えようがあるのに、勘違いをしているのではないか、自意識過剰になっているのではないか、と疑う気持ちが前に出てきてしまう。これで「君のことは特に何とも思っていないよ」などと言われたら死にたくなるだろう。あまりにも居た堪れなくて。情けなくて、恥ずかしくて。

「長くなったね。これから先も伸ばすのかい?」

 頬から離れていく指先を名残惜しく思う暇は与えられなかった。勝手に嫌な想像をして消え入りたくなっていた気持ちがあっという間に霧散する。

「えっと」

「髪、伸ばさないの」

 重力に従って垂れた髪の束に触れられて心臓が高鳴る。必要最低限の手入れしかしていないのに、先生はいつも私の髪を綺麗だと言って褒めてくれていた。大好きな人の指先から、自分の髪がさらさらとこぼれ落ちていく様を眺める。好意を寄せる相手に己の一部を愛でられて嬉しく思わない人間などいるのだろうか。

「手入れできなくなったら切るけど、せっかくだからまだ伸ばすかも……」

「そう。短いのも可愛らしくて好きだったけどね。君はどちらでも似合うと思うよ」

 他愛もない会話の隙間、髪を撫でていた手でさり気なく耳にも触れられて、どんな顔をしてされるがままになっていればいいのか分からなくなってきた。笑うのも難しい。無表情を貫くことも難しい。この十数分でいろいろなことが起こって処理しきれていない。わざとかもしれないし、そうではないかもしれない。普段よりも近い距離で話をしているからか、膝が先生の足とぶつかりそうになる。

「先生はこういうこと他の人にもするの……?」

 私にだけですか。他の人にはしていませんよね、とはさすがに言えなかったが、その一言に込められた感情は大して変わらない。
 あまりにも直接的で、恥じらいの欠片もない問い。愛しそうに髪を弄んでいた指を離して、先生は一瞬返答に迷ったのか、改めて私と向かい合うように椅子の向きを変えた。咳払いをしてから何でもないことのように笑ってみせる。

「どうだろう。でも、君が考えている通りで間違いないと思うよ」

「…………」

 人一倍臆病な私が、意を決して放った質問の答えとしてはどうなのだろう。彼の返答は正しいものなのだろうか。はっきり言ってくれればいいのに、先生の言葉はやたらに私の想像力を試して掻き乱していく。他人の恋心を弄ぶような人ではないと思いたいが、遊ばれている可能性も決してゼロではないと、薄暗い予感がふと脳裏をよぎる。

「全然分かりません。教えてくれませんか」

「え?」

 てっきりいつも通りにかわされるのだろうと決めつけていた私は、ここに来て初めて動揺を見せた先生の姿に戸惑う。彼が大きな声を出すことなんて滅多にない。聞き返されてこちらも面食らってしまった。

「受け持ってる患者さんの中には、今の私みたいに先生に会いに来て話をしていく人もいるんですか。二人きりで、お仕事で会うのとは別に……」

 頭を撫でたり、髪を掬って弄んだり、同性でも異性でも先生が私以外の誰かに触れているところなんて想像したくなかった。想像するも何も、先生が不特定多数の人にこの距離感で接しているとは思っていない。自分で聞いておきながら、まずあり得ないと心のどこかで思っている。だから、一刻も早く本人の口から否定してほしかった。曖昧な言葉で濁すのではなく、しっかりと断言してほしかった。君にしかしていないよ、と。

「……ごめんなさい。変なこと聞いて。今日はそろそろ帰ります」

「あのね、名前さん。とっくの昔に分かっているんじゃないかって、勝手に考えていたんだが……私が勘違いしていただけなのかな」

 空白の時間に耐えられなくなって逃げ出そうとした私を引き止める声。勘違い。もやもやと煙のごとく漂っていた言葉を、まさか先生の口から聞くことになるなんて。
 帰り際になって小さめの爆弾が落ちてきた。次に何を言おうか頭を悩ませる私を見据え、躊躇いがちではあったが先に口を開いたのは彼の方だった。

「違うなら違うと言ってほしいんだけど、君がここに来る理由というのは、通院していた頃の名残だったりするのかい。習慣というか……それとも別の理由があって、こうして会いに来てくれるのか」

 不安げに歪む表情を目の当たりにするまで確信が持てなかった。お互いに同じ気持ちでいることを認めきれなかった。最後の方は聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、独り言のように呟いて眉を下げる。

「ご迷惑でしたか?」

「迷惑だなんて思ったことは一度もないよ。名前さんが顔を見せてくれるのも、近況を報告してくれるのも嬉しい。会いに来てくれてありがとう」

 吐露した感情とは裏腹に顔はあまり晴れやかではない。不可視の感情に嬲られ、ひたすらに耐え忍んでいるかのような痛ましさを、整った横顔にありありと滲ませていた。私が真っ直ぐに見上げると、いつだってこの人は笑ってみせるのだ。今日に限っては苦しそうな表情が隠しきれていなかったが。

「長く引き止めて悪かったね。君も遅くなる前に帰らないと」

「あの、先生」

 先生はゆっくりと立ち上がると、待合室へと向かう扉に触れる。勘違いではない。決して勘違いではなくて、貴方の胸に渦巻くものを言葉で示してほしかっただけなのだと、言い訳を喉の奥に押し込めて私もつられて立ち上がる。白衣の広い背中と流れる髪を見つめ、か細い声を必死に喉の奥から絞り出した。振り返った先生がそのままの体勢で動きを止めた。

「勘違いじゃないです。先生が考えている通りで間違いないです。会いに来る理由もそう。何もかも」

「なるほどね。そんな言われ方をしたら、私にとって都合の良いように受け取ってしまいそうだ」

「先生……いえ、私は寂雷さんのこと」

 ずっと、ずっと前から好きだった。触れたいと思うのも、触れられたいと思うのも、先生だけ。大した用事もないのに会いに行く理由なんてたった一つしかない。台詞の続きを飲み込んで、静かな湖面をそっくり写し取ったような瞳を見つめる。私が胸の内を打ち明けるものだと思っていたのか、途切れた声の後から沈黙の時間だけが長く続いて、先生はますます困ったような顔をする。続きを促すこともせず、相槌を打つこともせず、私と揃って黙り込む。
 言葉の重みを誰よりも知っている彼だから、安易に己の感情を打ち明けてしまうことへの躊躇いは確実にある。私よりもいろいろなことを考えて、迷って、葛藤しているはずだ。それなりにある年の差も、互いの立場も、この感情の前では大した壁にはなり得ないと感じるのは私がまだ子供だから。先生はきちんとした大人だ。感情のままには動けない。きっとそう。

「……名前。数分だけでいい。少しの間で構わないから時間をくれないか」

「時間、ですか」

 開きかけていた扉がゆっくりと閉まっていく。取っ手にかけられていた右手は、自分のものよりずっと大きな手のひらに囚われてしまった。視界が陰ってあっという間に薄闇に包まれる。抱き締められているのだと気づくまでに数秒かかって、慌てて顔を上げようとした時に、背中に回された片腕がほんの少しだけ震えているのを感じ取った。先生は口を開かない。胸の下に頭を寄せるような格好になるので、呼吸をする度に触れ合った部分から先生の体温が伝わってくる。どれだけ時間が経っても、今日は抱き締める以上のことをするつもりはないのだろう。そのことに拍子抜けする一方で、ゆったりと進展していく関係に安堵している自分もいた。
 彼が選んだ精一杯の愛情表現を、私は静かに受け止めることしかできない。拒絶しなかったのが私なりの答えなのだと理解してほしかった。温かな腕に抱かれて目を閉じていると、ぽつりと独り言のような問いかけが降ってきた。

「こんなことを、私が他の誰かにしていると思っているのかい」

 無言で首を横に振ると、抱き締める力がほんの僅かに強くなる。数分だけでいいとは言われていたが、叶うならずっとこうしていたかった。先生は本当にずるい人だと言いかけてやめる。ずるいのも臆病なのもお互い様だから。