「逃がすか」

走るために必死に振った腕を呆気なく掴まれて、そのまま後方へ。ぐん、と一気に重心が後ろにかかってバランスが崩れた。後ろに倒れる身体は、ぽすん、という間抜けな音を立てて、思ったよりも優しく受け止められる。息を切らしがらも右斜め後ろをゆっくりと睨む。そんな視線を臆する仕草など少しも見せないレンズの奥。切れ長の青がこちらを見下した。

「離して」
「離すわけねぇだろうがクソガキ」

そんな視線にも負けないよう睨み続けながら口を開いたが、容赦ない拒否にすんなり心が折れる。負けないように、などと思っている時点で負けなのかもしれない。知的な容姿からは考えられないほど汚い言葉遣い。視線を交えたまま口を開いた彼は、怒りを孕んだ少し低い声で囁いた。

「次に駄々をこねたら連れていきますよ」

貴女のいるべき所にね。そう続いた言葉は私の思考を停止させるには十分すぎるほどの威力を持っている。思わず身体が強張った。羽交い締めにされたまま、まるでロボットが電源をオフにされて、意識を失ったかのように、私は力なく俯く。
いるべきところ、それが何を指すのか。それは私が一番良く知っている。
ごく、と音を立てて唾を飲み込む音が生々しくこめかみの後ろで響く。鬼ごっこを始めた時点でこちらの負けだった、と、すっかり白旗を揚げたおとなしくなってしまった私を見た彼は、大きなため息を吐き出した。

「ったく……手間をかけさせないでください」
「ごめん、なさい」
「……急にしおらしくなられると、それはそれで反応に困りますね」

立て、と言わんばかりに体を前に押されて、ふらつきながらも自分の足で立つ。まだ逃げると疑われているのか、手首は掴まれたまま確保されている。うつむいて地面を放心状態で見つめていると、また銃兎はため息を吐いた。

「……何回目ですか」

それは、ひどくひどく呆れているが、なんとなく慰めを孕んでいた声だった。

「……8回目」
「……貴女は、前回、俺が言ったことを覚えていますか」

一度目はあの人に見つかって、それはそれはひどい仕打ちを受けた。もうとっくに治ってしまった傷が痛むような気さえするような、そんな行為を思い出すだけで、何度でも背筋が寒くなった。
そして二度目に逃げたのは月に一度の大会の後夜。祭り事に浮かれた街並みを走り抜けていく私は、目的地――この狭い檻のような区画の出口を目指して今日のように走っていた。解放される喜びを胸に抱き、見えてきた出口に向かって地面を蹴ったその瞬間、突然掴まれた手首への感触をいまだに覚えている。驚愕と恐怖と絶望で心臓が止まるかと思った。ゆっくり振り向いたのか、はたまたスローモーションだったのか記憶は定かではないが、今日より冷たい青が私を見据えていたことだけは鮮明に覚えている。
それから何度か脱走を試みたが、悉く彼に捕まっている。

「ベビーシッターじゃないんですよ、私は」

お守りをしなければいけない人間は一人で十分だ、などと苦い顔で呟く。私のように何かと面倒を見ている人間がいるのだろう。手間なら、逃してくれればいいのに。

あれよあれよと言う間に手を引かれて、彼の愛車の助手席に乗せられた。エンジン音が鳴った後に、静かに車が走り出す。音楽もラジオも流れていない静かな車内の空気は、タバコの匂いと車の独特の匂いが混ざっていて少し癖があるが、不思議と嫌いじゃない。
ちらりと右目で銃兎を盗み見る。整った横顔、ただただフロントガラスの先を見つめるその視線を見るのは、7度目。

「戻りたくないな」

そんな彼を見ていたら、ふとこぼれた言葉だった。

「駄々こねたら連れてくって言っただろうが。ワガママ言うんじゃねぇ、ガキか」
「クソガキって、言ったじゃん」

屁理屈言うな、と低い声で言われる。しかし、残念ながらそろそろ慣れてきた。私は銃兎は何だかんだ優しいことを知っている。一度私が逃げたときにされた仕打ちを知っているからか、はたまた逃したということを知られたくないからか、あの人に私が逃げたことをわざわざ報告しない。その代わり、あともう一歩というところで私のことを連れ戻すのだ。

「痛いのはもう嫌だもん」
「……貴女がこうして逃げるから苦痛が及ぶんでしょう」

至極、ご尤も。しかし逃げなければ精神的苦痛が及ぶ。あの人は私のことを都合のいい道具だと思ってる、という旨をほとんど独り言のように話し続ける。そんな話を聞いているのかいないのかわからない銃兎は、ただただ黙って車を走らせる。

「……自由になりたい」

無意識に呟いた。赤信号なので停車して、右折のためにウインカーを出しているので、カチコチという機械音だけが静かな車内に鳴り響く。銃兎は以前黙ったままだったが、少し間をおいて口を開いた。

「私からしてみれば外に出るほうが、自由を失うと思いますが」
「どういう意味?」
「そういう世間知らずなところが、区画外では危険ということです」

深夜の静かな車内という雰囲気もあってか、どこか気の抜けた声で結論を出した銃兎の横顔をもう一度盗み見よう視線をやると、目があった。なぜなら、彼もこちらを見ていたからだ。思わずびくっと肩を震わせたが、彼はつまらなさそうに前を向く。

「これ以上私の仕事を増やさないでください」
「……次は絶対捕まんないようにするね」
「それをやめろって言ってんだろうが」

いたって真面目に逃走宣言をする私に、本日何度目かのため息をつく。見慣れた道が、建物が見えてきて、少しだけ胃の奥が気持ち悪くなった。

私が逃げようとするたびに彼はきっと何度でも捕まえにくる。私の望みを打ち砕くように、最後の一歩手前でこの手首を握る。今みたいに。
駐車場から上の階につなぐエレベーターの中。こんなところでどこへ逃げると思われているのか。思わず笑うと怪訝な視線をやられる。掴まれた手首を見つめながら「いっそ2人で逃げようよ」なんて冗談めいた声で言うと、銃兎は「すでに共犯者みたいなもんだろうが」とめんどくさそうな返事をした。

私たちが本物の共犯者になるのは、もう少しだけ先の話。