※設定が明らかになっていない箇所については捏造しています


H歴、新しい歴史の始まり。武力による戦争は根絶され、それに代わって開発されたのが精神に干渉出来るヒプノシスマイクという特殊なマイクだった。同時に女たちだけで政を行う中王区が作られ、それは頑丈な分厚く高い壁で覆われた。そしてそれに伴うようにして日本全国で一斉に区画の整理が行われ、母の仕事の都合により私には壁の中───中王区行きの通達が出された。


「いやだ、やっぱり行きたくない…一郎、」
「名前。俺だってお前と離れるのは望んじゃいねえ…だが今は従うしかない。いつか絶対に、この壁をぶっ壊してお前を迎えに行くから」


中王区行きの日、恋人の一郎とそんな約束を交わした。なんの保証もない、ただの口約束だ。まだ寒さも残る三月の初め、二人で買った色違いのマフラーを身に纏いながらお互いの手を離す。
十六歳。これから二人でゆっくり大人になっていくと思っていた矢先に訪れた突然の別れ。悲しくないはずがなかった。悔しくないはずがなかった。───しかし私や一郎に新政府の大人たちが決めたこの決定を覆すだけの力や方法など当然あるはずもなく、壁の中に入った者は外部の人間との連絡手段の一切を断たれ、半ば無理矢理新たな人生を歩むよう強制された。それでも私は、いつか一郎が自分を迎えに来てくれると信じて疑わなかった。


『The Dirty Dawg』───ヒプノシスマイクを使ったテリトリーバトルに参加するチームの中でも一際異彩を放っていた、生ける伝説と呼ばれる名高きチーム。
私たちが離ればなれになってからすぐあとに、弱冠十六歳という若さでそのチームTDDに所属した一郎は瞬く間にその名を世間一般に轟かせていった。彼の輝かしいほどの活躍は連日の様にテレビのワイドショーで取り上げられ、そしてそれは中王区の壁の中にいる私にまで伝わっていた。


(この勢いがあれば、いつか本当にこの分厚くて高い壁を壊せるかもしれない……!)


初めて観戦したテリトリーバトルで一郎たちの圧倒的な実力を目の当たりにした私は、そう強く確信した。今は会う事はおろか連絡すらも取れないが、それもきっとそう遠くないうちに終わる。そしたらまた再び一郎と手を繋ぎ笑い合える日が来るに違いないと、テリトリーバトルを制した一郎を見た私は大いに喜んだ。

『───続いてのニュースです。人気ラップチームのThe Dirty Dawgが、今月末を持って解散するとの発表がありました』


しかし、全ての物事が上手くいくとは限らない。あれだけ世間を賑わせた伝説のチームTDDは、ある日突然理由も告げずに解散となってしまった。そしてそれは同時に、私が一郎の消息を知る術を無くすという事を意味していた。


*


時は流れ、H歴三年。
元TDDの各メンバーが再び新しいチームを組んだとテレビのワイドショーが騒ぎ始めたのを目にした私は、朝食の手を止めて思わず画面に見入る。各チームの詳細はテリトリーバトルの前日にお披露目となるらしく、一郎の名前はイケブクロディビジョン代表として挙がっていた。
親が政府に勤めているという友人に頼み込み、激戦となっていたテリトリーバトルのチケットをどうにか一枚確保してもらった。TDDが解散してから一郎の姿を見る機会を失ってしまっていた私は、この日が楽しみで仕方がなかった。


待ちに待ったテリトリーバトル当日。
ステージに上がった一郎を見て私は息を呑む。久しぶりに見た一郎は最後に見た時から背や髪が伸び、顔付きも随分と大人になっていた。しかし彼の瞳に宿る炎は健在のようで、私は心から安堵する。


(一郎。一郎、一郎、一郎───、)


マイクを掲げた一郎に私の心が踊る。胸の奥で燻っていた小さな熱が、音を立てて燃え上がる。今はもうお互い触れることさえ許されないほど遠い存在となってしまったが、この時私は一郎の気持ちや鼓動を確かに近くに感じていた。
マイクのスイッチが入れられ、ヒプノシススピーカーが起動する。独特なメロディラインが流れ始め、会場が沸く。
そして、それと同時に私も再び息を呑む。そうだ。彼の、一郎の伝説が今日再び、ここから始まるのだ。


元TDDの山田一郎が率いるBuster Bros!!!と、碧棺左馬刻が率いるMAD TRIGGER CREWのバトルは想像を絶するものだった。TDD時代とは違う、同等の実力を持つ者同士がぶつかり合う本気の潰し合い。
バトルは長らく拮抗が続いた。身に纏った衣服は所々敗れ、お互いふらふらになりながらも辛うじて立っている。元は仲間だった二人が今度はお互いの精神を傷つけ合っている。どちらかが死んでしまうのでは無いだろうかと思うほど激しいそのバトルに、私は唾を飲んだ。


そして、遂に雌雄は決した。
最終的にその場に残ったのは、私の想い人の山田一郎───ではなく、対戦相手であるMTCの碧棺左馬刻だった。


一郎が完全に両膝をついた途端、大きな歓声が会場内にこだまする。碧棺左馬刻が拳を上げれば客席の熱気は最高潮に達し、勝者である彼のMCネームが会場いっぱいに響き渡る。
私の周りにいたBBのファンは残念そうな素振りを見せながらも、しかし再び一郎の姿を拝むことが出来たという満足感からだろうか───どこか、嬉しそうな表情をしていた。
見渡す限りの笑顔。周りを見回せば、皆が笑っていた。それを目の当たりにした私は、まるで自分が間違って迷い込んでしまった異物であるかのような感覚に陥り吐きそうになる。ぐるぐると腹が変な音を立て、目眩がする。


(───…負けた、一郎が。あんな化け物みたいな人があと二人も居るの…?)


それを想像し、途端に怖くなる。あれだけ夢見ていたものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
一郎が勝つ未来。一郎が勝ってこの中王区の壁を壊し、再び彼と二人で手を繋いで歩くという未来。何十回、何百回と想像した幸せな未来は一気に現実味を失い、私の中から急速に遠のいていく。


「一郎、」


声にならない声で私がそう呟いた瞬間。
一郎はよろめきながらも再び立ち上がり、自らのマイクで「次は負けねえ」と短く言い残してその場を去って行った。そして、会場は一郎のその一言で再び大きな歓声に包まれ皆が一郎の名を呼んだ。その声色は、次こそはという期待に満ちたものばかりだった。


こうしてバトルは終わりを告げ、観客の大半が席を立ち出口を潜ったであろう頃。幾分か落ち着いた私はようやく立ち上がり、ふらふらと覚束ない足取りで出口へと向かう。自分の観客席から外へ出るための玄関口へはどこを通りどうやって向かえば良いのか、今の自分にはそれすら分からずただ目についた階段に向かった。そしてその階段が私を導いた先は、非常灯のみで照らされた寂しく薄暗い廊下だった。


(……道、間違えた)


相変わらず沈んだ調子のまま私がそんなことを考え元来た道を戻ろうと階段に向き合った時。
不意に、背後でがちゃりと扉の開く音がした。


「───行くぞ。二郎、三郎」


その声に私はびくりと肩を震わせた。聞き覚えのある声。大好きな、恋人の声。
振り返れば本物の一郎がそこに立っていて、私は咄嗟に側にあった女性用のお手洗いへと身を隠した。


(一郎だ…!)


一郎に会えたことの嬉しさと先ほどまでの暗く後ろめたい感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、私は思わず壁に寄りかかる。鼻先にツンとした刺激が訪れ目頭が一気に熱くなり、気付いた時にはもう、堰を切ったように涙が溢れ出していた。


「待ってよ兄ちゃん」
「一兄。待つ必要なんてないです。二郎なんて置いてさっさと帰りましょう」


続いて聞こえる二郎くんと三郎くんの声。ステージで見た彼らは、一郎と同じく最後に会った時と比べると随分と声も低くなったし、背も伸びていた。


「あの…。一兄、今日は僕たちが足を引っ張ったせいで負けてしまって本当にすみませんでした」
「兄ちゃん。俺、次は絶対に勝つ。勝って、兄ちゃんとこの中王区の壁を一緒にぶっ壊すんだ」
「ああ…お前たちがいると心強い。次は勝とう。───だが、今日みたいな無茶はもう絶対にすんじゃねえぞ」


そんな会話を聞いて、私は三人に気付かれないようお手洗いからそっと覗いてみる。
私のいる場所からそう遠くないところで、二郎くんと三郎くんの肩を抱き一郎が笑っている。


(───まるで、私の知らない人たちみたいだ)


ボロボロになりながらも笑い合うその三人を、私は知らなかった。
私が知っているのは、兄弟としての三人だけ。一郎が世話を焼き、それに甘える二人の弟の姿。
そんな彼らの姿を思い出し、自分だけが過去に取り残されたかのような疎外感に苛まれる。
あの日から私は取り残されたまま、過去の一郎を追い続けている。先ほど私が目の当たりにした弟たちを見る一郎の眼差しは、守りたいものを見るような優しい眼差しだった。
今の一郎は頼れる弟たちを仲間に迎え入れ、自分たちに出来る範囲で無理のない活動をしている。
私だけを見てくれていたあの日の一郎は、もういない。私と離れる前の一郎や、TDD時代のあの野望に満ち溢れギラギラギラした眼差しの一郎はもう───どこにもいないのだ。


「あっ…ごめん兄ちゃん、楽屋に忘れ物したっぽい」
「ったく…仕方ねえな、いくぞ」


二郎くんのこの言葉に、一郎たちは元来た道を引き返し再び部屋に吸い込まれるようにして戻っていく。
私はその隙にお手洗いから抜け出し、急いで階段を降り会場の外に出た。涙が止まらない。会場の外にはまだ沢山の人たちが残っており、私を見てヒソヒソと何かを話している。行き交う人皆が笑っている。満たされている。私だけが、救われない。


「……世界は救えるくせにね、」


玄関口に張り出された一郎の大きなポスターを見て、私はぽつり、そう呟く。


『───名前』


離れ離れになる前の一郎を思い出す。
もうあの声で、表情で、私の名を呼んでくれる一郎は永遠に失われてしまった。
二人で色んなところへ行ってたくさんの思い出を作って、嬉しい事や楽しい事、辛い事や苦しい事を共有する。そうしていつか結婚をして、子どもを作って笑い合う。
そんなささやかな幸せを望んでいただけなのに、神様はそれを一つすら叶えてはくれないのだ。


「っう…うぅ、うぅうっ………、」


頬を伝う涙が足下を濡らす。
力の入らなくなった手から一郎と色違いで買ったお揃いのマフラーがぱさりと音を立て零れ落ちる。私はそれを拾う事なくじっと見つめ、掠れた声で呟く。


「……ばいばい、一郎、」


私はそう言ってポスターの一郎とは目を合わさないように背を向け、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。
出待ちだろうか、背後で一斉に黄色い声が上がる。なおも引き留めようと首に絡みついてくる冷たい夜風が煩わしい。彼女たちの声が次第に遠ざかっていくのを感じながら、私は駅へと続く薄暗い夜道のコンクリートを力強く踏みしめ駆け出した。