三日月ひみつマジック



ナースの間で流行っていることがある。一度船に乗り、海上に出ると、次の島に着くまでは娯楽の少ない中で生活していく。そんな限られた中で、誰かが見つけた小さな娯楽。

「月夜の晩に、好きな人の事を想いながらこれで手を洗うと気持ちが届くのよ!」

そう言って彼女が広げた手のひらには、小さな紙で出来た包みが乗せられていた。
直径四センチほどの小さな包みには紙せっけん≠ニ書かれている。紙せっけんというものを初めてみる私は首をかしげながら、それを手にとってまじまじと観察する。ほのかに甘い匂いがするそれを見ながら「紙せっけんってなに?」と聞いた。

「紙みたいに薄いせっけん」
「そのまんまじゃん」
「だってそうなんだもん」

それ以外に説明のしようがないのと、少し膨れっ面で彼女は言った。

「ふーん……おまじないねぇ……」

包みの中から一枚取り出し、手のひらに乗せる。薄くて綺麗なピンク色をしているそれは、光に当たるとキラキラと輝いた。彼女が言うには、この紙せっけんで手を洗うと恋愛が成就するらしい。それも、実際に効き目があった人がいると聞いて驚く。

「あげるね、それ。試してみてよ!」

彼女はニコニコしながら、全部で三十枚入っているからと続けた。

「今日ちょうど新月でしょ? 新月の日から始めるといいんだって」
「……ありがとう、試してみる」

娯楽には、飢えている。私も。寝る前の楽しみとして日課にしよう。

「あ、あとついでにこれ」
「これは?」
「その紙せっけんと同じ匂いのヘアオイル」

そう言って渡された小さな小瓶と紙せっけんを大切にポケットへ入れて、私たちはそれぞれの持ち場に戻った。


閉じられていた重たい目を無理やり開く。
寝てしまっていたらしい。
起き上がってサイドテーブルに置かれたそれを見て昼間のやり取り思い出す。自分のやらなければならない仕事を終え、お風呂に入った後で貰ったヘアオイルをつけるまではちゃんと覚えていた。夜ご飯を食べて満腹で自分のベッドに入る頃には、この事をすっかり忘れてうつらうつらとしているうちに、本格的な眠りに入っていたようだ。時計を見ると、深夜十二時を過ぎたくらいを指している。
せっかくだし、使おう。今からでも遅くないだろう。

小さな秘密を握りしめた私は同じ部屋の人たちを起こさないよう、そっと廊下に出た。

船内の廊下は、昼間とは違いかなり静かで、自分の足音がよく響く。ずらりと並ぶ扉の向こうからは誰かの大きな寝息が聞こえてきた。壁にある小さな窓から差し込む月明かりは、大きな私の影を廊下に映し出している。いつもよりゆっくり、慎重に歩いて、目的地を目指す。
そうして辿り着いた一番近い手洗い場で立ち止まり、ポケットから小さな包みを取り出す。更にその中から紙せっけんを一枚を取り出して、蛇口を捻り、手を濡らしながら泡立てた。辺りに甘い香りが漂い、なんだか気分が華やぐようだった。
好きな人を、想いながら。
艶やかに潮風を揺蕩う黒髪、ぴしりと伸ばされた背筋で堂々と歩く姿、形のいい眉や朱唇。
挨拶をすれば優しく微笑んでくれるその人。

「イゾウ隊長と両想いになれますように」

手に広げた泡が、小さなしゃぼん玉になって浮かんでは弾けた。窓から入る月明かりに照らされて、弾けるしゃぼん玉は七色に輝いている。

「なんかこれ、ドキドキしてちょっと楽しいかも」

娯楽と刺激に飢えていた私は小さな楽しみを見付けてしまい、その日は部屋に戻ってもなんだか胸が高鳴って、なかなか寝付けなかった。


「おはよう、昨日やった?」
朝になり、眠くて開ききらない目を擦りながら廊下に出れば、ちょうど起きて洗面所に向かう彼女と鉢合わせた。結局、寝入ることが出来たのは早朝になってしまった。そのせいで、頭と身体に怠さが残っているのか、なんとなく重い。

「やったよー。あれ、なんかちょっと楽しいかも」
「わかる! いけないことしてるみたいでドキドキしない?」
「したした。今日もやるね! ありがとう」
「私もやろっかなー、好きな人いないけど」

若先生とかで!と楽しそうに笑う彼女に適当な相槌を打つ。

「ずいぶん楽しそうだな」
「!?」
「わっ! びっくりしたー! おはようございます、イゾウ隊長」

後ろから声をかけてきたその声の主は、私たちの反応を見て驚かせて悪かったと申し訳なさそうに眉尻を少し下げた。

「おはよう」
「おはよう、ございます」
「大丈夫か? そんな驚くとは思ってなくて」
「あ、いや、大丈夫です!」

未だ心配そうな彼に慌てて伝えれば、小さな声でよかったと呟く。

「……え、っと、どうされました?」
「なんかいつもと違うな」
「え?! 寝癖かなんかついてます?!」
「ふふっ、ついてない。あぁ、そうか、髪か」

相変わらず優しく微笑みながら、イゾウ隊長は「そうか。うん。髪だ」と何か納得したようだった。

「髪? 寝癖じゃなくて……?」
「寝癖じゃないんだ。いつも綺麗だと思ってたんだが」
「え?」
「今日はとくに綺麗に見えた」

隣にいるヘアオイルをくれた彼女がきゃあっと小さな悲鳴を上げた。

「洗面所へ向かうのか? 今は人が多いから少し時間をずらした方がいいかもしれない」
「あ、ありがとうございます」

有り難い助言を残して歩き出したイゾウ隊長の背中を、呆然と見送ることしか出来ない私の変わりに、何故か頬を赤くしている隣の彼女が答えてくれる。

何故か私は、月明かりに照らされてキラキラ光る泡と、小さなしゃぼん玉を思い出していた。鼻の奥から甘い匂いが香ってくる。
 
ああ、そうだ。
イゾウ隊長がゆっくりした動作で振り返る。
窓から差し込む朝日で、艶々と黒髪が輝いてる。

「ひみつのおまじないをする時は周りに人がいないか確認してからした方がいい」

相変わらず優しい微笑みの彼に、とんでもない爆弾を落とされたせいで私はその日一日使いものにならなかった。





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