キスの味は何とやら

 あちらこちらから香る甘ったるい匂いと、どことなく浮足立つ人々。
 寝坊したことでいつもよりも遅くなった登校時間。アップテンポな曲を流すヘッドフォンで耳を塞いでも、周囲の騒ぎようは耳が痛い程だった。いつもの何倍も騒がしい昇降口を足早に駆け抜ける。教室もまた騒がしくて思わず顔を顰めてしまった。
 バレンタインデー。好きな人にチョコを贈る日。もしくは友人や家族に日頃の感謝を込めてチョコを贈る日。元は歴史上の誰かが何かしらした日だったはずだけれど、企業戦略が重なっていつしか違う意味の込められた日になってしまった。友達同士、恋人同士でチョコを贈っている光景を見ながらスクールバックの取っ手を強めに握る。バックの中で箱がカサリと音を立てた。
 ――手作りなんて贈る勇気はない。それでも、何もせずに一日が過ぎるのを待つのは違う気がして。
「で、買っちゃったんだ?」
 数少ない友人の一人である彼女が机に頬杖をつきながらほくそ笑む。ツンツン、とカバンをつつく姿に何となくカチンときて、思わず小突いた。小さく「痛った」と悲鳴を上げた友人は置いておいて、目当ての人物の姿を探す。暫く辺りを見渡してみたけれど、いつも朝早く来ている彼の姿はどこにも見当たらなかった。
 ……あれ、もしかして休み?
 そんな疑問は、教室に入って来た先生によって解かれることとなる。教室のあちらこちらから聞こえた落胆の声は、きっと私と同じ様なことを考えていた子たちのものだろう。
「ボーダーで午前中休みか、こりゃ午後は戦争だわ」
「……昼休みはどっかに避難しておこっかな」
「隣だもんねぇ」
 隣の席の荒船くんは結構モテる。成績優秀、運動神経もよく、ボーダーで部隊を組み、その隊長を務める人格者。しかも顔も整っているときた。目付きと口調が若干悪いがその実、誰にでも分け隔てなく優しくて。私もボーダーに所属こそしているが、同じ狙撃手であっても天と地ほどの差がある。数ヶ月前にようやくB級へと昇格したばかりで、未だにソロな私とは違う。……だめだ、やめよう。虚しくなるだけだ。
 気を取り直し、ペンを握り直した。隣の席の私には、遅れてくる彼にノートを渡す使命があるのだから。
 
『荒船くん来たよ』
 昼休み。友人と共にお昼ご飯を食べた後、教室に戻った友人とは別に、私は誰も来ない空き教室をお借りして避難していた。最中、携帯が友人からのメッセージを知らせた。
『どうなってる?』
『うちの教室の子だけじゃなくて他のとこからも来て人がえらいことになってる』
『まぁ荒船くん、全部断ってるっぽいけど』
『は?』
 ビックリして空き教室の中で声が反響した。あの荒船くんが?去年も確か大量に貰っていたらしいとは聞いているけれど、断ったという話は聞いていない。去年は荒船くんとは別のクラスだったから詳しい話を聞けていないだけかもしれないが。
『好きな人がいるんだってさ』
『それどういうこと?』
『さあ?そうやって断ってんの聞いただけだから詳しいことは分かんない』
 何て言えばいいのか分からず、「なるほど」と変なネコが頷いているスタンプを送っておく。既読はすぐについた。教室では恐らく彼女が机に突っ伏して笑いを堪えているのだろう。彼女はこのスタンプがツボらしく、送ると毎回笑ってしまっている。閑話休題。
「……どう、しよう」
 幾らか冷静を取り戻した私は、弁当箱と一緒に持って来てしまった紙袋にちらりと目線を送る。荒船くんに好きな人がいるかどうかは結局のところよく分からない。チョコを断るための体のいい断り文句という可能性だってある。ある、けども。
「渡せなくなっちゃったな」
 たかが隣の席なだけのクラスメイト。同じ狙撃手なだけの正隊員。私と荒船くんの繋がりはそれだけしかないのに、“荒船くんの好きな人”をどうして自分だと思えるのだろうか。そう思い上がれるほどの自信があれば、きっと私はここにいないで教室にいただろう。
 教室に戻りづらいのに、授業の時間は刻一刻と迫って来ていて。サボってしまおうか、とも思い始めてしまう。……よし、サボろう。失恋の傷は深いのだ。
『体調悪いから保健室行くね』
 そんなメッセージを友人に送り、保健室へ向かうことにした。勿論、サボりである。受験生とはいえ、受けなければならない授業は殆どないので特に問題ない。こんな気持ちで荒船くんの隣で授業受けるのとか普通に無理です。ごめんなさい。
 保健室の先生に体調不良だと伝えてベッドに潜り込む。その時に、荒船くんに午前中の授業の分のノートを渡し忘れていたことに気が付いた。
 ――まぁ、荒船くんだし、きっと誰かから借りるんだろうなぁ。
 単なるサボりのつもりで、スマホを見ているだけのつもりだったのに。日の当たる保健室のベッドで横になっていると、緩やかに襲ってきた睡魔にあっという間に負けていた。気付いた時には既に放課後になっていて。慌てて教室に戻ってみても、友人も、荒船くんも既にそこにはいなかった。
『荒船くん、アンタのこと探してたよ』
『ボーダー行くんでしょ?渡しにくいのは分からんでもないけどさ、折角買ったんだからちゃんと渡しなよ』
 「がんばれ!」とポンポンを振って応援する可愛らしいネコのスタンプが友人から送られていたのを見て、ふっと笑いが零れた。今日は荒船隊の任務は朝しかない。今からボーダーに行ったところで、荒船くんと会える可能性はそんなに高くない。強いて言うなら今日は狙撃手の合同訓練があるんだよなぁ。

 ピュン、と軽い音が耳元で鼓膜を揺らす。少しの間を置いて、もう一発。撃ち込んだ弾は全て中心から少し外れた位置に印を付けた。いつもよりも酷いスコアに思わず「あー……」と唸ってしまう。
「せーんぱい、何やえらい不調やねんけど何かありました?」
 横からひょっこり顔を覗かせたのは後輩の隠岐だ。隠岐とはネコを愛でる者同士として仲良くさせて頂いている。入隊はほぼ同時期で、B級に上がったのは隠岐の方が先だったのだが、自分の方が一学年上ということもあってか隠岐からは「先輩」呼びである。この後輩、出来る子。ちなみに私のトリガーにはグラスホッパーが入っているので、機動派狙撃手の仲間でもある。……成果が出たことは今のところないけど。
「うーん、どうなんだろ……わかんないや」
「今日がバレンタインなことと関係してはります?もしかして振られた、とか?」
「はっはっは!モテるからって何でも許されると思うなよ!」
「あたたたた、すんませんでした!」
 隣のスペースにいた隠岐を捕まえてヘッドロックをかます。もう少し捕まえていても良かったが「ギブギブ」と腕を叩くイケメンくんに免じて解放してやった。うーん、上から見るイケメンは破壊力がすごい。あ、そうだ。
「既にいっぱい貰ってるだろうから要らなかったら悪いんだけど」
 簡易な梱包のチョコを隠岐に投げて寄越せば、何を思ったか後輩は目を丸くして固まった。おずおずと口を開くので、何を言うかと思ったら「本命やないですよね?」とのたまうので肩を強めに叩いてやった。可愛い後輩への義理チョコだよ、馬鹿野郎!ちなみに市販である。私にお菓子作りは無理だ。
「義理で良かったですわ……」
 何やらホッとしている隠岐を横目に、他の面子にチョコを配りに行ったらほぼ全員から同じような反応をされた。奈良坂や東さんにまで同じような反応されるとは思ってなかったわ。何故。穂刈や当真には「荒船には渡さないのか」なんて言うし。「会えてないんだよ」と言えば「oh……」と呟いていた。お前ら日本人だろ。
「というか荒船くん来てるの?」
「あるからな。今日、隊長会議が」
 成程。荒船くん隊長だし隊長会議があれば来るわ。穂刈が念を押すように、もう一度「渡さないのか?」と繰り返した。
「いやぁ、荒船くん好きな人いるって断ったみたいだから渡さないかも」
 穂刈と当真が顔を見合わせた。当真は腹抱えて笑い出しそうになるし、穂刈は何処か絶句したような顔をしている。本当に何なんだ。というか東さんがいるってことは隊長会議終わったのか。……てことはもう帰ったのかな。
 何気なく見たスマホの表示に、母からの「夕飯ないから食べて帰って来な」の文面があるのを見て、夕飯をどこで食べるか考え始める。帰り道の途中にあるラーメン屋気になってるんだよね。そこに行こうかな。ご飯のことを考えていたからか、トリオン体のお腹がグゥ、となった気がした。
「穂刈、当真。お腹空いたから他の同級生に配ったら帰るわ。また明日ね。」
 トリオン体を解除しつつ、穂刈に声を掛ける。ラウンジならみんないるかな。駆け足で向かう最中、穂刈の声が背中に投げ掛けられたような気がした。あくまで気のせいで、本当に呼びかけられたかは分からなかったのだが。

 本部のラウンジには大体の同級生がいた。蔵内と犬飼には学校で渡したし、王子には会えなかったけれど蔵内に王子の分も含めて渡してあるから問題ない。それよりも村上に会えると思ってなかったからビックリした。会えなかったら水上か影浦に渡そうと思ってたので手間が省けて助かりました。村上や影浦に今日会えなかった人の分まで託し、食堂で一息つく。
 夕方という、微妙な時間にはまばらにしか人が居なかった。恐らくもう少し時間が経てば、お腹を空かせた夜勤組が顔を出すのだろう。暗い外が見える窓際の席を選んで腰掛けた。
 カバンの中にたった一つだけ残された、みんなに配ったものとは違う紙袋。簡単な梱包だけで済ませた義理とは違う梱包。誰がどう見ても本命チョコ。結局のところ今日会えずじまいだった想い人を思い描きながらそのチョコを袋から取り出す。
 荒船くんは意味のない嘘はあまり吐かない人だ。そんな彼が好きな人を口実にチョコを断ったのならば、それはきっと嘘じゃないのだろう。多分、穂刈や当真、それ以外の同級生も荒船くんの好きな人を把握している。それなのに彼らが荒船くんにチョコを渡せたがる意味はよく分からない。いや、嘘だ。分かるけれど分かりたくない。そこまで思い上がりたくない。義理チョコを渡さないのか、って言いたいだけなんだろう、きっと。
 目頭が熱くなって視界がぼやける。震える指で梱包をゆっくりと剥いでいく。可愛らしいハートがあしらわれた梱包の下から豪華な箱が現れた。蓋を開ければ、ちょっとお高いだけあって一つ一つが可愛らしいチョコが顔を覗かせた。……いやこれ、荒船くんにあげるには可愛らしすぎるな……?思わずくすりと笑ってしまう。
 桃色のチョコを一つまみ、口に放り込んだ。甘さが控えめなイチゴの味が口の中に広がる。次はホワイトチョコ。その次はミルクチョコ。六個しかないそのチョコはあっという間に口の中で溶けていなくなってしまう。残りの一つを溶かしきったら、この恋心とさよならしなきゃいけないのかな。滲んだ視界の中で、頬を一筋、涙が伝った。ハンカチを出すのも億劫で、制服の袖で乱雑に涙を拭う。
 これが最後。白いウサギを模したそのチョコを手に取って、口に運ぼうとした。直前、その手が力強く掴まれ、強い力で引っ張られる。え、と声を出す間もなく、そのチョコはいつの間にか私の向かいまで来ていた人の口の中に消えていった。事態が飲み込めない私を前に、残り一個のチョコを強奪した張本人――荒船くんは「甘ェ」とだけ呟いた。
「どうし、て」
 荒船くんは頭を掻いて、「ここいいか」と私に許可を取ってから向かいに座った。そして、カバンの中からハンカチを取り出し、少し乱雑に私の頬を拭う。よく見ると荒船くん、地味に息が上がってる。走ってたのかな?
「お前を探してた」
「どうして?」
「会いたかったから。場所は穂刈や鋼に聞いた」
「……何で?」
 おかしいな、私、何でを繰り返すbotみたいになってる。それくらい、荒船くんの意図が読めなくて頭の上がはてなマークでいっぱいだ。
「お前からのチョコが欲しかったから。探したら泣きながら食ってるから思わず食っちまった。悪ィ。」
「……や、それは別にいいんだけど」
 荒船くんには好きな人がいるんじゃなかったの?好きな人からのチョコしか受け取らないんじゃないの?
 浮かんだ疑問をそのまま荒船くんにぶつける。好きな人がいるから、とチョコを断っていた男が、私からの義理チョコを欲しがるなんて変な話だ。これじゃまるで、私からのチョコが特別だって言っているみたいだ。
「そりゃ、好きな奴からのチョコが欲しいから探したに決まってんだろ。学校来たらいねぇし、隊長会議終わって訓練場行ったらもうラウンジ行ったって言われるし。このまま会えないかと思った……。」
 え。思わず変な声が出る。
「荒船くん、私のこと好きなの?」
「だからそうだって言ってんだろ……ま、お前は他の奴にチョコやろうとして玉砕して、泣きながら食べてんだろうが」
 悪かったな、そう言ってカバンを持って立ち上がる荒船くんの袖を慌てて掴む。私も、荒船くんもとんでもない勘違いをしていたみたいだ。
「私、玉砕なんてしてないよ。や、正確には玉砕した、と思ってたって言った方がいいんだろうけど」
 今度は荒船くんの頭上にはてなマークがいっぱい。少しの間を置いて頬が赤く染まっていった。流石荒船くん。察するのが早い。
「私、荒船くんに渡したくて。でも荒船くんに好きな人がいるって聞いたから、渡せなくて。」
「……まじかぁ……」
「だから、さっきのは荒船くんが食べてくれて良かった。残り一個になっちゃったけど……」
 ごめんなさい、と笑う。荒船くんの顔は真っ赤だけど、きっと私だって荒船くんに負けず劣らず真っ赤なんだろう。だって頬が熱くて仕方がない。荒船くんの大きな手が、袖を掴んでいた私の手を掠め取る。そのまま引き寄せられて、荒船くんの鍛えられている胸板に顔を突っ込む羽目になった。
「両想いってことで……付き合う、ってことでいいんだよな」
 その問いには首を縦に動かすことで応えた。今日この後、チョコを買い直して、そして改めて荒船くんに渡そう。そう心に決めながら。

「で、その後家に送ってってもらうついでにコンビニで買ったチョコを渡して。ついでに夕飯を一緒に食べてきたと?……一気に進み過ぎてない?」
「……やっぱそう思う?」
 翌日、登校して早々に友人をとっ捕まえて昨日あったことを洗いざらい話したところ、若干戸惑ったような友人の声が返って来た。
「しかも昨日き、す……までしちゃったし、心臓どうにかなりそう」
「やっば、荒船手ェはっやーい」
「かっこよくて死ぬんだけど!助けて!」
「いや無理〜!てか荒船大分必死だね?」
「そりゃ、危うくチョコ貰えないどころか勝手に諦められて失恋するとこだったンだから必死にもなるだろ」
 急に背後から低い声が投げ掛けられ、心臓が跳ねる。慌てて後ろを振り返れば、いつの間に来ていたのか頬が赤く染まっている荒船くんが立っていた。
 あ、さっきまでの、全部聞かれ……!
「頼むからそういう話は俺のいないとこでやってくれ……」
「ごめんなさい!」
 釣られて私の頬まで赤くなってしまう。本当にごめんなさい!
「……いや〜、あっつあつだねぇお二人さん……頼むから私を巻き込まないで欲しいなァ……」
 その光景を見ていた友人の心底呆れかえったような声に申し訳なさが加速する。
 ――色々な意味で一生忘れられないバレンタインになった気がする。

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