十二月二十四日十六時十三分。町は燃えていた。夕方の穏やかさはそこにはなく、町は血と肉塊と悲鳴で溢れていた。十数分前までクリスマスムードの漂っていた町は炎と血で赤く染まり、人々は逃げ惑っていた。
 辺りには三本の爪で引き裂かれたような人間や食い千切られたような人間の死骸が無数にあった。そのなかに妙な形をした死骸がある。周りの死骸と比べると二周りほど近く大きく、その口からは大きな牙が生えている。頭からは一本の角。大きく見開かれた目は闇色だった。爪は猛獣のそれのように鋭い。異形は既に絶命していた。その更に向こうと見ると、そこにも異形の死骸があった。形はまったく違う。牛の骨の頭にそれに合わせて大きくなった鳥の体。
 それを見て「まるで漫画の世界だ」と呟きながら少年は異形の横を通り過ぎる。その声には何処か焦りが含まれていた。人や異形の死骸を横目に痛めた足を引きずり、酷い血の匂いのする道を進んでいく。その死骸の中に大切な人が含まれていないように祈りながら。


 少年は妹やその友人、自分の友人と待ち合わせしていた公園へ向かった。今日は遊ぶ約束があったのだ。妹にはクリスマスプレゼントを買う約束をしていた。怪我はしていないだろうか、泣いてはいないだろうかと痛む足を引きずりながら思う。
 友人は妹達を守ってくれているだろうか。彼女も女だからあまり無理はさせたくないけど。死骸に躓き転びながら考える。もうすぐ公園だ。服や顔を死骸の血で汚しながら起き上がる。意識が遠のきそうな痛みに耐えながら、また歩き出す。気持ちは焦るばかりなのに体は言うことを聞かず、走ることができなかった。
 もどかしさに苛ついているうちに公園へ着いた。公園に植えられていた木は燃え上がり、酷い熱気を放っていた。休む間もなく歩き回り、妹達を探す。熱気と痛みに汗が流れる。それにも構わず探し回るがそれらしき姿は見当たらない。そのうち公園を一周し、最初に出た地点へ戻る。妹達の姿がないことに安堵するが、不安も覚える。何処にいるのだろうと。溜息を吐き、辺りを見る。公園内も少年がここにたどり着くまでに見てきた場所と同じで、死骸だらけだった。
 そこで少年はふと思う。妹達の姿は血塗れで気づかなかったかもしれない、と。自分の考えたことに首を横に振り、両頬を叩いてそんなことはないと言い聞かせる。だが一度覚えてしまった不安はそう簡単には拭えず、少年はまた歩き出す。今度は辺りをじっくりと見ながら。
 そうやって歩き始めて5分も経たないうちだった。少年は見覚えのある服を見つけてしまった。まさかそんなと思いながら近づいていく。近づけば近づくほどその形は見知ったものに近づく。そしてそれの目の前に立った。それは間違いなく少年の探していた妹だった。引き裂かれた脇腹から臓物が溢れ、はみ出した腸が道を作る。目は赤い空を無感情に見上げ、口はだらしなく開かれている。体はおかしな方向へ折れ曲がっている。周りには妹の友人が三人、壊れた人形のように地面に転がっていた。それぞれがまったく違う景色を映している。中には頭を半分潰されている子どももいた。妹と同じように、その小さな体は引き裂かれていた。頭が真っ白になる。何も考えられない。絶望感がそこにある。自分の祈りは届かなかった。
 そのまま妹達を見続ける。見れば見るほどその姿は酷かった。おびただしい血の量。心の中で無理だ、死んだんだと叫びながら、必死に周りの血をかき集めた。土と混ざり、ざらざらとした血だった。涙が溢れ、目の前が酷く歪む。醜い肉の塊と化した妹達が更に歪む。元の元気な姿に戻してやらねばと涙を拭き、内臓を集めて体に詰める。曲がった体を正常な形に戻してやる。妹の手の甲側に折れた手首を直してやろうと持ち上げた時だった。皮一枚で繋がっていたのか、手と腕が離れてしまった。慌てて切れた面を合わせるが、どうしても貼りついてくれない。もどかしくなり、必死に合わせようとする。その拍子に妹の頭が動き、魂の抜けた目が少年をじっと見つめる。
――怖い。
 そう思った。拭ったはずの涙がまた溢れてくる。それを拭こうとすると、手にべったりとついた血が見えた。そこから血と土の混ざった酷い匂いがする。強烈な吐き気に襲われ、少年は嘔吐する。吐いて、吐いて、胃液しか出なくなるまで吐き続けた。血と胃酸と建物や木が燃える匂いで吐き気が増し、また吐く。それを繰り返して少しばかり吐き気が落ち着き、やっと胸や喉の痛みが治まり始める。体を押さえ蹲ったことで、前髪と眼鏡に嘔吐物が付着する。
 のろのろと顔を上げる。目の前には先ほどと変わらない妹達の姿。涸れるほど涙を流し続けたが、まだ涙は流れる。
 ふと、妹達と共に行動していたはずの友人の姿がないことに気がつく。
「――薙斗(なぎと)……」
 木の燃える音で聞き逃しそうになるほど小さな声で名前を呼ばれる。振り返ると友人が立っていた。全身が血に濡れていた。少年の記憶では明るく快活な笑顔を浮かべていた友人。だが目の前の友人は顔を血や泥で汚し、いつもの笑顔はない。右手で血の流れ出す腹部を押さえ、緩慢な動きで足を引きずる。よく見ると胸部や足にも獣の爪痕があった。そして左腕の肘から先が存在しなかった。
「ごめ、ん……あたし……この子達のこと、守れなかった……」
 口から血を、焦点の定まらない目から涙を流しながら友人は言う。少年は「大丈夫か」と近づき、友人の体を支えてやると手が血で濡れた。満身創痍になっていた友人を見ていられず、たまらず友人を抱きしめた。友人の背中には何本もの木片が刺さっていた。木片が自分の腕に刺さる感覚と、友人の背中にのみこまれていく感覚があった。胸元でごぽっ、と嫌な音がして、続いて胸が濡れる感じがした。慌てて友人を見ると、げほげほと咳き込みながら血を吐き出していた。
「ちょ……と目離した隙に、いなくなる……なん、て……こ、こんな、ごとに、なる……なんて……い、たい……よぉ……」
 声が涙混じりになる。妹達を守れなかったことを友人も悔いているようだった。
「ご、めん……な、ぎ……ごめんね……」
 それだけ言うと、友人は地面に崩れ落ちた。その体の下から赤が広がる。友人の目は虚ろなまま少しだけ開かれていた。少年はその場から動けなかった。大切な人を一気に失ったショックが、少年をその場に縛り付ける。涙もでなかった。
 この短時間で何度も襲ってきた絶望に、少年の脆い心は音を立てて崩れた。


 それから少しばかり経ってからだった。少年の背後から男が一人近づいてくる。
「死んだのか」
 少年は答えない。男の言葉は少年に届いていなかった。今の少年にとってその問いかけは酷く無意味なものだった。目は虚ろになり、周りの音など何も聞こえないとでもいうように、その場に座り込んでいた。
「惨たらしい姿だ。人はこんなにもあっけなく死ぬ。心も簡単に砕ける」
 少年を見つめ、その前に転がる肉塊を見つめながら男は無感情に言葉を発する。
「人間は弱く脆い。だからこそ愛しいと思う者もいるようだが、私には到底理解できんことだ」
 男は一人話し続ける。少年が聞いてるかどうかも気にせずに。
「この凄惨な世界で生き抜ける者こそ愛しく思えるのだがね」
 肉塊に近づいていき、屈む。傷の状態、歪み、出血量、それらを見て男は考え込む。白衣のポケットを探る。中にあるものの数を確認し、少年の方を向く。
「生き返してやる、と言ったらどうする」
 小さく細い肩が揺れる。少年は男を見上げる。その顔は空の暗さに飲み込まれ、よく見えない。ただ、その目は酷く剣呑な雰囲気を纏い、指で軽くなぞるだけで切れてしまう刃のようだった。胸の奥底が萎縮し、言い知れぬ恐怖を感じる。
「だがタダというわけにもいかない。生き返すための物にも、回復させるための治療にも金がかかる。しかし君は若い。そんな金も、それだけのことをやる技術も知恵もない」
「……どうしたら助けてくれるんですか……?」
 泣き疲れ、絶望し、灼熱に喉を焼かれた少年の小さく枯れた声。その中に希望が混ざるのを男は感じ取る。
「君はこれから私を手伝い、学び、そして優秀な人間になる。人生の大半を研究に費やし、私達と共に生きていく」
 少年の背後からコツ、コツ、と硬質な音が響く。その音は横を通り過ぎ、男の隣に並ぶ。男より頭半分ほど小さな女性だった。ゆるく巻かれた髪が、熱風に靡く。とてもこの場には似つかわしくない、優しい笑顔だった。
「貴方一人の人生を捧げるだけで、四人の命が救われるわ。悪くはないでしょう? 死ぬわけじゃないんだし」
 優しく包み込むような声だった。女は少年の前にしゃがみ、そっと頭を撫でる。今、自分の側にいない父や母を思い出し、涙が溢れた。
「あとは君次第だ。どうする?」
 少年は二人の顔を見る。この状況下にあっても純白を保たれた白衣に違和感を覚える。男の目に違和感を覚え、女の笑みに違和感を覚え、二人の言葉に違和感を覚え、この場にいる自分にも、男の奥に転がる肉にも違和感を覚えた。
 だが迷いはなかった。少年は立ち上がる。女もゆっくりと立ち上がり、三人はそれぞれの顔を見る。
 男は言葉も発さず、手を差し出した。少年はその手に己の小さく柔らかな手を乗せ、握手を交わす。女は先ほどと変わらない笑顔で二人を見つめているだけだった。
「これは生涯結び続ける契約になる。それでもいいんだな?」
 こくり、と少年は頷く。男の手をしっかりと握り、少年はまっすぐ男の目を見つめてきた。
「なら今この瞬間から私達は同志だ。共に生き、共に逝こう」
 そう言って男は少年から離れ、自分の背後にある肉塊の前に膝をつく。ポケットから血のような赤い液体を取り出し、それぞれの口へと流し込む。
 女は少年の肩を抱く。その手をよく見ると、薬指の第二関節から先が無かった。それが酷く少年を不快な気持ちにさせたが、それを無視して目の前で行われている出来事と目に焼きつける。
――この怒れる日の記憶が永遠に少年を苛むことになるとは、まだ知らなかった。


怒りの日、その日は
ダビデとシビラの預言のとおり
世界が灰燼に帰す日です

審判者があらわれて
すべてが厳しく裁かれるとき
その恐ろしさはどれほどでしょうか
――怒りの日(Dies irae)――