「天使」


(噛みつき描写があります。苦手は方はご自衛よろしくお願いします)



 少年にとって世界は『クソつまらない』『理不尽の塊』で出来ていた。このクソ物(父親)とともにいつか消えてしまってもいいとさえ。自分は何もなくこのまま生きていく以外の未来が思い浮かばない。
 空っぽの自分自身にも自分を取り巻く全てにも嘲り笑い過ごす日々の一つに変化が訪れた。それは男がサッカーに出逢ったこと。殴っても蹴っても傍に居るボール(それ)に自分は一人ではないのだと感じさせられ生を感じられた。少年には充分だった。“ 今 ” 隣に居てくれる存在があるならそれで。
 なのにもう一つ、少年は出逢ってしまった。少年にとってボールとは違う存在の『ソレ』に。

───なにしてる

───…………。

 青空や夕空のように世界を明るく染める色とは真反対の黒に染まる空。灯りと言えば真ん中で鎮座する月ぐらいだろうか。
 太陽や夕日と違う淡い光で世界を照らす様子はなんだか少し…ほんの少しだけ、サッカーに出逢った頃の少年の心ようだと思った。
 朝や昼間とは違い閑散とするいつもと同じ姿の公園に足を踏み入れてから少年の視線の先には一つの異物があった。月明かりだけではシルエットのみではっきりとは解らない。思わず異物に声を掛けるも何も返ってこない。イラッとしボールの様に蹴ってやろうかと近づけば、はたと足が止まる。……自分と同じ歳かもしくは下ぐらいだろうか。薄いワンピースを身に纏い、白くて細い四肢達は草むらの上に無防備に放り出されている。
 
 少年は怪訝な表情を浮かべ様子を伺う。自身が近づいたにも関わらず異物──少女はぴくりとも動かない。
 死んでるのかともしもの面倒臭い時であった場合の未来にクソ、来るんじゃなかったと後悔してももう遅い。無視して帰るか場所を変えるかと思案していると一度も動かった少女の瞼が震えぱちりとその存在を現した。

─────生きてたのかよ

─────あ。

 どうやら最悪の未来は防げたらしいが、生きていようが生きていまいが少年には関係などない。球の上に足を置き靴底で転がしながらいまだに寝転ぶ少女にここから退けと伝えた。別にこの場所も少年のものでもなければ誰のものでもないが自分が自分として在れる場所に異物を起きたくない。だがなぜか少女は動くどころか何も発さず変わらない体勢でひたすらに少年を瞳に映していた。 


─────聞いているのか

─────聞いてるよ

─────なら早くどっかに行け、クソ不愉快

 
 少しずつ苛立ちは募り舌打ちが溢れる。言う事を聞かない事にも苛立つがそれより苛立つのが。


─────ねぇ

─────黙れ喋るな。こっち見るな!


 少年に向かい伸ばされる手を声を張上げながらパシッ!と音を立て叩き落とす。見るな、こっちを!そんなキラキラした宝石でも見たような目で………!月明かりのせいか、少女が持つ特有のもなのか、キラキラと輝くように見える少女の瞳がクソ物の自分の瞳とあまりにも違い過ぎて胸がどす黒く渦巻き、怒りからなのか別の何かからなのか自然と荒む息だけが少年と少女の間に響く。


────……………。


 叩き落とされた手に視線を向け黙り込む少女から視線をそらし被っているフードを深くまで下ろし背を向けた。これ以上は相手にしていられない。構いたくもない。靴底で転がしてた球を拾い、抱えながらその場から早歩きで去る。


──────また明日も来てね。

──────………は?

─────お兄ちゃんとそのこが遊んでるのみたい!


 突如聞こえた突拍子な言葉に足を止め振り向けば、少女は夜だと言うのに太陽もとで咲く花のような笑顔で少年に伝えた。音として届いた言葉にも向けられた笑顔にも少年は驚き口をあんぐりと開けた。


─────それを伝えるためにここで待ってたの!そろそろ帰るね!

──────………は?ちょっと待て

─────またね!天使のお兄ちゃん!


 少し駆け寄り手を伸ばして引き止める少年など意に介さず、タタタと少女は走り去りあっと合う間にその姿を闇が隠した。
 その場に残された少年は伸ばしていた手をおろし胸元を掴む。


──────クソ、なんなんだ!


 言いたいことを言ったのも勝手に約束を取り付けた事も許してやる。だがしかし最後の発言だけは許すつもりはない。少女は確かに言ったのだ、少年の事を『天使』だと。自分のどこを見てそう思ったのか。不愉快であり皮肉のように感じたその発言の意味を次逢ったらぜひ聞いてやろうと。苛立ちと不愉快さで心臓は激しい運動をしたあとのようにドクドクと鼓動を激しく鳴らした。


 静かな月の下で行われた秘密の逢瀬。それがミヒャエル・カイザーと、ナマエの出会いだった。
 





 
 パシャッと湯船から腕を出し、視界に写る濡れた前髪を後ろへと掻き上げる。


「………はぁ……」


 湯に浸かっているせいか、吐息を零しながら全身の力を抜きだらんと浴槽の外へ今しがた湯船から出した腕を放り投げる。


「ずいぶんお疲れだね」

「…………クソ疲れた」 

 
 足の間に座るかなり見慣れた存在、ナマエは上半身だけを捻りミヒャエルのおでこに触れる。その指先が心地よくて目を伏せながら最近太ったなんだと言う腹へ回しているもう片方の腕に少し力を加え、ただでさえ肌同士が触れ合っているというのにさらに自身へと引き寄せる。隔てなくピタリと密着する肌同士がまるでナマエに対するミヒャエルの心を写してるかのようで心が刺激される。
 
 甘えるようにナマエの肩口に顔を埋めるミヒャエルに、くすくすと笑いながら好きなようにさせる。ナマエにとってはいつもの姿だからいまさら慌てたりも止めたりもしない。

 
「疲れてるなら早く出てベッドに入ろうか」

「………もう少しだけこのままで居させろ。それともなにか?ナマエちゃんは我慢できないのか?ん?」


 疲れていながらも口端を釣り上げ揶揄う元気はあるらしい。違うってばと返し浴槽を出ようと縁を掴み立ち上がる為腰を上げたが出る事は叶わなかった。


「ミヒャエル?」

「…………」


 お腹に回ったままの手は離れずそのままで、縁を掴んだ手首も掴まれては動くにも動けずに終わった。出ようともしない、引き止めるミヒャエルに視線を向けると俯いてはいるが前髪を掻きあげているせいで、むすっとした表情も結ばれた唇も不満げな瞳も全部お見通しだ。
 

「ナマエ」

「なに?」

「………オレに言う事はないのか」


 顔を持ち上げナマエを映す瞳は案の定不満げであり苛立ちげな色に染められていた。あーこれは、もしかして。


「どうなんだ?」

「どうって言われても……」


 ぐっと力を入れられた手首が痛い。顔を思わず歪めてもミヒャエルはそれどころではなかった。ナマエは内心でこうなる事もミヒャエルの求めるものにも気づいていた。気づいていながら彼の求めるままにこうして一緒に湯船に身を沈めたのだ。
 なかなか言い出して来ないからもしかしたらこのまま何も言わずにただお風呂に浸かって終わりなのでは?と思っていたが、なるほど……言うタイミングを見計らっていたのか。あるいは我慢出来なくて切り出したのか。
 ナマエは一つ息を吐き出し思ってることをそのまま告げた。
 

「私はなんとも思っていないよ」

「………ッ……なんだと?」


 例え彼の作り物のような顔が歪められようと彼女にとって本心なのだから仕方ない。


「本当になにも思わなかったのか?」

「うん」

「………ナマエ」


 何トーンも落とされた声音に、ナマエを鋭く睨む青色は冷たく氷のように感じ湯に浸かっていながらもゾクリと背筋が震えた。


「あーそうか。なるほどね…オーケーオーケーわかった」

「………」

 
 クククッと喉を震わせ囈言の様になにやらぶつぶつとぼやく姿をナマエはじっと見つめる。ミヒャエルはたまに不安定になる時がある。今みたいにぶつぶつと口の中で言葉を放ち自己完結をしたり、そのまま大きな音として放ちいない誰かに伝えたり。そんな時のミヒャエルの視界には何が写っているのか、なにがミヒャエルを手招きしているのかナマエは気になっていた。
 今もまるでいない神に囁くように呟くミヒャエルに触れたくて掴まれていない手を伸ばせばガシッ!と荒々しい力で捕まれ、そして────


「………!み…ひゃ、イッ……!!」

「…………ッん」


 例えようのないほどの痛みが肩口から広がる。ズキズキ。ドクドク。ピリピリ。いろんな刺激がナマエを襲う



「や、め…ッ…いた、…ミヒャ……!」


 離れようとしたくても腕は掴まれ、足……どころか骨盤あたりがミヒャエルの膝によって挟まれているため身動きも出来ない。ただただグッと皮膚に食い込む歯や、手首を締め付ける手のひらにされるがままだ。じわりと視界が歪み目尻から涙が溢れようが止まる事はない。噛んだ場所から口を離さればまた違う場所へと噛み付き痕を残す。
 もうやめて、と離してと泣き叫べば泣き叫ぶほど痕は増え続ける。意識が朦朧とする。


「…………も、だ」

「え……?」

「いつもそうだ、お前は何も感じない」

「…………」

「オレばかりがお前に焦がれて、……クソッ」


 忌々しそうに吐き捨て肩から顔を離したミヒャエルはナマエの体をぎゅっと強く抱きしめた。縋るように。自分を見てくれと言うかのように。


「少しは一緒に撮られた女どもに妬け。もっと醜くオレを縛れ」

「…………」

「なぜオレばかりがお前に焦れないといけない」


 返事など求めていないのか、矢継ぎ早に言葉を重ねるミヒャエルの後ろ髪を優しく撫でる。ぴくりと跳ねた肩はよりいっそナマエの体に強くしがみつく。


「お前はあの瞬間からオレのモノだ。」


 二人の頭の中には出会った頃の情景が浮かんだ。天使だと笑う少女と、そんな少女に心を掴まれた少年が。


「お前の一番をオレにしろ。いい加減この関係にもクソ疲れたんだ……」


 もうお前に振り回されるのはごめんだと言う言葉にナマエは何も答えず髪を撫でてた手を頬に添えた。


「バカなミヒャエル」

「あ?誰がバカだ。それはお前だ────」


 ふにりと合わさった唇は湿っていて暖かった。数秒くっつき離れると優しく微笑んで胸にしまっていた思いを打ち明けた。


「─────ッだったら早く言え」

「ごめんね」

「………痛かっただろ。悪かった」

「ううん」

 
 痕に触れ滲んだ血を拭う姿はしゅんと少し落ち込み元気がない。おそらく後悔しているのだろうがそんな事は思わなくてもいい。だってこれこそ、


(これでこれからもミヒャエルの中に私が刻まれる)


 あの場所で一目惚れ、彼が夢中になる球のように思って欲しいという彼女の思惑でもあったのだから。
 

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