■ ■ ■

「山口くんて背高いよね」
「ウワッ!?」

 完全に油断していた。一人だと思っていた教室で、背後から投げかけられた声に思い切り肩を跳ね上げる。
 ああ、振り返りたくない。後ろにいるのは誰なのか、声を聞いただけでもう分かっているから。
 それでも無視なんてできない。だってこんな姿を見られても本当は、話ができるだけで舞い上がってしまうほど嬉しい。

「みょうじさん……」
「ごめん、驚かせた」

 いたずらをしかけて、成功した子供みたいな、意地悪で無邪気な笑顔も可愛い。彼女の名前を呼ぶ声が少し裏返った気がしなくもないが、そんなことはもはや些事でしかなかった。 

「帰ってなかったの?」
「うん。今日委員会なんだ」

 そうなんだ、なんて当たり障りのない言葉しか出てこないけど、脳内はフル回転するので必死だった。みょうじさん、確か所属していたのは保健委員会だったよな。保健委員って委員会で何をやるんだろう。あ、これ話せばいいんじゃん。

「今度バレー部測定やるんでしょ? ちょっとだけ手伝うよ」
「え、そうなの!?」

 こちらから会話を広げようとする前に、みょうじさんから驚きの事実が告げられる。保健委員の手を煩わせるほどのことでもないと思っていたけれど、みょうじさんがいてくれるのなら話はまた別だ。

「あれ、そういえば、もう部活終わるような時間?」
「そうだよ。だからみょうじさんいてびっくりした」

 外はすでに暗く、灯りなしでは心許ないほどだ。校内から聞こえる声も昼よりずっと静かで、ここにいるのが二人きりだけみたいな錯覚を起こす。
 これは、もしや。チャンスなのではないだろうか。とても自然な流れで、一緒に帰るというイベントを発生させることができるのでは。ハッとして、思わずみょうじさんをじっと見つめてしまう。

「みょうじさんって歩き?」
「ううん、バス」
「俺、歩きだから、途中まで行こう」

 言えた。心臓が口から飛び出してしまいそうだったし、なんか言葉も足りてないけどとにかく言えた。みょうじさんは柔らかく笑って、うん、とだけ短く返事をした。

「もう寒いよね」
「ね。帰るのいやになる」
「でもみょうじさんバスでしょ」
「いやいや、バス停寒いのよ」

 足元を照らすのすらおぼつかない蛍光灯の明かりが今はありがたかった。寒さのせいではない、赤くなった顔をみょうじさんからきっと見えないように隠してくれる。でもそのせいでせっかく肩を並べるほどの距離にいるのに、みょうじさんを見ることができなかった。

「山口くん、やっぱり背高いよね」
「え、」

 先ほどと同じ問い。今度はみょうじさんが隣にいることは分かりきってるので、先ほどのように飛び上がることもなかった。そういえば、はじまることのなかった会話は置かれたままだったのかと思い出す。やっぱり、と口にしたみょうじさんは、とてもまっすぐにじっとこちらを見ていた。

「そ、う、かな」

 ごく簡単な質問であるはずなのに、たった一言ですら答えに詰まってしまう。なんでもないことなのに、なんて言葉を返そうか迷ってしまった。

「俺よりツッキーのほうがでかいから、あんまり考えたことなかったかも」
「確かに月島くんもでかいね」

 頭ひとつ分、小さいところから聞こえるみょうじさんの声は、あははと軽快に笑っていた。まっすぐなみょうじさんの目を見ていると、心に浮かんだ言葉をするりと掬いあげられたみたいな、奇妙で心地よい感覚に包まれる。

「山口くんと月島くんは、仲が良いんだねえ」

 誰に聞かせるわけでもない。そんなボリュームでぽつりとみょうじさんは独り言ちた。
 もしかすると、これは。今日はやけに勘が冴えていると思った矢先の気づきだった。
 みょうじさんが明確に言ったわけじゃない。それでも、今日この日までに幾度となく似た様なことを体験してきたのだから、雰囲気だけでもなんとなく分かってしまう。こういうことは大抵、気づいたところでどうしようもない。
 それでも自分から進んでツッキーの名前を出したのだ。ここにいない彼の。別に誰が悪いとかいう話でもない。強いて言うなら、そうすることでしか話を進められなかった自分に原因はある。
 ツッキーの話をしたくないとかそういうわけじゃない。ただみょうじさんに、もっと自分のことを知って欲しいと思ってしまっただけだ。

「月島くんがね」

 みょうじさんが呼ぶ名前に、心臓が、どきりと嫌な跳ね方をした。
 
「実はね、さっき月島くんとすれ違って」

 心臓が落ち着きを取り戻してからみょうじさんの声に耳を傾けると、少しの違和感に気がついた。二度繰り返されたツッキーの名前はみょうじさんの言葉をぼやけさせる。
 不思議に思って、みょうじさんは今何を考えているのか知りたくて、今度はこちらが見つめる番になる。

「山口くんが教室いるから、送ってもらえって」
「エッ」

 ツッキーが!? と呟いたつもりだった声は予想外に大きくなってしまった。
 こくん、と頷くだけのみょうじさんがどんな顔をしているのか、彼女が顔を向けてくれないとここからでは分からないのが口惜しい。というか、みょうじさんが何故突然そんなことを言い出すのか。完全に違うことを予想していた頭が状況に追いつかない。
 確かにツッキーは自分から女子を積極的に送ったりするようなキャラじゃないし、今日だって忘れ物を取りに行くといったらそれはクールにお疲れ、という返事だけだった。かと言って、他人におせっかいをやくような、そんなことをツッキーはしない、はずだ。

「じゃあ、お言葉に甘えようかなーって」

 月島くんのだけど。と自分の発言を茶化すみたいに笑うみょうじさんの声に、俺はどう反応を返すべきなのか迷ってしまって動けなかった。

「……いやじゃなかった?」

 そのまま固まっていた俺を、みょうじさんはようやく見上げてくれて訪ねてくる。おそるおそる切り出した声は、街の喧騒にかき消されてしまいそうなほどに小さかったけど、やけにはっきりと聞こえた。

「いや! 全然! 嫌じゃない!」

 不安気に眉を下げて、こちらの心中を推し量ろうとするみょうじさんの心配を吹き飛ばしたくて、大袈裟なくらいに手を振った。
 それを見たみょうじさんは、俺のあまりの勢いに目を丸くして、それから小さく笑ってくれた。良かった。そう呟いた言葉はじんわりと、温まったみょうじさんの心を乗せて届く。
 さて、言うべきは本当にそれだけでいいのか。
 バス停までの残り少ない距離の間で何から話そうか。迷っている時間はもうない。
 決意を示すのは、今この時を置いて他にない。


22.03.24

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