朝から浮足立っているのは自覚していた。
三島には非番に女でも買いに行くつもりなのかと揶揄されたが、そういう訳ではない。今日はお互い午後から非番である月島軍曹に銭湯へ連れて行ってもらう予定だった。
先日、苦手な射撃訓練で一度も外さず命中できたら銭湯へ連れて行ってやると約束をしてもらった。軍曹殿と二人きりの時間がもらえるとわかった俺は俄然やる気を出し、見事全弾命中を成し遂げた。
ただまあ……全弾的の真ん中ではなかったが。ともかく、俺は念願叶って月島軍曹との二人きりの時間を手に入れたというわけだ。しかも銭湯、普段隊舎で入る風呂は時間が決められていてゆっくり入る時間はない。芋洗いのようなあの風呂では疲れもそれほど取れた気がしないので、何も気にせずゆっくり入れる町の銭湯はありがたい。
さて、午前の勤務を終えた俺は銭湯へ行く準備を整えて待ち合わせ場所へ行く。あの方も報告業務が終わればもうすぐやってくるはずだ。昼間とはいえ北海道なので空気は刺すように冷たい、落ち着こうと深呼吸したところ鼻の中が凍り付きそうだった。
「垣内一等卒」
そこへ軍曹がやってきた。片手には手ぬぐいの入った木桶が抱えられており、糠袋らしきものも入っていた。
「待ったか」
「いえ、今しがた来たばかりです」
「そうか」
そう言って軍曹は先を歩きだした。俺はその後ろについて歩く。軍曹は俺より頭一つ半ほど背が低いので自然と少し見下ろす形になる。背は低いが隙の無い後ろ姿に惚れ惚れしているうちに目当ての銭湯についた。軍曹が番頭に二人分の入湯賃を渡し靴を脱いで上がり込む。
普段ほとんど靴を履きっぱなしの生活なので、匂いが気になるところだがどうせこれから風呂に入る。俺は靴の匂いを嗅ぐようなみっともない真似はせず、しっかり揃えて脱衣籠に軍帽を置いた。服をたたみながら脱いでいると「先に入ってるぞ」と月島軍曹が言い、先に風呂場へと姿を消した。
俺は慌てて軍服をたたみ、隣の籠に目を遣ったがあの速さにも拘わらず月島軍曹の服はきっちりと丁寧にたたまれていたので、俺が遅いのだと憂鬱になった。
足元に気を付けながら風呂場へ入ると、温かい湯気が逆流して顔に当たる。真昼間だったが、ぼつぼつと客は入っていて、近所の町人やご隠居たちが楽しそうに会話をしていた。
俺は何度か掛け湯をして体を先に温めた後、糠袋を濡らし体をこする。先にもっと体を温めた方がいいのかもしれないが、体が汚れたまま入るのはどうにも気分が良くないので昔から湯に入る前に体を洗うようにしていた。
ただでさえ訓練続きの毎日なのだから、汚いに決まっている。念入りに体を洗った後、ようやく湯船に入ると先に洗い終わっていた月島軍曹が手ぬぐいを頭に乗せ寛いだ様子で湯につかっていた。
「早いですね」
「垣内、お前は少し遅すぎる。いつも隊舎で最後まで残ってるんじゃないのか」
「ああ、そうですね、服をたたむのが遅いとよく言われます」
「もっと機敏に普段から動けるよう心掛けろ」
「はい」
銭湯にまできて指導されてしまい情けない。意味もなく手ぬぐいの場所を直す仕草をする。俺につられたのか月島軍曹も同じようにずれてもいない手ぬぐいを直していた。なんとなく気まずい。
「すみません、連れてきていただいたのに非番の時間まで指導を受けるような体たらくで」
思い切ってそう謝ってみると、軍曹は少し驚いたような顔して「いや、わかっているならいい。ついこちらも非番だと忘れていた」と言ったが、一拍置いて「せめて風呂から出るまでは指導しないように心がけよう」と続けた。
俺は「いえ、折角の銭湯ですのでこれから隊舎に帰るまでは月島軍曹にもいい気分のままいていただけるよう注意します」と返す。
「ああ、お互いいい気分で帰れるよう努めよう」
「ええ」
しばらく二人、黙って湯につかる。
久しぶりに長湯ができたせいか、俺は折角月島軍曹と二人きりだというのに、邪な事も余計な事も何一つ考えられず、ぼーっと天井を見たまま呆けていた。
それから二十分か、三十分ほどして「これ以上は湯あたりする、出るぞ」と軍曹に声をかけられたので俺は慌てて立ちあがった。
立ちあがったついでに、軍曹の傷だらけの裸体が今更ながら目に移り、傷の数だけ死線を潜り抜けてきたことを察した。俺はと言えば、残念なことに真新しい打ち身の痕や擦り傷、それから――
「随分と大きな痕だな」
左の腰から背中にかけて少し大きな火傷痕。これでもだいぶ小さくなった方だ。
「ええ、工兵になりたての頃火薬の量を間違えて手投げ弾を暴発させまして、不名誉な傷です」
自嘲気味に笑う。第七師団でなんとかやっていけるだけの力はあるが、それでも順位付ければ後ろから数えた方が早いだろう。銃も下手、近接戦もままならず、何度か軍を辞めたいと思ったこともあった。
しかしそれでも故郷に帰るくらいなら俺はここで闘いたい。国と、死んだ仲間のために、というのも本音だが、俺はそれよりも暗い我が家に帰る方が嫌だった。逃げっぱなしの人生を、そうではないと言い聞かせるために俺はここにいる。
月島軍曹はへらりと笑う俺を見ると、その傷辺りを軽く叩く。俺はびっくりして軍曹を見ると、真剣なまなざしで軍曹は言う。
「成長するために負った傷は不名誉なものではない」
「……は、い」
「そもそも傷に名誉も不名誉もない、あるのは痕だけだ」
とっさに鶴見中尉が思い浮かぶ。日露戦争で砲弾が当たり、頭蓋骨の一部が吹っ飛んだと言う。その場に月島軍曹もいたと当時から第七師団に所属していた皆が言っていた。戦争に勝ったのでそれは名誉の傷と言えるだろう。
しかし、終わってみれば我々軍人兵士への恩賞はない、それどころか責任を押し付けられて死んだ将校すらいる。
あの瞬間から鶴見中尉の傷も名誉なものから変わってしまっただろう。だから名誉だの不名誉だの状況次第で変わってしまうようなものに優劣はつけるべきではないのだ。俺は月島軍曹の言いたいことをそう解釈すると、黙って頭を下げた。
「……説教はしない約束だったな」
申し訳なさそうな顔で頬を掻くと、軍曹はこう続けた。
「もう一度湯につかって、気持ちを落ち着けたら帰るか」
「え、あ、はい!」
結局俺は軍曹に付き合ってもう一度湯につかったせいか、湯あたりしてしまった。
それでも幸せな時間だったと思ったので俺も大概馬鹿な奴だと思う。