酒井満雄は土方が好き


 酒井満雄は生粋の女好きである。
 当然今まで相手にしてきたのはどれも女ばかり。それなりに見た目も悪くない上、生来の口の上手さがあるので大抵の女は口説き落としてきたし、その口が災いして網走監獄へ収監されることになったくらいである。
 ところが近頃の酒井ときたら、これまでの人生では体験したことのない感情に戸惑っていた。
 その感情が何なのか、何と呼べばいいのか彼には大よそ検討がつかなかったが、傍から見れば彼の様子は恋い焦がれた男そのものだった。
 そんな彼の目が追いかけるのは自分の倍生きてきた老爺である。
 正確に言えば、老爺とは思えないほど若々しい―― 一人の男だが、酒井は親しみを込めてその男を「爺さん」と呼んでいた。別段自分の呼ばれ方にそこまで頓着していないのか、酒井の想い人である「爺さん」ことかの土方歳三その人は、その呼びかけに「なんだ」と目を細めいつも応えてくれる。
「なんでもねえんだ、ただ呼びたくなってサ」
 間抜け面で頬杖をついて、酒井は土方の深く皺が刻まれた顔を眺めて言う。
 用がないなら呼ぶな、と軽く諫められたが「だってよう」となおも言い訳をする。
「爺さんの顔、すげえ好きなんだよ……」
 うっとりとした顔つきで酒井は首を梟のようにあちこち曲げながら、どうやらいろいろな角度で土方の顔を眺めているようだった。
「俺ァ生まれてこの方、ずうっと女ばかり見てきてついぞ男の顔なんざこんなまじまじと見る日がくるなんて思わなかったけど、どうしてかアンタの顔が、生き様が、全部が愛おしいンだ」
「随分熱烈な告白だな」
「……ああそうか、これ、告白か」
 土方への賛辞が全て愛の告白になっていることすら気づかぬほど、酒井は骨抜きの様子でさすがの土方も少し呆れざるを得なかった。しかしそんな目線にもお構いなしになおも酒井は土方を眺め続けている。

「きっと俺、アンタになら抱かれたっていいし、抱けると思うんだ」
「御免被る」
「そう言うなよ」
 その勢いで土方の頬に触れようとする酒井の手を軽く往なし、土方は読んでいた新聞紙をわしゃわしゃと音を立てながら閉じた。全く、こんな調子ではおちおち休んでもいられない。
 それからふんふんと軽く鼻を鳴らしながら土方の立派な髭で遊ぶ酒井の手をぐいと引っ張ると、鼻と鼻がくっつきそうなほど近づいて至近距離で視線を交わす。
 まるで彼の持つ刀のように鋭い眼差しに酒井は思わず息を飲む。
「大人しくしておけ、満雄」
 言葉の刃があると言うのなら、まさに今のこの一言だろう。
 低い、深みのある歳を重ねた者だからこそ出るその声色に背筋がぞくぞくし、全身粟立つのを酒井は感じた。膝の力が抜けそうになるのを感じながら、熱っぽい視線を送ったがその視線はすいと受け流された。
「なぁ、土方さんよう」
 思わず、いつもの「爺さん」ではなく、酒井はその名を呼ばずにいられなかった。
 実のところ、かつての志士の名を呼ぶのが恐れ多かっただけで、本当はいつだってその名を呼びたかった。でもその名を呼べば、この老爺がどこか遠い存在になってしまうのではないかと恐れいていた。
 この人は並々ならぬ野望を抱いた爺さんで、新選組の志士・土方歳三その人だと認識するのが怖かったのだ。端から存命していた永倉とは違い、死んだ者だと思っていた人間が目の前に存在しているこの現実は、一歩違えば幻やそれに近い何かに変わってしまうような気がした。
 だから、自分の当たり前の現実にこの人がいるのだと、酒井はそう思い込みたかった。故に彼は土方を「爺さん」と呼んでいた。
 しかしその恐れもいつかは取り去らねばならない、土方たちと歩む道は現実より厳しいものだから。自分の都合の良い現実が終わるかもしれないという恐怖を胸に抱きながら、彼は土方の返答を待つ。
「なんだ」
 その視線は、いつも酒井に送られる、あの呆れが混じったものだった。
 満雄はほっと胸を撫で下ろしながら、土方の着物の裾を引っ張り、情けない間抜けな笑顔を浮かべて言う。

「なんでもねえ」
 さすがに小突かれた。