情
まだ夜明け間もない頃に昌文君は目を覚ました。
単純に歳のせいと、山積みになっている国の問題が気になっているせいか、おそらくどちらのせいでもあろうが、昌文君は早起きの部類であると自覚している。武官時代から常に周囲を警戒する癖がついているため、元々眠りが浅い方ではある。
ましてや、当時は命を狙われていた嬴政を守っていた立場となれば猶更気の休まらない日々をずっと過ごしている。
それでも最近は以前よりよく眠れるようになった方だと昌文君は思う。
そう、おそらく紅を妻に迎えたころだろうか。
長らく戦場で生きていた女だったからか、国に戻っている間も何かと忙しなく練兵の合間を縫っては土埃にまみれた顔でこちらを覗きにくるので、邪魔をされないよういつもより早く執務を進めるようになっていた。
夕餉を食べた後も何かと話をしたがるわ、閨に連れ込もうとするわでとにかく骨が折れることが多い。
まあ、閨の方は夫婦であれば義務とまでは言わずとも、紅の年齢を考えると昌文君も“仕方ない”と思っていたので、本当に辛い日以外はなるべく相手をしてやっていた。
別段、昌文君としては互いの年齢もあるので無理に子を望んではいなかったのだが、大王が望む中華統一を成し遂げるまではまだ長い道のりが必要な中、戦場が始まれば数年単位で会えない日々を送らざるを得ない二人の間を結びつけるものは案外少ない。
ただでさえ、弓から離れた矢のようにすぐどこかへ飛んで行ってしまうような女だ。何か自分のために生き続ける理由ができるのであればそれに越したことはないだろうと、昌文君は口には出さずともそう考えていた。
今の紅なら「子ができずとも昌文君がいれば生きて帰りますよ」と言いそうな気もするが、案外彼女は自己より他の幸せを望む性分である。彼女が女の身で戦場に立ち続けているのは色々な経緯があるものの、その芯になっているものは「自分のような孤児を無くしたい」という極めて純粋で切実な願いからだ。
そんな彼女だから、国と自分の命を天秤にかけた時、優先するのはきっと前者なのだろうと。
以前の昌文君ならそれもまた致し方ないと考えていたかもしれないが、「ならばそうならぬよう、どちらも救える道はないか」と考えるであろう程、紅のことを自身の家族だと考えていた。妻という身分を自ら提案しておいて、未だ彼女のことを妻と呼ぶのはむず痒い。それほどまでに彼女とは長く友ではない腐れ縁の仲だったからなのだが、婚姻を結んだ初めての夜に一糸まとわぬ紅を組み敷き、己の腕の下で破瓜の痛みに涙を浮かべる顔を見た時に昌文君は形容し難い感情に襲われたのを今でも覚えている。
王騎を亡くし、生気を失った彼女の姿を見た時もおなじような感覚に陥った。
昌文君の形容し難い感情をどう説明するかは人によるだろうが、残念ながら紅との間に男女の愛情を感じたことがなかった昌文君にその答えは出せなかった。
「ん……、もうおしごとですか」
衣擦れの音で目を覚ましたらしい紅が掠れた声で尋ねてきた。
「まだ寝ておれ」
起き上がろうとする紅をゆっくり寝床に押し返してやるが、紅はそのまま昌文君の腕をぐいと引っ張りこんでくる。足元がおぼつかず不覚にも紅の方へ倒れこんでしまった昌文君はそのまま紅に捕まり、顔を胸元に押し付けられる。
残念ながら豊かとはいえない紅の胸だったが、少し高めの体温が朝の空気で冷えた昌文君の顔をあたためる。不覚にもすこし心地よかった。
それから、とくんとくんと少しだけ足早に駆ける心臓の音。
彼女が国に帰ってからは毎日のように聞いて眠っているので、うっかりするとまた眠気を誘われそうだった。
「はなさんか……」
「ふふ」
いやです、とは言わなかったが悪戯そうに笑う彼女の声を聞いてため息をつく。
ゆっくりと体重をかけないよう起き上がると、まだ寝ぼけ眼の紅が笑っている。
「いってくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
また夜に、とそこだけやけにしっかりした物言いに他意を感じながらも、昌文君は自室を後にして王宮へと向かった。
ほんの少し、形容し難い何かむず痒い感情を抱きながら。
<了>