夕紅にしずむ
秦国の命運をかけた合従軍との戦いを乗り越え、つかの間の平和がやってきた。
紅も蕞で負った傷が癒え、ようやく復帰してから久々の鍛錬を終えため息をつく。
紅は騰軍に配置されていたが、蒙武と汗明軍との戦いの後始末を終えたのち、「お前は退却する兵を助けよ」と騰からの命令に従った。しかし、麃公敗死という予想外の状況に襲われ、急遽咸陽へ向かう飛信隊を助けていたが李牧の采配による追撃が思いのほかしつこく元々弩弓兵でしか構成されていない紅隊も大きな損害が出た。
王騎に続き、麃公まで目の前で失ったことで心身共に疲弊していた飛信隊にかける言葉を紅は知らなかった。自分自身が立ち直ったのは昌文君がいたからで、信にとって支えとなるべき言葉を見つけられるほど紅は信のことを理解できていないからだ。
しかし、咸陽を前に入った蕞には大王・嬴政が最後の戦いをするために飛信隊と紅隊を迎え入れた。
そこには左丞相である昌文君の姿もあった。
蕞の民も、大王も、飛信隊も、誰もが極限状態にありながらもその攻防戦は昌平君の腹心・介億の采配や山の民の協力もあり、武神・龐煖の出現という最大の危機もあったがそれも王騎・麃公の思いを継いだ信の活躍により秦国は滅亡の危機から脱し、大きな犠牲を払いながらも秦軍は合従軍を追い払うことができた。
論功行賞では蒙武や桓騎らがその働きを労われ、万極を打ち取り龐煖を退けた信が三千人将に昇格した。
紅も幾分か功労として褒美を授かったが、三千人将のままであった。
自分が王騎への別離に迷っている間に、あとからやってきた少年に追いつかれてしまった。あの調子では将軍になるのも時間の問題だろうと、あの戦いを目の当たりにした紅は肌で感じ取っていた。
―でも己にも目標ができた。もう留まることなく進める。かつて家族を失った私のような民を出さないように、今の大王が掲げる中華統一を成し遂げる。
紅は弓柄をぐっと握ると、武器庫へ弓をしまうために立ち上がった。
「紅」
「昌文君」
上から声がしたので見上げてみれば上の階から昌文君がこちらを覗いていた。手には何も持っていないあたり仕事がひと段落したようだった。
紅は「どうしました?」と聞きながら、すぐそばの階段からトトトと二段ほど飛ばしながら上がる。
「少し話をしたいのだが」
「大丈夫ですよ、今ちょうど終わったところです」
それを聞くと昌文君は「なら良かった」と言いながら、歩き始める。紅もそれに従って昌文君の少し後ろをついて歩く。
もうひとつ上の階層へ昌文君は移動して、あまり人気のない静かな場所へと紅を連れてきた。空を見れば太陽が落ち始めていて、あたりは夕日に染まって赤みを帯びていた。
「それで、話とは?」
「お前と儂のことだ」
「……ああ、あのことですか」
合従軍がやってくる前、紅は昌文君に「貴方と家族になりたいです、それは親子ではなく夫婦として」と先に自分の思いを伝えていた。
しかし、昌文君は予想外の答えにかなり動揺して、その場で答えを出すことができないまま合従軍との戦いに入ってしまった。
あの時の回答を出してくれるのだと、紅はすぐに理解したので昌文君と向かい合うように体の向きを変える。
「てっきり、儂はお前がそこまで好意を抱いていると思わなかった。儂もまだまだ大王のために粉骨砕身お仕えするつもりだったが、別にお前が妻として跡を継ぐ子を産んでもらおうとも思っておらんかったからな。儂の子でなくとも、秦には優秀な人材が集まりつつあったからな」
「そうですね、ここ数年でたくさん将来有望な子たちが頭角を現してきました」
「だからお前との婚姻はお前さえ立ち直れればそれでいいと思ったのだ。王騎と摎、両方の人物を知る最後の知人を失うのは惜しかった。お前にはあの二人のことを語り継いでほしかった。もちろん、一部隊としても秦にとって大切な存在だ」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいですね。貴方に褒められたことはあまりありませんでしたから」
「お前はやり方が荒すぎるからな」
昌文君はあきれたように片手を目元へ遣る。それからそのまま深いため息をついた。
「だがそれはかえってお前に失礼だった」
「……」
「儂は、お前のことを一個人としてではなく、この国の歯車の一つとして見ていなかった。もちろん、この儂自身もだ。しかし、国は人、その考えに丞相である儂が誰よりもわかっていなかったなどとは……なんとも情けないことだ」
二人を照らす夕日は半分ほど地平線へしずみ、その西からの赤い光は昌文君の顔を覆うほど強かった。
「紅」
「はい」
「お前は……儂のことを、どう思っている?」
「……昌文君、私は一人の女として、一人の男である貴方を愛しています。だって貴方、初めてちゃんとお話しした時からずっと私に厳しくて優しかったんですよ? 今更ですが好きになってもおかしくないでしょう。でも付き合いの長さのわりに私はまだ貴方のことを全然知れていない。だからこそもっと知りたい。だから一番傍に居させてくれませんか?」
紅はそう言い終えるとにこりと笑った。昔、初陣前の彼女と出会ったときに見た笑顔と変わらない、あどけない顔立ちの、しかし今はもう歳を重ねたからこそわかる彼女の内面がよくわかる、可愛らしい笑顔だった。
蕞での攻防戦、誰が死んでもおかしくない極限の状態で、二人が出会ってから初めてこんなに近い場所で戦ったが、すでに敗走してきた紅が限界を超えて戦っているのを近くで感じた時、今まで感じたことが無いような不安を感じた。
それでも遠くから聞こえる紅の声を耳にするたびに、昌文君は確かに内心安堵していた。
大王・嬴政が玉座に帰るための戦いでも感じた、大切な人を亡くす恐怖と不安。久しく胸に感じていなかったこの感情を抱く理由は……。
「紅、お前に女としての幸せを与えてやれる保証も、夫婦としての幸せもどこまで与えてやれるか正直なところわからぬ。それでもいいか」
昌文君の精一杯の回答に、紅は意地悪く笑う。
「そんなもの、私は貴方に要求しません。でも欲しくなったら自分で勝ち取りますので、お覚悟されよ丞相殿。……それよりも、ねえ? 結局のところ、私のことは愛していらっしゃるのでしょうか? そこだけはハッキリさせておきませんと」
からかうように言ったが、紅の頬はおそらく夕日のせいではなく紅く染まっていた。昌文君は眉間にぐっと皺を寄せると、何度か唸ってからようやく言葉にする。
「知らん、儂は、紅、お前を愛しているかは。だが、だがな! お前を死なせたくはない、国を担う一人だからではない、儂個人がただ死なせたくないのだ。そのくらい……ええい! この歳でそんなこっぱずかしいことが言えるか!」
「あ、黙って見守っていましたがついに言いましたね! 駄目です! 私だってもういい歳なのですよ、娘の時分ならともかく、ああ……いや、娘時代なら逆にこんなこと貴方に感じませんね、ふふ」
今の私だからそう思うし、言葉にできるのです。そう言って、紅はぎこちない動きで昌文君の胸元に飛び込んだ。
墨の匂い、木簡や竹簡の匂い、それから少し汗ばんだ昌文君の匂いが感じられる。この人はこんな匂いなんだと、紅はうれしく感じた。
「昌文君、もう一度聞きますね。私と……」
「紅、儂と生きろ」
紅の言葉をさえぎって、窒息するかと思うくらいの強さで抱きしめながら昌文君はそう告げた。
昌文君なりにせいいっぱいの言葉なのだと、先ほどの様子から見て感じたが、紅はもうそんなことどうでもよかった。
昌文君の「愛している」はこれから先ゆっくり引き出せればいいのだから。
「はい……昌文君、私は、紅は貴方と生きます」
大きな背中に紅の両腕は回りきらなかったが、それでも可能な限り紅もせいいっぱいの力で彼を抱きしめ返した。
目を開けていられないほどに眩い夕焼けの光に溶けていくかのように二人は強く抱き合い、その下の地面で一つに重なった影は日が暮れるまで分かたれることはなかった。
《了》