初めは不安に包まれた高校生活も、半年も経てばすっかり慣れた。クラスのヤンチャそうなヤツらも根は優しいヤツばっかりで、体育は極力サボりたいおれが端っこで存在を消していると、ケツを叩いて仲間の輪に入れてくる。体育に関しては限りなく省エネモードで動きたいおれにとっては余計なお世話だけど、それをちょっと嬉しいと思ってしまう自分がいたりもする。でも、バスケのリバウンドをゴール下からぼけっと眺めていたら「ボールに貪欲になれ!」とか言ってくるから、体育にガチの不良かぶれはやっぱり怖い。
「バスケの授業は今日で最後になります。次回からは持久走になるので、外履きのスニーカーを忘れないように」
先生の言葉に、おれは戦慄した。
――持久走。
嫌いな三文字熟語ランキングで、堂々のワースト一位に躍り出る単語だ。持久力を試されるという点においては並んでシャトルランも嫌いだけど、これは自分の意思でやめられるから、好成績を望まなければ悪くはない。おれは大抵、「五回は頑張るわ」と言って、大概三回でやめる。あとは体育館のステージにでも上がって、苦しい顔をしながら耳障りなリズムに合わせて走る人間を悠々と眺めるだけだ。けど、持久走は話が違う。いくらやめたくても、設けられた時間が終わるまで走り続けなければならないという、悪魔の競技だ。中学の頃にも持久走の授業はあったけど、規定の外周回数を成し遂げられた試しがない。それどころか、男子よりも基準の甘い女子の回数にも満たなかったと思う。来たる翌週の水曜五限、地獄の持久走が始まってしまう。憂鬱で仕方がない。
「マジで最悪」
「まあまあ、走りきれなくても、毎回参加しておけば単位はもらえるよ」
「……そういう問題じゃないんだよなあ」
毎回出ていれば、とは言うが、持久走があるなんて知らなかったから、体育の授業は既にわりとギリギリまでサボっているし、参加したとしても意欲はまるでなし、実技もてんでダメ。こんなことなら持久走を全力でサボるために、せめて前半戦くらいは頑張って成績貯金をしておけばよかった。単純に疲れるから嫌いだということもあるけど、ラップタイムを測っている女子たちにへろへろの惨めな姿を晒すのが、地味にメンタルにくる。嫌々のなか、みんなと並んで発走し、みるみるみんなと差が開いて、さっきまで前を走ってたやつに後ろから抜かされたから、おれは周回遅れになっているらしいことを悟った。
「はあ……はあ……」
喉痛いし足重いし、余裕そうなやつらにガンガン抜かされて惨めだし、気分はすこぶる最悪だ。聞いてみれば体育の単位がギリだと補習として、春休み前に滑り込みで走り込みという名の持久走をやらされるらしい。しかも時間の制限はなく、なんとしても走りきらなければならない鬼畜仕様だ。おれは全力を出しても男子の規定レベルに届かない雑魚なもので、これ以上手を抜いたら単位を人質にした更なる持久走が待ってると思うと、悪寒ばかりが全力疾走してしまう。ふらふらの足でもなんとか前に進もうとしていると、後ろからふざけ合いながら走ってるヤツらの足音とやかましい声がして、体力バカがよ……と、おれはもはや呆れの境地だった。
「わっ」
そいつらに追い抜かされるときにまあまあな勢いで体がぶつかり、踏ん張る力すら失っていたおれは、そのままアスファルトの上に転がった。余裕こいてふざけてるヤツらのせいで健気なおれが痛い目に遭うとは、惨めにもほどがある。ちょっと男子!と咎めたい女子の気持ちが、今ならよくわかる。ふざけ合いをしていたヤツらは「悪ぃ!大丈夫か?」と声は掛けてくるものの、体力バカにはブレーキが搭載されていないのか、そのまま走り去って行った。今どき自動運転の車のほうが断然賢い。
「相澤!大丈夫か?!」
今度は後ろから心配の声が飛んできて、顔を上げてみたら南がいた。……やっぱお前しか勝たん。
「うわ、膝、結構いったな……。立てるか?」
「うん、べつにこれくらい……」
正直擦りむいた膝はめっちゃ痛い。小学生ぶりの結構な擦り傷に日和ってるのも事実だけど、ちょっと強がって立ち上がろうとしたら、右の足首に鈍痛が走った。思わず「痛!」と声を上げてしまったものだから、もう通用しないであろう強がりはやめることにして、正直に苦い顔をした。
「足、挫いてるかもしれないな。保健室に行こう。付き添うよ」
「……ありがと」
ちょうど走ってきた汗だくの中村くんに先生への伝達を頼んで、おれは南の肩を借りて右足を庇いながらなんとか歩いた。少しの負荷が掛かるたびに足首が痛んで、その都度痛い痛いと口に出してしまっていたせいで南は足を止めて、おれの挫いたらしい足首の状態を確認してくれた。
「ここから保健室遠いな……。足、腫れてきてるし、おぶっていこうか?」
「え、マジで!?いいの!?」
真剣な表情で介抱してくれていた南が、わかりやすくはしゃいだおれを見て、そんなに喜ぶことかなって笑った。だって、この歳になっておんぶしてもらうなんてレアじゃん、って言ったのも本音。だけど、南がおれのためにそう言ってくれたことが、ただただ嬉しかったんだと思う。しゃがんでくれた南の背中に乗っかったら、いくぞの掛け声とともに軽々と持ち上げられて、幼いころに親におんぶしてもらったときとは目線の高さも全然違って感動した。南との背丈に大差はないが、自分と比べて背中はでっかいし、肩も分厚いし、安定感半端ない。お父さんみたいだ。
「相澤、ちゃんと飯食べてるか?」
「めっちゃ食ってるよ。今日ももうおにぎり二個とお弁当と、あと菓子パンとじゃがりことポッキーひと箱食ったし。……おれ軽い?」
「ああ、大分軽い。でも、それだけ食べてるなら心配いらないか」
南は逐一おれの足のことを気にかけてくれて、保健室の手前ではまたおれに気遣いながらゆっくり降ろしてくれたうえに、たった数歩も支えながら歩いてくれた。これ、もしおれが女子ならこのやさしさに完全に惚れていたと思う。南ってなんで恋愛の噂立たねーんだろ。
「あーあ、膝、派手にやったねえ」
「右の足首も挫いてるみたいで」
「あー本当だ、腫れちゃってる」
おれの状況説明もテキパキ済ませて、保健室の先生が傷口の消毒と言葉を発したところで、保健室まで怪我人を運ぶという役目を終えた南がじゃあ、と去ろうとしたので、おれはすかさず腕を掴んで、
「消毒!消毒終わるまで、一緒にいて!」
情けなく、懇願した。ほんと、正直、小学生ぶりの結構な擦り傷って、この歳でやらかしたら怖いし、絶対消毒されるし風呂は染みるだろうしで大分落ち込んでて、南が一緒にいてくれてなかったらマジで一人で泣いてたと思う。てか、正味、いざ消毒されようとしている今まさに泣きそうだ。保健室の先生は「子どもじゃないんだから」と呆れていて、南も先生と顔を合わせて仕方のないやつ、とでも言いたいかのように一緒に苦笑していた。おれ、まだ15歳だし、十二分に子どもだろ。結局南はひとまずの処置が終わるまで一緒にいてくれて、足首に関してはちゃんと病院に行けと言われたのを面倒くさいとごねたら、これまた父親みたいにしっかり叱ってきた。おれは帰りのホームルームには出ず、このまま近くの病院に直行することになった。
「南、マジでありがとな。応急処置だけど、さっきよりマシになったよ」
「よかった。お大事にな」
「……おう」
体操着のまま階段を上がっていく南を合わない焦点で眺めて、しばらくそこに立ち尽くした。ぼうっとしていた耳に、遠くからだんだんと賑やかな声が近づいてきて、ホームルームを終えた生徒たちが階段を下ってきているのだとわかった。正気に戻ったおれはやっと下駄箱からローファーを取り出して、右足は踵を踏んで履いた。挫いたはずの右足首は、なぜかあまり痛くなかった。
この日からだ、南と一緒にいると、頭か……、体のどっかが、うっすらと苦しく感じるようになったのは。
おれは結局この日、病院には行かなかった。