夏休みも終盤に差し掛かったころ、早朝の犬の散歩を終え、久しぶりに家でのんびり過ごしていると、相澤からメッセージの着信があった。休みに入ってすぐに一度会ったきり、連絡も特に取っていなかったから、何用だろうかと気になって、すぐに受信画面を開いた。そこには「課題終わらない」「助けて」の二通が届いており、俺は迷わず「手伝おうか」と送ると、その後すぐに電話が掛かってきた。
『ほんっとに数学わかんなくて、まだ名前しか書けてなくて……南、いつ空いてる?』
「明日と……あ、今日でも大丈夫だけど」
『マジ?じゃあ急だけど今日でもいい?』
相澤の弾けた声を聞いていると、自然と笑みが零れる。場所の候補としていくつか挙げたなかで家という選択肢を与えたら、まるで遊園地にでも誘われた子どものように食いつき、さらに弾んだ声で楽しみだと言った。昼食を済ませてから来るというので、俺は自分の課題を見返して、数学の問題を確認することにした。たしかに、今回の課題は難易度が高かった気がする。
しばらくして「今から行く」と連絡が来たので、表の通りまで迎えに行くと返信した。相澤は方向感覚が著しく欠如しているらしく、見知った土地でも迷子になる。慣れない住宅街の中では迷うのではないかという懸念があったからだ。遠くから黒色のキャップを被った相澤らしき人が見えて、横断歩道の向こう側で俺を見つけるなり、きょろきょろと車の通りを確認してから、軽くぶつかる勢いで駆け寄ってきた。
「お待たせ!暑いのにわざわざありがとな」
距離が近いのは付き合い始める前からで、暑い暑いと言いながらも俺の隣すれすれを歩いては、時々汗ばむ腕が触れ合った。暑いのならもう少し離れたらいいのに、とも思うけど、この距離感は心を許している証拠なのだと思うと、なんだか愛おしくも感じるから、言わないでおいている。家に着くなり出迎えたうちの犬に相澤は大興奮で、人好きの犬も客に喜んでくるくると回って歓迎している様子だった。
「わあ〜!手が毛で埋もれる〜〜!名前なんていうの?男の子?女の子?」
「ナッツっていうんだ。男の子だよ」
「ナッツくんかあ〜〜!かわいいなあ、夢みたいだ」
相澤がさぞ嬉しそうにナッツと戯れている間に、二人分のお茶を入れて部屋に持っていった。
「あとで相澤に遊んでもらおうな」
すっかり相澤の膝の上で落ち着いていたナッツをリビングに帰して、早速毛まみれになったハーフパンツを愛おしいと言い始める相澤にはおかしくなった。犬好きとは聞いていたが、ここまでだとは。気を取り直して俺たちは課題を広げて、問いの1からひとつずつ進めていった。
「……ごめん、全然頭入ってこない」
「すまん、わかりづらかったかな」
「あ。違くて、……おれが集中、できてなくて」
「一旦休憩するか?」
「……南が、近くて、ごめん、ドキドキしちゃってた」
馬鹿正直にこうして爆弾を落とすわりには、だからちょっと離れるわ、ごめんごめん、ちゃんと聞くからもう一回、と言って平然とシャープペンシルを持ち直すから、俺もなにも言わずわかったと説明を再開した。……いつもゼロ距離の相澤が何を言っているのやらと思ったけど、あらためてそう言われると、こっちが釣られて緊張してしまうじゃないか。
それからはスムーズに進んでいき、休憩も挟まずに最後の問題に取り掛かった。初めと比べれば一人でである程度問題を解けるようになっていて、教えた甲斐があったと達成感すらある。
「終わったー!」
凝り固まった肩を伸ばしたついでに、相澤は俺の体にもたれかかった。だいぶ空調が効いていたのか、相澤の体温が温かいと感じた。
「なあ、南」
「ん?」
相澤は俺を見上げていた視線を逸らして、代わりに探り当てた手を弱々しく握ってきた。
「……ちゅー、したい」
思考が一時停止した。驚きももちろんあったけど、何のせいか、胸が苦しくもなった。手のひらを握る細い指が、ぎこちなく離れていって、
「……やだ?」
また、上目遣いでそう言った。ごめん、突然のことだけに一向に心の準備ができなくて、ただ頷くだけでも、勇気がいるんだ。
「嫌じゃない、嫌じゃないんだが、……少し、待ってくれ」
一旦精神を落ち着かせようと目を閉じると、その隙をついて唇にやわらかい感覚がして、驚いて目を開くといたずらに笑う相澤がいた。
「ごめん、嫌じゃないって言ったから」