BGM:Hurricane#1/Only The strongest will Survive
テーブルクロスの下でつま先をなぞるような











「ユメさん、今日はちゃんと食べないとダメよ。お薬も。良くなりませんよ」


彼女は27歳。
毎朝愛してると言ってキスをしてくれる、最近昇進したばかりの旦那さんと暮らしている。
旦那さんは玄関ですぐ靴下を脱ぐ癖があって、それを何度注意しても洗濯に出してくれない事で、最近喧嘩をしたらしい。

旦那さんは不機嫌に家を出てって、悲しくなった彼女は、私ももっと優しくならなくちゃと、彼が大好きな柔らかいフレンチハンバーグを作って、求めすぎたよね、ごめんね。ってメッセージを送って、帰りを待ってみたんだって。

そしたら旦那さん、袋いっぱいのコンビニスイーツと、新しい靴下を10足くらい買って戻ってきて。
負担が軽くなるように、そもそも自分で洗う様にすればいいんだ、でも君みたいにマメにはできないだろうからストックを買ってきたって。
一緒に暮らすのが嫌だって言われないように、治すように頑張るから時間くれって。スマン愛してるって謝ってくれて、嬉しくて泣いたんだって。

玄関からは靴下が消えて、こうやって夫婦を作り上げている実感が幸せって。

嬉しくて彼の部屋を掃除に入ったら、隅っこにたくさん脱いだ靴下があって、やっぱりな。と、もういっか。で、ため息がでたけど、「今日はコンビニで一番高いパフェを買ってきて」とだけメッセージを送って、見なかった事にするんだって。でも不思議と、何だか幸せって思ったらしい。


-パフェ楽しみですね。


今日の献立 と書かれた紙を裏返して、そう書いて見せた。


「もしハズレ味だったら、やっぱりケーキがいいなって、お使いやり直しの刑にするわ」


ベッド備え付けのテーブルを手際よく組んで、にこやかに食事を並べる。

ユメさんも、早く元気になれるようにちゃんとお薬飲んでね。と、一言。最後に薬袋を添えて、ワゴンを押して出ていった。



不思議だなぁ、この人達って。
栄養があるとか無いとか、良くなるとかならないとか、いつまでここに居るのかとか、そんな事私にはどうでもいいって、知っていながらに病院ごっこやってるんだから。


悪い人達ではないんだ。
そうせざるを得ない、長い物には巻かれろ、上には敵わないってだけで。ただの善良な人なんだ。
この人達はそんな、ただそれだけの「普通の優しい人間」だって解ってるのに、当たり前に中に宿ったままの普通の優しさが、私の心を見ないように知らんふりしてくる。

そうして何でもない日々を鮮やかに決め込んで、何食わぬ顔で、プラスチックの白に乗ったしっとりした塊と、くたびれたブロックみたいな物と、ただの薄い汁とを私の目の前に並べるんだ。更にお薬の重ねがけをして。



12:00
皿。箸。スプーン。

手を合わせて、頂けます?
こんなもの。

私はこれを一体、どんな顔して食べるの?突き付けられた現実が、積み上げた幸せな日々の差分、喉につっかえて、日に日に飲み込めなくなっていく。静かに見下したまま、面白いぐらい動く気になれない。



「いつも食べてないだろ」


驚いて扉を見れば、少しだけ開けた隙間で壁にもたれたマイクさんが私を見ていた。


「こんな施し受けてたまるかって顔してるぜ?」


油が足りない、ブリキの玩具みたいな素振りで止まってしまった。その実、頭の中の私が色んな事を言うから、収拾がつかないでいた。


今は駄目だ、真顔なんだ。
笑えない。どうしよう。
なんの反応もできやしない。

マズイ所を見られた。
笑えないんだよ。
駄目なんだ…でもなにが?

折角幸せをいっぱいくれる人の前でいつもみたいに笑えないから?私はこの人に見られたくないの?あの日は見つけて貰えて心底嬉しかったのに?あれ程誰かに見つけてもらう事を望んだのに?弱いから?強がり?なんで見せたくないの?


…ああ。解った。
幸せを貰ってるうちに幸せにしたくなったんだ。笑ってる所しか見せたくなくなったんだ。あんな顔で笑ってくれるから。

益々ごめん。ちっとも笑えないわ。こんなの全然幸せな私じゃないじゃない。こんな姿みせてさぁ。心臓が痛いな、今すぐ姿を消したい。だって、笑えないんだもん。

あぁ、あの日もそんなんだったかなぁ。そういえばマイクさんは、あの笑えない日々を終わらせてくれたんだったな。


そこに至った瞬間、
ほら、だから助けに来てるじゃない。と、現状と意識が重なった。

フラリと腕が上がって、両手で求めた時には沢山の涙が服を濡らしていた。
マイクさんは直ぐに抱き締めに来てくれて、首に腕を絡めると、抱き上げたままベッドに腰掛けた。



「今日は出掛けようか。外出許可出せる?ユメちゃん」


どこに?と首を傾げる。マイクさんは私を見なかった。しかし優しげな眼差しに反して、一点を見つめ続けるその意志の強さは、圧倒的なヒーロー像を見せつけてくれる。いつもこうして、些細な泣き声を迎えに来てくれるんだ。


「ステーキくらい食べられるんだろ?もう仕込んであるんだぜ?まぁ…俺ん家だけど。…そこは…百歩どころか千歩くらい譲って許してよ」


あぁ、私はまだ話せていない事が沢山あるのに。それでもそっと不安を拭ってくれるような優しさに心救われていく。

背中に回した手に力を込めて胸に沈んだら、目を閉じた暗闇から、甘さを含んだ疑惑が浮かんで見えて、見つけてしまったそれを離したくないと心臓が駄々をこねる。

二度頷いて、迂闊に溢れてしまわないように、私はぐっと息をこらえた。







ユメは敷地を出る事に対して、少し身構えているように見えた。車を出してからも、不安からか身体はずっとこちらを向いている。


「なぁ、あの男、院長の息子なんだろ?調べたら直ぐ解ったわ」


赤信号で止まった辺りからずっと、ユメが病室の窓から薬を撒いた所を思い出していた。

軽い冗談で言ったつもりが、あの目を見るとは思いもしなかった。走り出してすぐに息が上がる様子も総じて、まるで病院が故意に体力を奪っているような、そしてそれを本人も知っていて抗っているような。

その糸は無闇に解く事はできないんだろう、ユメの見せられている世界では、何が敵で何がヒーローか解ったもんじゃない。


普段話しはしない話題に初めて踏み込まれて、助手席からは酷く驚いた様子が伝わってきた。


「大丈夫だって、下手には動かねぇから」


ユメが言った通り、虫除けになっているようで、外出に関してクソヒーローは出しゃばる幕がなかった。

それでも奴にとってイレギュラーなヒーローが現れたというのは想定外で、そうなるといつかは手を打ってくるだろう。守りに徹していては分が悪くなるが、下手に動けないのならせめて、今の最大限できる事を用意しておく必要がある。


「まぁ、しっかり食って。またいつでも鬼ごっこできるようにしとかねぇとな」


気が緩んだのか、空気がふと軽くなるのとユメのお腹が鳴ったのは同時で、どんな顔をしているか容易に想像できて、思わず笑ってしまった。


日常生活を送る自分のテリトリーにユメがいるのは、借りてきた猫を見ているようで微笑ましいものがある。

でもそれは初めの数分だけで、少しは店に見えるだろうと白いテーブルクロスを渡すと、自ら纏ってヒーローポーズのようなものを決めていた。


「なぁにユメちゃん。俺を助けてくれんのォ?…キャー助けてヒーロー!皿を並べてェェ!肉焼くので忙しくてェ」


格好よくマントを放り投げて、丸テーブルに掛ける予定だったんだろう、失敗して床へ落として、露骨に「あ、ごめん」みたいな顔をして笑っていた。


「おいダメダメじゃねぇか」


小芝居しながら食卓をセッティングして、まだですか、まだですよ。と笑いあって、そんな風景を、こんな映画あったなぁなんて穏やかな気持ちで眺める。


野菜を寄せて、真ん中にカットしたステーキを盛り始めた辺りから、ユメのあの声は始まった。

隣にメモとペンでも置いてやればよかったなと思ったが、ライブで熱狂したキッズの歓声のような波長を出して手をわなつかせている所を見ると、多分置いてやっても書かなかっただろう。ユメの歓声のボリュームといったら、イヤホンジャックが抜けた時以来の大きさだった。


「あーあー、大きい声ですこと」


テーブルの周りを右に2周、左に1周半位はしていたと思う。俺の手を引っ張って写真を取ったり、拍手をしたり、とにかく喜んでもらえたようだった。


横に立ち、そっと椅子を引き直すと、神妙な面持ちに変わっていく。そのまま隣で眺めていようと思ったが、頂きますの手を下ろしてフォークを手にしても、その先は中々進みはしない。

左手で顔を覆ってしまった指の隙間から涙が溢れて、そのうち消えると彼女が笑った、いつかの青アザが治った腕を綺麗に伝って落ちて、胸が痛くて、とても抱き締めずにはいられなかった。


「どういたしまして」


指に絡んだフォークを代わりに置いてやり、寄せた頭を撫でる。この瞬間を噛み締めるような、堪能するような静かな涙だった。

穏やかに続く幸せと自由を、こうして笑える日々を少しづつ取り戻してやりたいと、時々はにかむユメを見て思う。

時間内に戻らなければならないとなれば、あまり広い世界は見せてやれないだろう。そう考えると、時間の縛りを解きたくなった。そして単に、一緒にいられる時間が増えれば、とも。



「なあ、外泊許可は取れないの?」


緩やかな時間の中で、髪の滑らかさを楽しみながら聞いてみる。ゆっくり見上げるように振り向いた彼女は、唇だけで何かを伝えようとしていた。



-食べるの?


予想外のパンチのような事を、とんでもない角度から打ってくるものだから一瞬止まってしまった。余りにも可愛くて、ニヤつく口元が戻ってこない。


「なぁに。食べられたい、の?」


なかなかの勢いで身体を離し、ばしばしと腹の当たりに小さな講義を始めるから、流石に怒らせたくはないなと手を挙げて降参した。


「調子に乗りすぎた、ごめんごめん!これ以上は傷付く前にやめとくワ」


しばらく暴れる反応を楽しんでいたが、突然大人しくなったユメが服を引っ張った。何か言おうとしているようで、指でなぞるジェスチャーを始める。


「あー、背中でいい?」


後ろを向こうとしたが、首を横に振って、そのままでいろと阻止された。

ゆっくり胸を突いた指先は、そのまま文字を綴っていく。理解するのにタイムラグがあったが、きいてみます。と読めた頃には俯いてしまっていて、つむじしか見る事ができなかった。


「ちょっと、それは…男の悪気が止まんなくなる…ケド?」


わざわざ逆さ文字にして隠す辺り、いや、もう読めてしまった今となっては隠せてもいないが。完全にしてやられて、ドクンと脈打つのが解った。


「もっと顔見せてよ」


両手を髪に差し込んでこっちを向かせたら、剥き出しになった耳の縁が赤みを帯びていて、理性とはこうして崩れていくのかと、案外儚いもんだなと思う。薄く開いた唇の隙間に勝手に吸い込まれそうだった。

濡れそぼった睫毛と、行き場をなくした瞳を、もっとよく見たくて追い詰めるように角度を変える度、服を掴む指に力が籠り、響いてくる心電図のような波形は大荒れしていく。


逃げるのを諦めた視線が絡んで、震えながら息を吐くユメの姿は、やけに神聖な生き物に見える。そもそも俺だけが聞こえるなんてのがマズかった。


「なぁ、こんなの勘違いすんだろ…」


やっと見つけてやれたんだよ。待っててくれたんだろ?俺を。俺だけに聞こえる声?俺だけの声なんだろ?

そうやって、俺だけに聞こえる声だったのが、都合よく、俺だけの声にすり変わってく。

連れ出す時に両手を広げて泣いていた。あれは誰かというSOSではなく、ユメが初めて俺と解っていて助けを求めた瞬間だった。俺はそれを汲んでやれただろうか。…いや、山田ひざしとしてユメを望み通りあの病室から連れ出してやれたんだと、確かに一瞬錯覚して、自惚れてしまったんだ。


しかし簡単には食べてしまえないほど、俺は幸せを明らかに盛りすぎたよなぁとも。

余韻だけを残したせいで、二人して苦しくなってしまったが、それすらも愛おしく思えた。


「食べようか。ほら、ちゃんと食べないと帰れないぜ」


完全に救われるまで、今はまだ置いておこうか。確かに、どう食べようかテーブルを回りながら五感で堪能するのも癖になるくらい美味いものだ。できれば何度でも惑わせて、この脈打つ瞬間を味わいたい。


「口開けてご覧。少しづつ食べような」


彼女が持つフォークに手を重ねて、ひとつずつ時間をかけて口へと運ぶ。間に少しの涙をのんで、一緒にと、次は自分の口元に差し出される。

指で互いの唇を拭い合いながら、その光景をひどく耽美で官能的だと思った。世界が二人だった事に気がついた時から、既に心臓を掴み合うような、琴線に触れるような関係だったんだろう。




【テーブルクロスの下でつま先をなぞるような】


惜しみながらも送り届けた頃、怪訝な目で見るあの男と俺達は鉢合わせた。何も言わずに去っていったが、部屋の扉を閉めたユメは、ただ一言、時間の問題かもしれないと記して、ノートを手渡した。

 






fix you