BGM:P!nk/ Who Knew
オフィーリアの告白





目を覚ました私は、あまり時間が経っていない事を知って、近頃、日課にしていた画面の赤いボタンを押して、壁際に押し付けた携帯を花と枕で隠し、もう一度眠った。


二度目の夢は何を示唆したのか、またあの続きで、花を見たせいか、彩度をあげて上手に再現した。


どこからともなく流れてきた水は瞬く間に川になり、背筋をなぞる様に濡らしていく。水を吸い上げて重たくなった服が、体を地に貼り付けて、手足を動けなくさせた。

流れは更に大きくなり、耳を沈めて地上の音を奪った後、頭皮を逆立てるように髪を流して、次は水の世界の音を聞かせる。
落ちていく水圧の苦しさでもがいた私は、水面に向かって上っていく泡の先に太陽の揺らめきを見て、手を挙げたまま、目を開けた。


光は豆電球によるもので、横目に写る見慣れた夜の壁には、お辞儀をするような角度で、影が折れ曲がって伸びていた。

身体を圧迫しているらしい本体を見れば、息が掛かりそうな距離で、腹の黒さを少しも写さない、丸々とした目とかち合った。


「少しも、ゆっくりできませんね」


男は、天井へ突き出した私の右手首を掴んでいた。夢から急速に意識が戻り始めて、私に力が戻ったのを感じとった男は、手首をぐっと締め直す。

同時に振り上げた左手も捕まり、血管を圧迫しながら、不快さを煽るゆったりとした口調で不思議そうに首を傾げていく。


「…何故、ですかねぇ」


男の背中からゆっくりドーム型に広がるガード壁は、ベッドごと飲み込むように閉じていく。

左の太腿に乗った足が食い込んで、痛みで瞼が少し揺れた。この人の壁は氷のように冷たい。背筋が凍りそうに寒くて、気を抜いたら浅い呼吸を止めてしまいそうで、必死に腹で息をした。


「一緒に遠い所へ行きましょう」


右足はまだ動きそうだ、少しでも浮いた瞬間を狙わなければ。重心が左腿へ傾いたせいでさっきより深く食い込み、出ない声で喉が鳴る。
でも今だ、手が解放された今しか。ガードを出してる今なら両手が空いてる。今、今動け。

よじって引き抜いた脚は、大きく振りあがって肩の辺りに落ちた。でも全く攻撃になんてなっていない。寧ろ足首を掴まってしまって、変な角度で止まったせいで太ももの付け根がピンと糸を貼るように痛んだ。


「一週間もしない内に整えますからね」


何ひとつ怖くないもので、マイクさんの顔が浮かんだ。なんの確証もないけれど、あの人ならどこへ行っても私の声を見つけてくれる気がした。
諦める事を諦めた人の心を折る事はもう出来ない事を、灯台がある限り船は迷子にならない事を、この人は知らない。


ふと思い出したせいで、一瞬思い出が駆けていく。あ、そうそう、マイクさん。一人で逃げてるんじゃないんだと履き違えさせてくれた給湯室の隅で安心させられたな。あと、マイクさんは私の個性を可愛いと言ってくれた。嬉しかったんだ、ありがとう。使えるなんて思った事が無かったのに、そう思うと、ことごとく側にいるみたいだった。


また捕まってしまった両手の拳の中で、出来る限り泡を液体に変えて、最大量のシャボン玉を溢れさせる。やりすぎると目眩がするけど、もう全力で足掻いてやるつもりしかない。
滑って離れていったのをキッカケに、開いた指からは沢山のシャボン玉が飛んだ。


ああ、
ちょっと綺麗じゃない。
少し楽しいな。


ガードを外すしかなくなり、そのタイミングで光った巡回の懐中電灯に気が付いた男は、無言で何事も無かった様にあっさりと去っていった。


空中に未だ残る泡を、呼吸を整えながら眺める。そして遠のく足音を聞き届けて、携帯の画面に向かって座り、一呼吸。

消してしまわないように、
ゆっくり停止ボタンを押した。



全部の決意が上手く運ばなくても、あの人に会えなくなっても、多分私はもう腐ったりしないだろうなと思う。
だから最悪に備えて、気がかりだった人達に会っておいて良かったと思った。



-ひざしさん、
-部屋にあの人が来ました。
-入れ違いで居なくなったら、
-系列の病院に必ず居ます。

-私を、探してくれますか。


私はこの日を待っていたのかもしれない。そして、あの人は怒りんぼだから、メッセージを読んだらきっと、血相かえて走ってきてしまうなと思った。




あの人の眉間の皺の深さは、
ひざしさんという人間の愛の深さだ。踏み込んでは一歩引く時の、あの困ったような顔。
私のために、怒りの衝動を精一杯堪えてくれているのがひと目でよく分かる。


友達のフリして巻き込んでくれた時から、ずっとだった。部屋まで送ってくれた時も、入院はずっとだと書いた時も、毎日来てくれると言ってくれたのに信じられなかった時も、腕の痣を隠すためにジャケットを渡してきた時も、薬をばら蒔いた一瞬も、ハンドルを握る横顔も。

そうやって、何処にもぶつけようが無かった私のやるせなさと苦しさを、ひとつも取り零すことなく全部拾い上げて、噛み付くみたいな暴言と悪態に変えて、一緒に持ってくれているみたいで、いつも嬉しかった。


綺麗に救われる事が出来ないのは私の我儘だ。本当は出会った日のように、直ぐにでも助けたいと思ってくれているのを知ってる。

それでも私の我儘を汲んで、
納得もいかないままずっと、すぐ泣いてしまう私の涙も全部丸ごと、一緒に飲み込み続けてくれていた優しさ。


あの日私が食べたのは、
そんなあの人が見せてくれた、最高の自由とハッピーエンディングだったんだ。


外出した日、抱き上げたまま中々降ろしてくれなかった彼の目の力強さと、大事そうに抱き締めてくれた腕の強さは、紛れもなく私が夢にまで見たいつかのヒーローだった。

ひざしさんは少しのロマンスまでちゃっかり乗せて、ありがちなアクション映画を毎日、一口ずつ味わわせてくれた。


最初からずっとずっと、
幸せだったんだ私は。

だから。

今も、これからも、
彼がかき消したノートみたいに、
全部塗りつぶしてやる。

私はもう、
ずっと幸せ、なんだ。



サイレントで鳴った電話に出ると、荒い呼吸に加えて風を切る音が聞こえる。何も怖くなかったのに、文字通り風のように走り出してくれたんだろう事がリアルに伝わって、涙が滲んだ。



「今向かってる!!YESなら1回 NOなら2回だ。いいな……無事か」



爪で一度、ノックを返す。

無事だと伝えて尚、待ってろと急速に電話は切られた。全力で走るために回線を繋いだままにしなかった彼らしさを思うと、涙を堪える方が困難だった。


そのまま画面のメッセージ欄に、見せるための言葉を綴ろうとしたけれど、心臓がおかしいくらいに鳴るから、指が滑って言う事をきかない。
結局、来るまで目一杯に時間を使ってしまったせいで、綺麗でいる事さえ出来なくて、溢れて止まない涙は、拭うには石鹸が目にしみて、ただただ、両手を広げるしか無かった。



「ユメ、」





…この人と、
会えなくなったら?

笑わせてくれる
騒がしい日々が無くなって

全部消えて
私の毎日は出会う前に戻って

心の声を
聞いてくれる人は居なくて

優しく撫でてくれる手も
抱き締めてくれる温もりも
全部全部なくなって

大切にされず無下に扱われて

無駄な抵抗を繰り返して

既成事実でも作られて?
一生囲われて?無で暮らす?

救いようがないって、
…彼が諦めてしまったら?

ねえ、
話して上手くいかなかったら?







駄目だ、
無数に浮かぶんだ、本当は。

ああ、数時間前に会ったばっかりだっていうのに。やっと会えただなんて思ってさ。少しも怖くないなんて言って、本当は怖さを拭い切れないでいるな、こんな顔を見てしまったら。



-連れてって
-私をたすけて
-ぜんぶはなすから





オフィーリアの告白






 






fix you