波紋のように広がる余韻は4096Hzのクジラの唄声
Avicii / sunset Jesus







土曜日の午後、生徒が通院していた病院へ、事務の書類を取りに来ていた。総合待合の椅子で呼ばれるのを待ちながら、テレビを眺め始めてからもう30分は経つ。

病院はいつも長ぇ。まぁ診察じゃない分まだマシだが。退屈な足を組みかえて電光掲示板に目をやるが、持たされた番号はまだ光らない。

すると、番組が終わり、CMが始まったタイミングで、耳鳴りのような何かが聴こえてきた。

初めはテレビの砂嵐とか、音響の演出か何かかと思った。しかしどうやら違う様で、睨み続けたテレビは何食わぬ顔でCM明けを迎え、なんて事ない、お料理コーナーを始める。

周囲をいくら見渡しても、何の変哲もなく穏やかな待合室であり続けた。


いつの間に呼ばれていた受付で書類を受け取り、お大事にと言うお姉さんに聞いてみる事にした。


「ご苦労様デース。…あとこれ、変な音すんの聴こえる?」


「…?テレビの音ですかね?」



それはまるで俺にしか聴こえてない様な口ぶりだった。


耳鳴りの様で、全く違う。
耳障りではない。ビリビリとも、キーンでも無い、表現の難しい響きだった。


犬だった事も無いし、クジラの事さえ微塵も知らないが、例えばそれは犬笛やクジラの持つ周波数の様な、波紋のように広がる余韻がある。

近しい物を上げるなら、チューニングの音叉かもしれない。一説には天使の声に近いなんて逸話を思い出すくらいに、それは心地が良かった。しかしそれは次第に波打ち、荒れる様にボリュームを上げていく。

用が済んでも帰る気にはなれず、不思議な音の発信源を探りながら辿った。

診察室は遠ざかり、人は徐々に薄くなっていく。そうしてL字の最後の角を曲がり見つけた光景は、まさに異様な匂いを放っていた。




無理やり掴まれたのであろう、腕を振りほどいて尚、何かを突きつける女。
そしてそれを叩き落とした男。

震えながら男に立ち向かう彼女の瞳のゆらぎは、今自分だけが聴いている波紋と同調する様に揺れていた。

感は告げる。この局面はどう見ても犯罪一歩手前の危うさで、思わず全速力で割って入っていた。



「…呼んだよな?エンジェルちゃんはyouであってんの?」

久しぶりとか適当な事を言って乱入したが、彼女が救われてくれるとも限らない。テンションが高い男風の影に聞きたかった事を隠してそう問えば、彼女は目を爛々とさせて酷く驚いた顔をする。

助けを求めていたんだろう証拠に、あれだけ聴こえていた周波数は、そこでピタリと消えた。



後に聞くこの男のクソ野郎具合は、そりゃあとんでもなかった。守るために当てられたヒーローの癖に、彼女が助けを求める事が出来ないのをいい事に、好き放題しているんだろう。
突然現れた俺なんかに合わせて、大人しく小芝居に乗ってくれる辺り、間違っちゃいなかった。

しばらく立ち尽くした後、
彼女は唐突に俺の腕を掴んで外を指さした。そして同時に、またあの周波数。


静けさを取り戻したからかもしれない。緩やかに巻き込まれて行く事を感じながらも、俺の足は彼女が連れ出す方へ、躊躇いなく踏み出した。


今まで助けを求める声が届いた事なんて無かったんだろう。誰の目も無いだろう、秘密の場所に駆け込んでからというものの、彼女の目から溢れる涙はとめどなかった。

助けを求める所へ、何処へでも飛んで来るのがヒーローで。じゃあ求める事が出来ない彼女の様な、歪みに落ちた人間はどう救われろというのか、そう考えると酷く胸が傷んだ。

俺は聴こえる、聞こえた。
俺なら?

助けを呼んだのか、その声は何なのかの答え合わせをする間、証明する様に彼女はまた大声を上げた。
勿論それは俺にしか聴こえない音の波となって響く。でも知っている。リミッターが掛かった喉でのその行為は、裂けるように痛む事を。興奮気味の彼女は止めても尚、三度も叫んだ。


もういい。
俺が聞こえてる。
俺が聞いてる。

何度も言い聞かせる様に伝れば、やっと届いたのか、強めの周波数は止まり、広げた腕の中に収まってくれた。

保護して連れ帰れば、この状況から救えるのか?そうも考えたがしかし、ユメはそれを望みはしなかった。「貴方が居るなら私は無事」と言う。

今はここまでと言うユメから、違った糸口が聞けるまでは、望んだ救い方は出来ないのかもしれない。


病院を転院すればいいんじゃ?走って逃げ出せば?そんな安直な事を選ばなかった理由は全部、ユメの話さなかった「駄目、今はここまで」の中に全て隠されているんだろう。
泣いてただろうに。何にも屈せず立ち向かっていた、揺れる瞳の強さを思い出す。
駆け付けるまでの間、一切途切れること無く響いたあの音は、一体。

ユメにとってはいつからだ?毎日?こんな日々を一人で戦い抜いて??


そんなユメが唯一求めたのは、ただの友達になって下さい、だ。


ユメの周波数、
それは俺だけが聴こえる声。


こんなささやかな声すら拾えないヒーローなんてあるのかよ


腕を掴んで走り出した彼女に甘んじて足を踏み込んだ時から、きっともう腹は決まっていた。二度と聴き逃しはしないと。


腑に落ちないこの気持ち悪さはなんだ?この弱き者を救う建物の中で。何故こんな悲壮が産まれる?そんな場所へ返すのはあまりにも真っ暗すぎやしないか。

到底安息の眠りが待っているとは思えないのに、それでも彼女が戻るというのなら、もう見送るしか選択肢は無いんだろう。

気休めみたいな言葉しか残せない。暗い部屋に戻っていく彼女を見届けられなくて、先に踵を返したのは俺の方だった。



【波紋のように広がる余韻は4096Hzのクジラの唄声】




 






fix you