BGM:Lana Del Rey
Chemtrails Over The Country Club
Chemtrails Over The Country Club
懐中ベッドの水火孵化
後ろ手に伸ばした手に乗る、濡れた感触が離れてしまわないようあんなにも時間をかけて歩いたのに、あっという間に陸と海の境界線は近くなる。
船上からでは叶わない距離から初めて見る鯨の尾ヒレの波型は、個体識別の指針とされるものではなく、長い時をかけて割かれてきた古い傷跡の名残りでもあった事が分かり、その衝撃に思わず息を飲み込んだ。きっとユメはそれを理解していたんだろう。
それ以上動く事ができなくなった手から離れていったユメは、数時間前までは戯れるように泳いでいた鯨の横へ並んで寝そべると、開かれることの無い瞼を見つめて語りかけ、何度も何度も寝かし付けるように、その頭を撫でつけていた。
「終わりがあるのもまた、幸せ」
砂地を人型に濡らすのが水膜ではなく涙のように思えて仕方がないのに、ユメは微笑みを見せる。
どんな顔で見ればいいのかが解らない。どんな姿勢を保っていればいいのかさえ解らず、内蔵が混沌と、かき混ぜられているような感覚に目眩がする。
「胸の中のお家にお帰り」
まだ生きられたと思った自分、
終わって良かったと言うユメ。
静かに分かつ意見、
重なることの無い世界観、
おやすみと括られた子守唄のような囁き。
それは言わずもがな、知るもの同士の会話。
近付いては温もりを得られたように錯覚し、
その度にこうして大きな壁に隔たれる。
危うく落とした肩からぶら下がる濡れた手の存在を忘れる所だった。ユメへと伸ばし掛けた指が歪に動いてグローブを軋ませるだけで留まる。目の前に居るらしいユメは空間を歪めて、手が届かないほど遠くに居るらしい。それならこの手に肌を掴めない事に納得がいく。
なぜ笑うのかを聞けもせず、抱きしめることもできず、ただユメが微笑むほど取り残され、なされるがまま波打つ孤独に叩かれる。
傷ついた彼女を慰めたいというできた話ではなく、ただ抱き締めたいのは自分だった。寂しいのも痛むのも触れたいのも必要なのも、全部自分だった。
改良の施設で、ユメが自分の意思で会うために追ってきた事を知り、憂いは僅かに拭われていた。イレイザーがいたずらに寄越した動画にはそわそわとしたユメが探し歩くような素振りで映っていて、今日は帰らないと聞いた瞬間の顔には頬が緩んだだけではなく、理由はどうあれ、ユメも求めている事が分かって熱くなった。
数日の憂いと、横たわる白鯨にユメを重ねて勝手に胸を締め付けられている孤独と痛みの冷たさを、呼ぶより早く自ら会いたかったと胸に飛び込んだユメが甘く熱する。繰り返される温度差は決して重なり合うことはない事を示しているようだった。
「心は胸のお家へ帰るのよね」
「…あぁ」
「なら身体は海へ」
液化したユメは、引き潮と同じリズムで鯨の下で砂をへこませる。手伝うように背中で押してやれば、白い身体はゆっくりと海に飲まれていく。
立ち去る頃、砂浜には薄い足跡とややくっきりした足跡を並べたが振り返れば一人分しか見えず、海で産まれた者は海に帰りたいのだと言ったユメは鯨と共に波に消えたように思え、自分だけが溶け残った様な気にさせた。
◇
今日は帰らないと言っていた通り、
島で唯一のホテルに部屋を取っていたらしく、昼間イレイザーから連絡を受けてすぐに一名増えたことを伝え、ついでに特別な景色の部屋を選んだのだと教えてくれた。
彼の手でじゃらりと鳴る、143と刻まれたホテルキーが好きだと思った。鍵を差し込み回す手つきは船では見ないもので、尊く神聖な所作に感じられる。
手元に目を奪われたままの私を覗き込むように笑った彼は、片手で軽々と白塗りの扉を開けた。
「ユメちゃん好きだろ」
窓から見えたのは夜空に映える島の鋳鉄灯台で、
絵画の如く切り抜かれたように壁に張り付いており、真っ暗な海に灯台のフレネル光が緑の一筋を伸ばしていた。
夜に光る白い鋳鉄塔は美しく、見惚れる間、そよぐ窓枠のレースを濡らした事にしばらく気が付かない程だった。
静けさに振り返ると、いつもの癖か僅かに隙間を開けたドアは閉められずそのままで、マイクは大きなベッドに仰向けに転がり、いくつものクッションに背を預けて正面に当たるこちらの窓を眺めていた。
憂いを引き摺る瞬きの緩さが、いつもとは違った微笑みを作っている。酷く疲れているような脱力感で気だるそうに一つずつ装飾を外して小脇の机に置いていき、ひとつ置いてはまた目が合う、そんなゆったりとした所作だった。
「元気がありません」
「そうかもな」
ベッドの側まで寄ると、隣をトントンと示す。
濡れますよと言うと、どんな個性でも対応できるように作られているので平気だと言った。
「私に何ができますか」
「居ればいい」
「嘘です。私はいつも居るのに貴方がいない。近頃変です。味見もありませんし呼びません。触れなくなりました」
「あー…」
示された場所から少しずれて腰を下ろした私は首を傾けて彼を見る。丁度目を逸らしていく所で、頬の当たりを指で二度ほど掻いていた。溜息に似た発声は伸びて、言葉を探したまま見つからない、そんな様子で消えていく。
「ジャケットの乾きが悪いからだと思っています」
「今更ァ?!そんな事気にしねぇよ…濡らすのは気になるか」
的外れだと笑った彼は一瞬元気そうに見えてほっとする。安心して話を続けられそうだった。
「貴方が嬉しそうにするから気にした事がありませんが。最近は避けている様でしたので気にしています」
「…はぁ…ごめん…悪かった」
話したくないのなら話さなくても構わない。
ただふらりと消えてしまうのなら、大事な事を伝えておくチャンスは今ここにしかないのかもしれないと考え、私は立ち上がった。
「大切な話をします。あそこは貴方の居場所。私はそれを奪わない。居候は私です。席を外すなら、私です」
「待て!……行くな」
突然目の色を変えた彼の手は、焦ったような性急さで背を向けた私の腕を貫いた。加減を失ったのか、たくさんの水しぶきが床を濡らす。
私は驚いてしまい、
ドアの隙間を視界に捉えたまま、
目は普段の倍に見開いていた。
背中から聞こえたのは
ぎりりと歯を軋ませる音、
濁らせていた話の続きだった。
「ユメが欲しいだけだ」
驚きのあまり呼吸ごと言葉を失い、彼と目が合うまで、思わず振り返った事にも気が付かずにいた。なんて苦しそうな顔をするのか、それが私のせいであるなんて。
深入りも介入もせず都合よく物分りのいい彼等に甘えて、宿り木で羽を休めている様なものだと解っていても、寝覚めから始まる景色はいつも楽園の如く花鳥風月を思わせる。
そうして彼によって覆されてきた沢山の無意味の中から、残った僅かな無意味がひとつ。
最後の無意味が既に意味を持ち始めた事に目を瞑っていたが、目を瞑る事こそが毒であると彼が苦しむのなら、この目を開き、見つめたくて仕方がなくなってしまった。
影を重ねるだけの滑稽なタンゴで彼は、もしも死の時を迎えたら見殺しにされたいか、毒されると知って私に殺されたいかという問い掛けにそれは救いだと答え、私に救われるのなら毒さえ美味しく食うのだと言った。
いいえ違う。
毒は毒でしかない。
聞こえよく言い換えず、
毒されながら殺されたいと、
私にそれができると認めればいい。
そうですか。
これで救われるのですね。
貴方にとっては毒は毒でなくなり、
欲しくて貰えると嬉しいものなのですね。
相対する思いは今でも私の中で変わらず、押し寄せては引いていく波のように砂粒を転がしている。
しかしどうしても、
憂う彼は毒に溺れ苦しむ姿そのものに見える。
彼は嘘つきだ。
美味しく頂けるなんて、とてもそんな風ではない。満たされはせず少し食べれば次が食べたくなるものだ。毒の苦しみを拭うには更に強い毒を服す他ない。
苦しいのなら飛び越えようとするのを辞めればいいし、飛び越えられるかもしれないという夢を見なければいい。それでも諦めず、嫌だ、欲しいと夢を見るのだから彼らしいと思い、相変わらず胸に温かさが宿ってしまう。
素知らぬ振りをして宿り木に止まっていればよく、風のように留まらず、一喜一憂する事も無く、撫でるように時は過ぎればよかった。
しかし温かさを認識する程、美しいと思う程、彼を見ていたくなってしまう。苦しみ溺れる姿は見たくはないのに求める彼に振り返ってしまう私も、彼の毒に犯されているのかもしれない。
欲しがるように後を追い、名を呼ばれてもいないのに飛び込んだりなぞして、昼間の広場で当たり前に互いを懐に迎え合い逢瀬を重ねて愛を囁き合う光景に食卓の飴玉が映す採光の記憶を被せ、あのように居られたらどんなだっただろうかと焦がれ、会いたかったを零し。
葛藤は同じだけの苦しみを伴うが、それでも手を広げて笑う彼に飛び込む時だけは和らいだ。
どうしても覆らない無意味もあるのだと知りながら、こうして彼に揺らぐ嘘つきな自分を好きになる事はできない。しかし一方で、彼は嘘つきで美しいと思った頃、私は彼の苦しみも拭いたくて顔に手をかざした。
「…なに、これ」
「フリです。貴方はよくこうしてくれたので。苦しいですか」
「いいや…まあでも、ユメが行くならそうかもな」
「貴方が居ろと言うなら行きません」
「マイクさん」
「なぁに」
「一緒に寝ませんか」
次に言葉を失うほど驚いたのは彼だった。
瞼へかざしていた手で額をなぞる頃、大きな瞳が揺れて、開かれたままの口が私の言葉を聞き、力を込めてぐっと結ばれていく。
「触りたい」
立ち上がってドアを閉じた手は鍵を閉め、
すれ違いざまに濡れた服から腕を抜いて椅子の背に、そこから一つずつ点々と床に落ちるグローブの先で私の腕を掴み、その仕草に巻き込まれる様にしてベッドへ倒れた。
「寝返りで溺れるかしら」
「踊ってねぇから大丈夫だろ」
裸の胸に寝そべり、肩から胸を何度も撫でてみる。もう少し芯や硬さがあればこの素肌を感じる事ができただろうか。背中から回された頭を撫でる手も、同じように考えているだろうか。
苦しみは増しやしないだろうかと心配になり見上げれば、近付いた額に唇を寄せる幸福そうな眼差しが伏し目がちに見下ろしていた。
女は、しつこく額を啄む男が何度目かで零した「独り占めの味だ」という言葉を聞き、こんな幸せな拘束もあるのかと、カプセルから生まれる前の水槽で、何度も会いにやって来る彼に見られながら眠るのが好きであったなと思い返し、夢のような懐中ベッドに沈んだ。
男は、触れたがるものが変わらず無であり、形を成すことはなく永遠に叶いはしない事を、先もその先も突き付けられるであろう事を恐れ、求め続けた者は救済されないのですねと彼女が言ったいつかの映画を思っていた。
「救済ねぇ…ユメちゃんは閉じ込めた奴どー思ってんの」
「可哀想な人」
そして手を伸ばし続ける自分もまた、
そう悪と変わらないのではとふと考える。
彼女には哀れに映るかもしれない。
触れたがる事を愚かに感じていたが、腹の上、身体の横と、少し遅れては追い掛ける様に重ねられる手には、胸がすくほどの救済と幸福を感じていた。
懐中ベッドの水火孵化
翌日、
昼間だというのに
船へ戻るやいなや突然始まった踊りに、
ユメ本人が一番驚いていた。
ユメが初めて本能に抗う様にして咄嗟にこぼした、 "嫌だ" という小さな声を聞いて言葉を失い、出迎えたイレイザーと二人で顔を顰めた。
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