投函箱「管理人にエサを与える」より
【 寒くなり始めたので、船に乗って間もない新人が船の人達から冬服を少し分けてもらう話はどうでしょうか相手は誰でも】
遠くに見えるT字路からはネオン街の明かりが溢れ、薄汚れたこの暗い路地の端を照らす。まばらに立った今にも折れそうな街頭の下では闇市の商人達が敷物の上にそれぞれの商品を並べて静かに座っていた。
ユメはその中の一つ、
盲目の商人の檻の中にいた。
怒りも悲しみもなく無に近い状態でも久しぶりの外気はやはり普段とは違った気分にさせてくれる。
星なんて見るのはもう何年ぶりだろう。
その数多の粒のひとつ、
一際輝く赤星が懸命に生きてきた礎を全て壊そうと揺らいでいる様に見えるせいで遥か遠い昔に見た希望の光を思い出していた。
私は二度、
救われた事がある。
一度目は村を焼かれ、残った女子供を連れ去り奴隷として売り出そうとした集団から。
生まれて初めて入れられた鉄格子の中で真っ暗な未来を想像し、私という人格はこの檻に入った瞬間に死んだのだと、諦めの中でヒトである事を捨てる覚悟を決めた。
そんな矢先、 遠くから聞こえたざわめきは段々と檻が並ぶ部屋へと近付いて来て、めまぐるしい戦闘の片隅でさも偶然の様に並んだ檻の上部を全て破壊した。
光を見失って周りなど見えていなかった私達は初めて目を合わせ、隣合う彼女達と手を取り合いその場を必死に離れたのだ。
走り去る最中、誰とも知れぬこの騒ぎとチャンスをくれた騒ぎの中の彼が一度だけこちらを見た気がして感謝の気持ちを力の限りに叫んだのを覚えている。
二度目はそれからたった数日後。
戻る場所を無くし、近隣の村で世話になりながら新しい生活を送っていた私は何が何でも生きるのだとあの背中に誓った手前、働き口を探すのに必死で酒屋の手伝いだと思っていた裏には怪しげな個人接待が待っている事にも気が付かず、言葉匠に乗せられて怪しげな飲み屋の門を潜った時だった。
話が違うと抵抗するも素性を見せた店主は悪魔のように笑いながら私を殴り飛ばし、白昼のガラリとした店内の奥へ奥へと引き摺っていく。
その瞬間、締め切っていた扉が開き
「随分物騒だな」と呟いた彼こそ、再び生きる事を誓ったあの人だった。
強面の店主が怯えながらに「赤髪」と言った事で初めて彼が有名な海賊船の頭である事を知った。
二度も光を見せた彼を忘れた日なんて一度もない。どんな事が起こっても希望を忘れはしないと強く心に決めて明るく前向きに生きていた。挫けそうになれば星を見上げ、彼と同じ色をした強く輝く赤い星を眺めて無理にでも前を向いた。
けれど、毎回救世主が現れる訳ではないのだという事を直ぐに思い知らされる事になる。荒れた時代がそうさせたのか、そういう運命なのか。無法者達の手中を渡り歩くうちに私はその光を完全に見失ってしまった。
次はどんな買い手がつくだろう
路地の奥からは無数の足音が近付いてくる。薄汚れた身体をさすりながら、もう気持ちを切り替えなければと空から目を逸らした時だった。
「…お前は確か」
言葉を忘れ、
目を見開くだけの私を見下ろす変わらぬ姿、その声、揺れる独特の髪色。
目が合ったのは
記憶の済に追いやられて尚、
心に巣食い続けるあの赤い星だった。
赤髪のシャンクスは私を買い、
今度は海賊として船に乗せた。
もしまた会えるのなら、その時こそ希望に満ちた逞しく生きる女でありたいと思っていたのに、二度も命を救われておいて無事ではいられなかった上に私は多くのものを捨て、笑って御礼すら言えないほど固く冷たく石とさほど変わらぬ無機質な物に、自ら変わってしまっていた。
彼はそんな私をまた救い出し、
勝手に助けて放り出した俺の無責任さがお前の未来を狂わせたのだと、その責任を取ると言ったのだ。
「ごめんなさい」
「何がだ?」
ぎこちなく過ごす中で時々生まれる二人だけの時間はこんなやりとりを繰り返す日々が続いたが、いつだってあっけらかんとした声が降ってくる。
そして冷やすなと最後にはいつも私の肩にマントを羽織らせて、微笑みながら頭を撫ぜて去っていく。二度も救った憧れの、もはや救世主を超えた存在の彼はいつだって眩しく優しさに溢れていた。
それが、
冷気が肌を包み始め、またあの星が輝きを増す季節がやってきてからというもの、彼と二人になった瞬間に恐ろしい何かが歩み寄ってくるような不安感に苛まれる様になった。
長年染み付いた習慣はなかなか取れず、頼りない布切れの様な一枚生地のワンピースを好んで着続ける私を心配してか、シャンクスはいつも色んな服を羽織らせてくる。
これ履いとけ
これ貸してやる
確かに身体は温まった。
だけどその度に何かがゾワゾワ騒ぎ始める。幸せの絶頂にいる私を得体のしれない黒い者が船の物陰から目を光らせているようなそんな感覚で、おやまぁそんなものを着て、と不気味に笑っているようにさえ思えるのだ。
その恐怖に耐え切れず、
かと言って幸福な私には泣く事も分不相応で。ただ彼が被せていった黒いマントの端を両手で握り締めて、船の隅で、海原をなぞる様に伸びた航路の軌跡を眺めるふりをしていた。
「船酔いか?ユメ」
背後からの声は普段通り陽気だ。
一年も居て船酔いなんてする筈もないのにわざとそんな風に声を掛けてくる。
そんな気遣いが苦しくてまた涙が溢れたけれど、巻上がる飛沫がそれを全部海へと返してくれる。傍にでも寄らない限り気が付かないだろうと、私は動じずに借り物の黒い襟を立てた。
「どうした」
全身を抱くように張り付くマントも
逆風で逆立つ髪も全てが涙を隠した筈なのに察しのいい彼の前では無意味だったようで、いつの間に隣に立っていた彼は私の肩を掴んで半ば強引に振り向かせた。
「あったかすぎるのよ、信じられないくらい」
諦めて言葉を発し、
シャンクスの表情を見たのと同時に抱き締められて、その瞬間の暖かさに私は初めて気が付いた。
私が怖いのは、シャンクスだ。
シャンクスは唯一の光で、人として生きる事を捨てようとした私を闇の中から二度も救ってくれた。
…でも、
「ごめんなさい」
生かせなかった三度目の命。
あの日々の中で歪んでしまった心が、
シャンクスは二度私を捨てたんだと囁く。
「あんな星屑より俺を見てくれよ」
シャンクスはそう言って、
温もりを与えられる度に怯える私を無視するかのように、またどこから持ってきたのか毛布を一枚、懲りずに背に掛けてくる。
それは欲深い人間達とは正反対の暖かい目で、悪気なんて一切無いよ!と言わんばかりのこっちの気持ちに全くそぐわないニッコニコとした笑顔で、思わず呆れて笑ってしまう程のものだった。
「皆剥ぎ取っていくだけだったのにシャンクスは私に着せたがるのね」
「あっためる事が愛だって言うんならいくらでも着せてやるぞ。なんならパンツだってくれてやる」
「それはいらないよ」
ゆるゆると抱き締める腕がくすぐったくなって胸板を押し返せば、張り合うように再び力が込められて、身体が軋みそうな程の力強さに心臓までがぎゅうと鳴る。
「…もう逃げろって言わないで」
「そう何度も逃がしてやらん。ユメこそ逃げるチャンスはもう無いからな」
私が求めたのは救いではなく、
救世主からの愛なのだという事には
当の昔に気が付いていた。
そして今ではその愛が
充分過ぎるほど私を暖めている。
でも残念ながら私には、
それを見定める事ができないのだ。
自信の無さは
物陰から覗く黒い影となって、
その温もりは幻か誠かと
今でも私に問いかけ続ける。
だからシャンクスがあんな星屑と呼んだ
あの星を眺めるのをやめられないのだ。
赤星様、赤星様
お願いします教えて下さい。
一枚、また一枚と羽織らされる布切れは
救えなかった罪悪感を拭うためですか。
責任を果たす為の義務ですか。
どうか、
もう一度だけ私を救って下さい。
「シャンクスが居なかったら、
自由になんて生きられないよ」
彼は本当に愛してくれてますか?
私は愛されていますか?
シャンクスの言葉を
温もりだけを信じてもいいですか?
心の片隅でそう問う度に、
全てを包み込むように強く
赤星は何度でも瞬き続けた。