ふらりと立ち寄ったバーは思いに耽けるお決まりの場所へと成り代わり、彼が残した糖度を忘れられずいつまでも飲みふける。孤独を撫でてくれる奏者は弦を掻き鳴らす男であったり、三人組のバンジョーの陽気さであったり、まるで愛する者を失った様に、切な歌い方をする女であったりする。小ぢんまりとしたステージに立つ者は日に日に変わっても、記憶の中では変わらず、いつも何かのジャズが流れていた。

カウンターに伏した腕枕の前に新しいグラスが置かれ、向こう側が淡い黄昏色に染まり、南国の幻想を映す。数時間前から増えた人の出入りはピークを迎え、遂に腕枕へ顔を乗せた背後、左隣が埋まる。
喧騒に溺れていたい情緒でグラスの向こう側を透かし見る右隣は今、派手なリーゼントの男で埋まった。


煙草に火をつけ、糸のように立ち上る白を眺めるのは幻想的で気分が良い。渦を巻く様子を目で追いかける私をちらりと見た男は何も言わずマスターに酒を頼む。もう一度返ってきた視線は頼んでおいて口を付けない私の酒と、隣り合う空になった同じグラスを見ているようだった。


「おネーサン、そんな未亡人みたいな酒何倍も飲んでんの」

「未亡人どころか私も死んでるようなものね」


横目でしか見なかった男の瞳は笑い始める頃に向かい合う。カウンターチェアを軽く回して片足を開き、崩した姿勢で楽しそうに煙を吐いていた。


「ヘェー?こんな綺麗な死体初めてだわァ俺」

「ありがとう、綺麗なまま死んでるのね。嬉しい」

「いつもここで死んでんの?」

「そうですね。貴方は見ない顔」

「変わんねぇ島は懐かしくていいね」

「ここは穏やかだから…島民が、懐かしの島へおかえりの乾杯でもしましょうか?」

「嬉しいねェ、俺甘えちゃお」


置きっぱなしだった酒に手をかけ、嬉しそうに近付けた男のグラスとかち合わせる。男は一度掲げてゴクリと喉を鳴らし、私はまた滑らせるようにグラスを置いた。


「飲まねぇんだ」

「まだ飾ってたいの」

「湿っぽいね?おネーサンの死因でも聞いちゃおうか」



また腕枕へ沈んでしまった私を見る男は、
宥めるような顔で頬杖を着く。

むしろ聞かせてくれと眉を動かして小刻みに頷くもので、巧みな相槌と誘導に乗せられた私は、誰にも話さずにいた過去の幻想をぽつりぽつりと零し始めていた。

寝覚めの、あるいは夢の。
幻覚であったかもしれない唇一つで生まれ故郷を捨てられるほど連れて行って欲しいと心囚われ、サラリと日常風景を塗り替えてしまった人だった。風化していく記憶の中で感情の余韻だけは鮮明に増していく現実の対比と仕方の無さ。幻想に取り残された私がこの酒の如く未亡人であるなら、待ち焦がれる私はもう死んでいるかもしれない。捨てられない思いだけを持って、いつまでも居ない事に耐えられず同じ場所で幻覚を見るために浴びているのだから。


「攫いに来たら着いてくの」

「来ないですよ。でもどうかしら…何も要らないとは思うけれど。…何年も忘れられなくてこの有様、会えるかどうかも解らないのに待ってしまうのよ。だから気がついてしまったわ、私、きっと夢のようなあの人を愛してしまったのよ。叶いやしないのに」

「だってよ、マルコ」


呟かれた名に驚く私の一呼吸を代わりに飲み込むように、男はカウンターの奥を眺めながらグラスに口をつける。慌てて頭を上げれば酒の余韻でズキリと首の辺りが痛む。ぎこちなく振り返った左、視界を通して胸を詰まらせる記憶の余韻が、幻想の輪郭をうつつに変えて姿を映していた。


「あれからずっと寝てたのかよい」


右隣の男の口笛に吹かれ、
丸椅子は倒れそうに円を描いて回る。

危うい足取りを支えられて思わず飛び込んだ肩口で、彼の服を濡らしてしまった事に気が付き、暖かな感触を台無しにしてしまったと首に回す腕に力を込めた。



「なぁ…今なら攫われてくれんのかい」

「私、は……」

「何も要らないんだろう?」



即答なんてできやしない。
夢のような奇跡を目の当たりにしてもこの感触が、五感が確かな現実の冷静を連れてくる。現れた事でもう既に甘えているのかもしれない。それ程に私は、拗ねた気持ちをぶつけたくて仕方がなかった。


「それは、雪を見る約束をするようなものです」


右に居る男との間で空になった席へ長い足を向け、容易く抱え直した彼はその上に涙を拭う私を座らせた。


「ヘェ、どういう意味だよ生き返った死人ちゃん」

「熱帯の島では降らない。出来ない約束をそう言うの」


視界に入る右の男は興味深そうに煙草を揉み消している。彼の首に掴まったまま甘やかされて見上げれば、相槌も無い代わりに全てを飲み込むような笑みがあり、荒んだ胸が傷んだ。


「嬉しいですよ。貴方に焦がれてしまったから。でも…夢から覚めれば当たり前に一人で、続くのはそれを亡くした日常…つまりね。出会ったけれどよく知りもしないの。馬鹿よね。何も知らないのよ。だから会えた今、妙に冷静になってるの。もっとよく知りたいわ、今なら悪い男であってもこの想いにお別れできる気がするの」

「捕まえに来たってんのにもうお別れかよ、面白ぇな」

「デートにでも誘おうかい」

「まぁ嬉しい」

「何処へ行きたい」

「私、旅行に行きたいわ」



リーゼントの男は軽快に笑っていた。
今なら思いを手放せるなんていうのは嘘で、ただこの島で泣き濡れる日々を送った過去の自分へ空白を埋める夢を見せてやりたい思いと、待ち侘びた男を困らせたい思いでしかない。


「海に出りゃ旅してるようなモンなのによ」

「笑ってんじゃねぇよい」

「ああ、そうだな。あんまり可愛いかったんでェ」

「口説いてんじゃねぇよい」


俺のだと付け加えた彼は私を下ろし、突然に席を立った。幾つかの札を男へ託し、身を翻したように戸口へと手を引かれながら回る視界の隅で行ってらっしゃいを告げる、ひらついた指を捉える。リーゼントの男の最後の言葉は、また後でだった。




「さて。答えは船までデートしてから聞こうかねぇ」

「嬉しい、でも何処へ行くの?」

「旅行だろ?そんな大したことはねぇ、期待すんじゃねぇよい」


一人ではない夜街の星空と、
誰もいない路肩に広がる水色の炎。

繋いでいた手が離れてから背を追い続けた目は酔いが覚めるほどいっぱいに開いて、揺らめく青に時々さす黄色のコントラストの中で佇む彼に、相変わらず夢中でいた。


「行こうか」


おずおずとまた首へ腕を回した私を片膝に乗せ、軽々と羽ばたいた彼は幻よりリアルに宙を翔ける。何処へ向かっているのかは解らなくとも、時々様子を伺う伏し目の緩さを見れば、恐怖も不安でさえ感じられない。


想い続ける日々は酷く孤独だったのよと当て付ける拗ねた気持ちを全て受止め、その数倍の幸福を浴びせる彼の瞬きは、夢ではなかったと思い知らされたグラス下のひと綴りの感動によく似ている。


「マルコ」


筆跡を辿る記憶は、初めてその名を呼んだ。
自らの口がうわ言のように発した名を、瞬きを繰り返してもあり続ける現実が受け止めてくれる。風で靡く涙が炎のような翼に吸い込まれていく光景を、飲まれていくことを嬉しく思うが故、美しく思った。


「やっと呼んでくれたな。俺なんて名前も知らねぇよい」

「ユメです」

「ユメ。…ユメ…ユメ」

「…なん、です?」

「味わってんだよい」


情緒忙しい空の旅は、沈黙を楽しむ時間さえ持て余す程の余白を持っていた。腕の感覚が心許なくなる頃、宙に留まる私たちを白い粉雪が包み、生まれて初めて見る幻のような結晶に溢れた涙を、啄むように口付けが落ちる。蒼炎の翼は仕舞われ、地上スレスレまで焦がれた唇を夢中で重ね合う間、背中に回る熱い熱を感じていた。


「すいません、あの」

「解ってるよい…疲れんだろ、寝てろよい」

「助かります」


復路を空の旅から列車に変えてしまった彼は、夜を駆ける貨物列車へと落ちた。しがみついていられない私を気遣ってかとも思ったが、彼の事であるから小さな旅を叶えてくれたのかもしれない。窮屈ではあるが、敷き詰められた穂は柔らかく陽の匂いをさせて緩く私達を歓迎してくれる。


「重くないですか」

「気にしてんじゃねぇよい…にしても手のやりどころに困るな」

「また手を回したくなりますか?」

「言ってくれるねぇ」

「ちょっと、笑わないで下さい」

「イタズラしねぇように、こうしとくか」

「ん、!…綺麗な翼…ですけど、余計苦し、」

「悪ぃ」

「…いいんですよ、手でも」

「イタズラご所望かい」



抱きつくことも、縋りよることも、寝そべることも、
夢落つことさえ包み甘やかす温度は懐かしく。



「下さい、明日を夢みた分だけ」

「俺も頂くよい。後悔の分だけ」




明日への期待に夢を見た、
二人分の唇をいつまでも重ねて。

この雪が溶ける頃には、恐らく、きっと。
夢でも現でもない幻想の様な温もりを移しあい、

もう一度、いつまでも、
終わらない素敵な夢を見るのだろう。

【風騒のメリーウィドウ】







カクテル
Merry Widow::もう一度素敵な恋を
カイピロスカ::明日への期待

風騒(ふうそう)詩文を作る事。詩文を味わい楽しむ事

 


MAIN