薔薇が咲き誇るこの庭園からの夜景は一万ドルとも言われ、そこで誓った愛は恒久に輝くとも言われていた。そんな言葉に、数多の男女が思いを馳せて愛を囁きあった事だろう。

そしてそのうち幾つかは、私のように忘れられず、この場所を訪れては涙を流している筈。


周りにいる幸福そうな男女の中、
月明かりに一人浮き立つ私の影には誰も重ならない。唯一無二だった記憶を恨むうち、歪んで安男となった今でも誓いの言葉を忘れられずにこうして約束の地で涙を流している。

その姿がたいそう不幸に見えるのだろう、離れているのに冷ややかな声すら聞こえてくる。



麓に広がるは大夜景、
でもその街の明かり一つ一つにはドラマがある。それは無機質なただの電灯であったり、車であったり、灯台であったり、まあ不幸な家庭の明かりもあるだろう。

それでも、残りの多くはしがない幸福の証な筈で、あの乗り物にも建物にも、帰りを待つ愛おしい人のために生きる人間がせこせこと働き、鍋から湯気を燻らせて料理を作る愛おしい人の元へそれに乗って帰っていく。輝く大多数はきっとそんな幸せの光だ。

そう考える度に溢れ落ちた雫は、足元で弾けて大きな影を作る。そしてあの中の一つに、当たり前のように入れると思っていたのにと俯いたところで、先程から隣に立つ男の足元を見た。





「見るからに不幸そうだ」



鬱陶しそうに見上げてやれば、
あざ笑う様な笑みが返されて、心底嫌な思いをしたのに。

せせら笑う癖して優しく弧を描く温厚そうな目が悪そうな口調との落差を生んでいて、拍子抜けした私は呆れ半分、思わず言葉を返してしまっていた。



「そんな不幸な女に何か用ですか」


「用なんてねぇよい。女の涙は嫌いじゃねぇが」



面と向かって突き放すつもりが、白塗りの柵に背を預けて寄り掛かる男は煙草に火を付け始めるから中々視線が交わらない。

何のつもりかと苛立ちを覚え、煙を吐き出す仕草を睨み付ければ、貪欲な目で何を見ていたと問われて、次は私が目を背ける番だった。





貪欲。貪欲。
何度も繰り返しながらその意味を考える。

女がたった一人の男に愛されて平穏に暮らしたいと願う事が、貪って飽くことを知らない欲深さだとして私はそれを望んでいるのか。

自由を求めて去っていった男を悪い虫だった事にしても、縛り付けて誓いを果たさせようとした上に終わった今でも幸福の灯火を欲しがる私は、確かに貪欲なのかもしれない。


ただ、女が幸せを欲しがる事の何がいけないのか。それを見ず知らずの男に下らないと卑下された様に感じて許せなかった。ただ愛されていたかった、それだけなのに。



「何においても幸せが欲しい。あの光のような愛おしい男との幸せが。それの何が悪いのよ」



馴れ合う気なんて毛頭ないけれど、願う事すら小馬鹿にするこの男に、テメェ様には関係無いわと一言物申したくて堪らなくなった。




「叶えてやろうか」



「やっぱりナンパなのね。勘弁してよ、そんな安い男みたいな台詞に騙されると思って?」



「へぇ、初見で値踏みとは益々火が付くよい。安いかどうかは買ってみてから決めたらどうだ」



「男なんて海賊じゃなければ何だっていいわよ。青い薔薇のひとつでもくれたら考えるわ 」



次は私がせせら笑う番。

柵を這う様に伸びる白薔薇をぶつりと引きちぎった男はやけに堂々と歩み寄るけれど、この類の軟派野郎なんて恐くなど無い。

一体どんな口説き文句を用意したのか聞いてやろうじゃないかと、格好つけて腕を組む。



どんな言葉をかけられても飄々としていられる自信があった私は、そら来たわと散々見下す台詞を並べて余裕げな笑みを作ったが、唯一のボタンを外し、ゆっくりと捲ったシャツの下にある刺青の意味を知って、全ての言葉を失った。




「薔薇なんて安いもんだが、残りの条件は飲めねぇ。…もうひとつ、お前に選択肢はねぇよい」




指先から立ち上る青い炎は、凛と突き出された白薔薇の茎を、葉を、刺を舐める様にゆっくりと飲み込んでいき、白い花びらを全て塗り替える頃には呆気に取られ、見事に隙を攫われていた。




「ただじゃ帰れないタチなんでね」




眼前で握り潰す拳から青い花弁は散り落ち、揺らめく蒼炎の裏で妖しく笑う男の瞳に囚われて、呼吸が止まる。


萎びれた茎が掌から放たれた時には全てが遅く、安男がみせた一万ドルの夜景を遥かに上回る標高から圧倒的な夜の街が目に映り、奪われる事を確信。男から与えられる、果物を噛じる様に乱暴な唇から逃れる事もできずに黙って夜景を見納め、激しい動機に唸されながら、焦りと涙の粒が夜空を舞った。







-庭園のオムファタル





きっとまた
この場所で泣く日はやってくる

鳴り止まぬ始まりの音は
この男に踊らされるであろう
未来を示しているというのに

今の私には
この胸騒ぎを連れたまま
青く揺らめく炎に手を伸ばし
しがみつく他に道は無くて


 


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