空っぽの樽に溜められた海水を眺めながら、昔見た絵画の水を思い出していた。

透明で透き通っていて、触れれば冷たい感覚にぱしゃりと飛沫まで飛びそうな程、それは完全に水であるのに、近づけば全くそうでない。
黒、白、赤、黄色。水は青という固定概念を覆すような色が繊細に、時には大胆に重なり合っていて、こんなにも青く透明の水であるのに無機質に見える中には燃えるような赤ですら存在していたのだ。
私はその瞬間人も同じだと感じた。透き通る水の中に赤く燃えるあの人を見たから。





何を眺めても、その中に目ざとく赤を見つけてしまえるほど盲目になってしまった私には、目の前に貯められた海水にも赤が揺らいで見える。

はじめは青は青で
水は水であったのに。

透明の中に見えた色素に向かって両腕を深く泳がせれば、冷たい水が皮膚を包み込む様に、段々とぬるく暖かくなっていく。その温度と水圧の心地よさに浸り、魚になったつもりで瞳を閉じれば、まるで抱き締められているような気さえした。




「ユメ」




声を元に思い浮かべる顔は、我ながら見事な再現率だ。思わず笑ってしまった口元を隠すために俯いて目を開ければ、水面に映ったエースの顔が酷い解像度でぼんやりと揺らいでいた。




「ボケっとしすぎだろ」


「いいじゃん別に」


「仙人の修行じゃあるまいし」


「そうそう。これは神経を研ぎ済ませて第六感を得るための修行なの」


「確かにユメには必要だな」


「エースもちょっと触ってみて」


「そんな事してどうなる」



飽きれながらも片手を突っ込んでくれたエースに、これでもかってぐらい大量の海水を両手でバシャバシャかけてやった。

正面からもろに海水を浴びて顔から髪までびしょびしょな上に、ハットのふちからも壊れた雨どいパイプみたいに水を垂らしている。目を見開いて直立していたエースは眉間に皺を寄せた後、ニヤッと口元を釣り上げて「やったな」と低い声で唸った。


眩しすぎる多彩な表情に胸が弾けて、昨日よりも動揺する自分自身の滑稽さに笑いが止まらない。笑い転げてもつれる足を引きずりながら、私は必死でその場から逃げ出した。







「今日は何をしでかした」


「エースに海水かけてきましたー」



ふざけて顔の横にブイサインを飾ればマルコに馬鹿たれとしばかれ、その横でイゾウさんは手を叩いて大笑い。私の勝ちを悟ったサッチとラクヨウは、いつものように繋いだ手をトンネルのように挙げて「悪戯勝者のアーチ」を作って待っている。
そこをランナーのフリしてくぐり抜けてハイタッチを交わせば、後は遊び好きな彼らがエースの足止めをしてくれるだろう。



これが私の毎日だ。

いつだって私を包むのは、笑い声と暖かい眼差し。年の離れた兄のような優しさに見守られているのをひしひしと感じる。みんな愛しくて仕方がなくて、幸福で楽しくてなんでも分かち合える家族たちを私は愛している。紛れもなくモビーは私にとって楽園だ。

エースだって例外じゃない。
馬鹿にしあって喧嘩もするし、いたずらを一緒にしてまわる悪友でもあり、がさつな部分すらさらけ出せて、なんでも話し合える唯一の親友のような存在でもある。



そんな確信の中で恋愛感情が無いからこそ成り立っていたこの関係が、一本のほつれた糸を引っ張ったせいで崩れ出していく光景なんて死んでも見たくはないと、だったら一生手のかかる妹でいたいと、そう思い始めたのはもういつの日だったか。


本当はいつだって声が聞きたい。 近くにいなかったら枯れてしまいそうになるし、声を聞けば満たされて、いたずらの裏ではいつも心を踊らせていた。
そうして追っ手を巻いたら最後に深呼吸を一つ、緩んだ顔を引き締めて、前を向く瞬間にその思いを握り潰して無かった事にしている。





それが今日は、
何かが違っていた。

空に広がる夕陽をみた途端、目頭が熱くなってあっと言う間に視界が滲む。驚いた私は目に貯まるものが溢れないよう足早に船を下りた。




感情をコントロール出来なくなったのはきっと、胸を焦がす小さな火がもう消化できないほど大きな炎になってしまったせいだ。

そこへ消せもしないのに、また新しく火をくべるから業火に巻かれた私は涙腺ごと崩壊してしまったんだろう。


この想いが秘め事になった日からは、自分やエース、家族に嘘をついているような日々だったけれど、長い間知らないふりして平気でリセットできた。


なのに今は、突然現れた誰にも言えない孤独に立ち向かい方すら解らない。

なんて滑稽な姿だ。
その上逃げて来た癖に、心の中で助けてと叫んで思い描くのはエースの顔なのだから本当に救いようがない馬鹿だ。



「ユメ、」

俯いていた顔をあげた時、
スローモーションで行き交う人の中からエースの声が聞こえた気がして、盲目な上聴覚までおかしくなってしまったのかと思った。
それでも気のせいだと解っていながら辺りを見渡せば、思い描いた場所には本物のエースが立っていて。

これは現実なんだと、
私はやっと気が付いた。


なんで?


そう言う筈だったのに、
上手く発声できなくて唇だけが鈍く空回りする。


「呼ばれた気がした」

数十メートル先、
正面のエースが片足重心で微笑むさまは、手の掛かる妹を迎えに来たと言わんばかりなのに。
何故さっきより大きな声で泣いているんだろうか。家族には見られまいと逃げてきた筈で。それなのに何故現れた彼が救世主に見えるのだろうか。


歩み寄ってきたエースは、空に向かってわめく顔にオレンジ色を被せると、突然私の手を掴んだ。

力強く引っ張る熱い手と、強引さの中に見え隠れする、帽子で覆った目の代わりになるような面倒味のいい歩調に兄の姿を見て、こんなの嬉しくはないんだと心は反発するのに、その手を振りほどく事はできなくて、ただ足を取られながら必死で歩いた。


引き寄せられて街角を何度か曲がり、屋内に入ったあと、担ぎ上げられて階段の振動がエース越しにトントンと響く。
じゃらりと聞こえたのは多分キーの音で、何処かの宿だと知った時にはもう遅く、ベッドに下ろされた衝撃で顔を覆っていた帽子は車輪のように部屋の隅へ転がっていった。


「見ないでよ」

見上げたエースの顔は今までに見た事のない色で、切なげに微笑む瞳に思わず息を呑んだ。

こんなにも泣き腫れた顔を見せたくはない。隠れようと慌ててシーツを手繰り寄せればあっという間に奪われて、それならと手にした枕も直ぐに投げ捨てられる。
そして無言の攻防戦の果てに隠すものがなくなり、仕方なく逃げるように後ろを向けば、掴まれた腕が後ろに強く引かれた。

身を引こうにも、大きな掌が後ろ髪を撫でて引き寄せるから結局エースの胸を濡らしてしまった。それでも抵抗を続ける私を抱きしめて押さえつけるから、完全に身動きが取れなくなってしまう。


「お願いだから…離して」


精一杯突き放す言葉を選んだのに、覗き込んでくるエースは優しく笑っているから、心臓が縛られているみたいに痛んだ。


「よく聞けよ。俺はユメが決めるまでは何も言わねぇと、お前よりずっと前から決めてんだ」


どうしてこんな事するのかとか、何故二人きりなんだっけとか、眩しい領域になぜ居るのかとか。そんな事ばかり考えていた私は、その色恋沙汰を思わせる表情に、改めて漂っていた言葉の意味を理解した。


「俺はユメの思ってる通りでいい」


その言葉を聞いた瞬間、
目の前の瞳から視線を逸らせないまま、顔を歪ませて叫ぶように泣いた。
私を見ていてくれたなんて。そんなにも思われていたなんて。全てを包み込む大きな優しさに涙が溢れた。

私が思うよりずっと前から思いを殺してきたというエースは、私が家族のままでいたいと言えば、きっと永遠に付き合ってくれるつもりなんだろう。


家族でいるのは楽しい。でもそこに色恋が混ざれば当然何かが変わる。

築き上げてきた水上の船が楽園なら、この想いはその遥か下の海底にある。陸上生物と水中生物の間には超えられない壁がある。もしそれを持ち込んで、楽園を形成する要素が一つでも崩れたら、楽園は楽園でなくなってしまうだろう。

だからそう容易くは決められなくて、何を言えばいいのか解らなくて、ただエースが好きでいてくれていたという事実に甘えて過ごすしかなかった。



見つめて、見てられなくなって目を逸らして、不安になってまた見上げて。抱き締めたまま、ずるずると横になってしまったエースとの間を少しだけ離して、眺めるだけだった愛しくて逞しい胸板に両手を這わせれば、神秘的な質感に時が止まった様に感じた。


「悪い…もう無理だ」

「…え?」

肘を付き、あいた手で髪を撫でながら何でも知ってると言いたげに優しく微笑んでいたエースは、突然大きな溜息をついた。


「頼むから言ってくれよ。もう離したくねぇ」

覆い被さって手首を束ね上げるゆっくりとした動作とは反対に、余裕げな微笑みはもう無くなっていた。


「駄目…待って待って!!そんな簡単に決められたら苦労なんかしてない!」


追い詰められて再び溢れ出した涙は拭う事も出来なくて、ベッドに向かって流れ落ちていく。すると、束ねられていた手が開放されて、自分で拭うよりも先にエースの両手が私の頬を包んだ。


「ユメの前にあるのはなんだ」

「エースの…顔」

「そんなに遠いか」


真剣な瞳に吸い込まれる様にそっと頬へ触れれば、あの時、水の中に求めた温もりよりも遥かに熱くなる指先。



「こんなに近いね」



その指先に手を重ね、愛おしそうに頬ずりをする優しく細められた目を見て、手が届いたのかな、なんて思ったら、溢れ出す涙も想いももう止められなくなっていた。


「大好き。大好きエース…家族でも友達でも何でもいいから隣に居たいと思ってたのに、それだけじゃ足りなくなっちゃった」


身体が軋む程の勢いで抱き締められた後、止まらなくなった涙を拭うように両頬をエースの手のひらが包んで、泣きじゃくって震える私を待つように、優しく唇が重なった。


「あー…ずっと泣かせててぇ」

「酷い。エースが笑う度に近くにいても遠くにいるみたいで、苦しくて死にそうだったのに」

「お前、随分ひとごとだな」

「なんで」

「どれだけ愛おしいと思ってるか知らないだろ」


熱い視線に言葉を失って俯いた私は、我儘な抱擁に包まれて、中々追いついてこない気持ちを待つように流れる時の中で、穏やかに眠りに落ちた。


私が次に抱き締められたのは、二人で戻った翌日の宴会の時だった。それも大勢いる輪の中心である。

当然、想いが線を超えてしまった事にうしろめたさを感じていた私は、何て事をするんだと慌てたけれど、心配をよそに家族の見る目は戸惑いの欠片すらなく、驚くほど暖かくて、一体何に怯えていたのかと思うとまた涙が滲んだ。



「また修行か?」

「涼んでるだけ」

「もう水かけないのかよ」

「理由が無くなったから」


帽子をそっと横に置き、樽に溜まった海水にゆっくりと手をさしいれたエースは、少しだけ顔を傾けた後、泳がせていた私の手を優しく包んだ。



船上には
南国の様な暖かい風が吹き、

沈み掛けの太陽は
全てを茜色に染め上げる。


周囲から飛んでくる冷やかし言葉と笑い声に、知らないフリを決め込んで優しく微笑み続けるエースは、眩しくて眩しくて本当に見ていられない。

思わず目を逸らせて俯けば、水中にあるのは繋がれた二人の手だけで、昔見た水底の赤はもう見えなくなっていた。


 


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