どんな世界でも見せてやれるだろう。お前一人救うだけの力さえ余す程。

しかし騙されたとは知らず呟くその一言は、果たして真実か。 取り巻く時間の全てが欲しい。寝そべっていながらにして手を伸ばせば届く距離に置き、人類の半分を滅亡させて唯一の者になる。そしていつかは逃げ惑う白い背に爪を立て、鋭い歯で容赦なく喰いかかるだろう。面の皮一枚、その下は我欲だらけのモンスターなのだ。


満面の笑みに甘い声。
正体明かすにはまだ早い。
いつか大口を叩いた暁には返り血覚悟でマスクを外し、恐怖におののき絶叫する姿を見てやろう。太陽照り付ける海の上、酒を浴び、肉を喰らいあくびをしながら、化けの皮剥がす甘い声を待っている。







早朝、ニュースクーが新聞を落とし、副船長がそれを受け取る事からこの船の一日は始まる。


何処からともなく現れた男達は好き好きに鍛錬や手合わせを始め、その隅をガラガラとバケツを揺らして下っ端達が走り抜ける。

突発的な仕事を任される事が多い私はそのどこへも割り振られず、ただ毎日を雑用付きの掃除婦の様に送っていた。


ただの雑用で終わりたくないから、せめて護身くらいはできるようにトレーニングもしたいし、未だ話す事のない船員達とも何でもいいから話をしたい。

そう話した時は、好きにすればいいと言っていたけれど。



「終わったのか」


持ち場へ戻れと恐ろしい威圧感を放つこの人が、いつも私を目敏く見つけるせいで、それもままならない。


「うん。他に何かある?」

「あれを頼む」


今だって、マストを縫い終えて、延々と直射日光を浴び続けけた体をクールダウンさせるために座っていただけだ。そんな暇さえ与えぬほど渡される雑用には、もうそろそろ限界を感じる。



日頃から言いたい事は山程あった。
異常行動とも言えるこの扱いは不穏さの塊で、一度想いが通じたとは思えない程シンデレラとさして変わらない酷な日々。

絶え間ない一人仕事の連続は、彼との距離も、船の中でも、私を孤立させる。遠い昔に微笑んだあの顔はもう無くて、今ここにあるのは冷たさと疎外感、疲労と赤切れた自分の手だけ。


でもこの人はこんなだし、私は船板が痛まぬように手入れる事しか許されていない。だからこれからも絶対的な発言力にひれ伏して、延々とあの帆を縫い続けるしかないのだろう。


しかしどんなに聞き入れられなくとも、意見するのを諦める訳にはいかない。あの頃の温もりを、簡単に忘れられやしないのだ。


「ねえ、」

「頼む行ってくれ」


シャンクス。

名前を呼ぶ前にかき消された思いは、いつも通りすぐに行き場を無くす。仕方なく体を起こし、去っていく背中を酷く虚しい気持ちで眺めた。


おとぎ話の様に攫われ、想い一つで船に乗った私はまともな会話すら交わせなくなった今、一体なんのため存在しているんだろう。


私の、何が駄目なんだ?


珍しく響いた奇襲の合図はゴングの様に脳を揺らして、絡んだ思考を白紙に戻していく。無音になった世界は鳥肌がたつ程に澄んだ空一色で、繋ぎ止めていた枷が静かに落ちていった。

無意識さの中で一人笑う私が見たのは、桃源郷か、黄泉の国か。両手を広げ、ふわふわと戦場へ躍り出た視界の端で、驚きに固まった仲間達の顔が無数に流れていく。

圧っされ、忍んできた分だけ留まる事を知らない勢いは加速し、怯んだ敵の胸に次々とマスト用の長針を突き立てていく。そして誰かが落としたサーベルを拾い上げ、遂に本陣に向かって前衛を突破した。


「…おい女を狙え!!!」


群がり始めた男達を前にしても、プリマのように回ってみせた。尋常じゃないと言われても微笑み絶やさずお辞儀をし、針を立て。臆することなく爪先立ちの浮遊感に身を任せた。

しかし、
その背を見た瞬間我に返り、
剥き出しの殺気に戦慄が走る。


「戦線に立つのを許した覚えはない」


敵を藪の草扱いで薙ぎ払い、ゆっくりと振り返ったシャンクスは今までで一番冷たい目をしていた。

前方から放たれた砲弾をわざとかわし、マストを貫くのを見届けて呟いた「仕事に戻れ」と凄む目は、それこそ憎しみの塊そのもので。


思わず倉庫へ駆け戻った私は、広げた両手に滴る血のりを眺め、一線を越えてしまった孤独に、力の限り泣きわめいた。丸窓の外に目をやれば、必ず勝利をもたらす男が仲間に囲まれているのが見える。届かないジレンマもきっと報われない。しかしそれを拭ってはくれない、あの人を愛している。


早くあの輪の中へ飛び込みたい。
仲間達と肩を並べあい、隣には貴方がいて。たったそれだけなのに何故私を疎外するのか、何故そんな目で。



身体をさする指に一筋の光が当たり、ぎぃと軋んだドアの音を聞いて直ぐに解った。それでも次はどんな風に心臓をえぐっていくのかが怖くて、とても振り返る勇気なんて湧いてこない。

しかし無音状態は異様に続く。声をかけられるどころか、普段の威圧感は全く感じられない。

恐る恐る振り返れば、普段の剣幕はどうしたのか、叱られた子供のように小さく息をして、何か言いたい事があるのに言葉が見つからない、そんな顔で向かい合う様に座るシャンクスがいた。


異様な光景だ。

その顔を覗き込むように追えば、動かないまま無言に無言を重ね、口元だけを歪ませて更に小難しく目を逸らせていく。


冷酷に変わった彼が今、懺悔 後悔 贖罪を思わせる表情を見せているのは一体どういう事なのか。

一方的な冷たさに苦しんでいたのは私の筈だったのに、初めて見る弱々しい一面は、変わってしまったと決めつけていた自分が酷く間違っていたのだと思う程、なんとも言い難い気持ちにさせる。


記憶を遡り始めた私のビジョンは、直ぐに過去の彼の異常行動で埋め尽くされた。そして響いたゴングの音。好き放題に指をさして驚く仲間達。それを掻き分け、遥か後方から血相を変えて走り来る、シャンクスの悲愴さ。


回想はそこで途切れた。

そして目の前の静かな男をもう一度見つめ、ふと思う。これがこの人の愛し方なのだろうか、と。

たとえ虐げる結果になってでも、原因を元より断てばいいという極端さは、それを目の当たりにした私が怯む事を、自分が許容されない事を恐れての事だろうか。


拍車を掛けた私の奇行は、嫌になるほど見てきたであろう、心差し半ばで砕け散っていった仲間達を彷彿させただろうか。

弱い者は当たり前に強くなりたいと鍛錬を重ね、遥か先で揺らめく船長の背を目指し、その先は途切れているとも知らずに上へ上へと登り、飛び降りていく。

せめて護身くらいと言った私は、その憧憬の階段を眺めているように、見えたのだろうか。



この男がこんな顔をする程、血まみれになっていたなんて知らなかった。そんなにも欲していたという事も。私は完全にこの人の愛を買い被っていたのかもしれない。


頑なに見つめる一点、
その左端にはきっと、獲物を愛してしまった、飢えに苦しむ獣がいるのだ。



まざまざと秘めたるものを見せられて、酷く情けない顔をする男の可愛い不精髭を撫で、その頬に寄り掛かり、飛び付き抱き締め、この壁をすぐに超えていきたいと思った。


しかし想いは最早それ一つだというのに、止まってしまった時は、愛おしい男へ手を伸ばすことさえ難しくさせる。

けれど放っておけばその孤独は、いつか自分の体をも蝕む筈で。だから私が、触れる勇気すら失った2人を救わなければ。



「お願い、どんな形でもいいから私を」


愛して欲しい。
わがままにでも、壊れるぐらいに。


ぎこちなく伸ばした手は、やっと頬に届いた。捉えた男をこちらに向ければ、真の意味で交わった視線は、もう私を離しはしない。


「ユメ」


ゆっくりと喉元を噛む、
泣きそうな瞳を見れば涙が溢れたけれど、互いに報われたと思えば幸せ、穏やかに笑みさえ浮かぶ。

この酷く臆病な獣をどこまでもどこまでも、受け入れてみせようじゃないか。




それぞれの孤独を拭い合う様に眠る、初めての夜。小さな獣を胸に抱き、いつになく美しいと言われた星空に目をやったが、高まる湿度で曇る窓からは何一つ見えやしなかった。

互の欲を望んだ分だけ叶え合い、満たし合うなんていうのは所詮綺麗事で、不可能な事なのかもしれない。それでも私は、この内窓を伝ってゆく雫の美しさを忘れやしない。


骨までしゃぶり尽くされて、屍の様に横たわり、愛しい腕に頭を乗せれば安堵感で気だるく思考は鈍っていく。
でもこれだけは、瞼が降りてしまう前に言っておかなければ。初めてのおやすみと、愛の言葉を溢れる程に。






獣である事は変わらない
いつかは本能の赴くまま牙を剥くだろう
しかし返り血など浴びたくはない
断末魔さえ、お前の苦しむ声は、
一言も。

だからせめて
静かに殺されてはくれないか


長い夜は明け、
今日も世界は朝を始める。
お前だけを輝かせる太陽が昇る。

全てを許容すると言うのなら、
生ける限り繰り返す巡りの中で何度でも喰らい続けよう。そして、決して満たされる事のない飢えを、永遠に。


静かな晩餐


 


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