電話を発信して間もなく、出ないだろうと解って早々に見切りをつける。軽くついた息は心地よい潮風に攫われて、ほんの少し物憂げな気持ちが残った。


白い浜が群青色を包み込む、静かな入江の朝。砂浜に肩を並べて座る老夫婦と、ボードに乗り上げて波と戯れる若者を遠巻きに眺める私には、それらに加えて青空と、海岸沿いの遙か先にある、岬を飛ぶカモメの群れすら目に入る。
しかし人を想う事の難しさを考えれば、この清々しさは全くもって場違いな気がした。



やっと想いが届いても、そこはただのスタート地点に過ぎないのだと思い知った昨日の夜、涙が枯れるまでわんわん泣いて、鳴る事も、鳴らす事もできない電話を握り締めて眠った。

地味で薄暗い私の世界に、光をくれるどころか眩く輝かせてくれたあの人を振り向かせるため、恋愛経験皆無な私は、随分と迷走しながら呆れる程たくさん仲間の力を借りた。 まずは話し掛けて名前を覚えてもらえと、キッカケ付きで背を押したサッチに勇気を貰い、恐る恐る駆け出したあの頃からずっと。


自信の欠片もない私に「女は好きな男のために変わろうとする時、とんでもない力を発揮すんだぜ」とか言うから、もうなんでもできるスーパーウーマンにでもなった気になって、教えてくれる作戦や駆け引きを片っ端から試していった。

笑顔は武器だ、
目が合ったら笑っとけ。
一人でいる時は何でも楽しめ。一生懸命な奴は輝いて見えるもんだ。

その他にも、話し掛けた時は引き際の美しさが大事とか、常に前向きでいろ!だとか数え切れない助言を頂いて、泣き言を隠しながらもやっと想いが届いたあの日、キラキラ眩しかった腕の中に抱き締められて、欲しかった物を手に入れた私は、サッチにどれほど感謝した事か。

しかしその後、
すぐにスーパーウーマンは超絶ネガティブウーマンに戻ってしまった。自称恋愛マスターは、手に入れた宝物の愛で方と、手入れの方法までは教えてくれなかったから。


作戦と駆け引きばかり考えていたから、どこまでが我が儘で何が素直さなのか解らなくなって、終いには自分が破綻してしまった。

少し不機嫌そうにする整った横顔を見ながら、自分の出方が解らない。抱きしめて欲しいほど寂しい夜に、側にいて欲しいと言えない。

それは一歩間違えば、今までの全てが台無しになってしまいそうだったからだ。本当は少しの冷たさで心は泣いているのに、理由には一切踏み込まず、ただ教えられた通り「笑っとけ」を実行する事しかできない。

どこか噛み合っていないのは薄々解っていたけれど、昨晩、ついに話し掛けた背中が初めて振り返らずに消えて、事の重大さを理解した。
この思いもよらぬ温度差は、死に物狂いで走り抜け、両手を挙げてゴールの白線を切った私には、とても酷な現実だった。



太陽は少しだけ上にいき、
その分だけ暑さは増したけど、まだまだ景色は美しいまま私を取り巻く。気が付けば波乗りの若者も、寄り添う老夫婦も居なくなっていた。

手持ち無沙汰の電話を取り出して、もう一度かけて、またかけて。何度繰り返しても声を届けてくれない無意味な物をやっと手放して、込み上げる涙を飲み込む。

そもそも繋がったとして、何を言うつもりだったんだろうか。

もう少し一緒にいて下さい?
抱き締めて下さい?
貴方が足りません?

あぁどうしたらいいんだろう、 こんなに大きな世界にあの人しか居ないのに、あの人を失ったら。

今は悲しいけれど、まだこの景色は綺麗に見える。でも、もし私が間違えた選択肢を選んで彼が離れてしまったら、きっと海も空も塗り替えられてしまうんだ。
それでも笑っていなきゃいけないだなんて、サッチが教えた「可愛い人」は本当に難易度が高すぎる。

こんなにも綺麗な空なのに何故だか涙が止まらなくて、頼りないカーディガンの袖でゴシゴシと拭う。それでも溢れる涙は、拭けば拭くほど嗚咽まで連れてくるから、結局声を上げて喚いていた。

可愛い素敵な人は、きっとこんな所で子供みたいに泣いたりしないんだ。

せめて誰にも見られない所へ行こうと、丁度いい場所を思い出した私は石段を立ち上がり、来た道を振り返る。そして直ぐに身体が硬直した。


岬とは反対の灯台に居たその人は、こちらをずっと、私だけを見つめている。

「…イゾウさん!!」

てっぺんの塀に寄りかかり、
頬杖ついて眺める柔らかな笑みを見て、一層大きい泣き声が辺りに響き渡った。


彼がコールに応えない意味がやっと解った気がする。出てくれないなら駆け出せばよかったんだ。何も考えず、自分から素直な言葉を伝えればよかった。あんな風に笑ってくれるのなら。


泣くには、
走り出すには、
もう遅すぎるだろうか。

その問いかけに迷う間もなく、一歩で跨ぐには大き過ぎる石段を躓きながら上がり、ガードレールを越えて、海岸線の道路を全力で駆け出していた。

喚いて泣いて、我武者羅に走る姿は絶対に可愛くなんてない。それに運動オンチだからフォームだって美しい訳がない。現に追い越していく車の子供は面白そうに笑っているし。それでももう、可愛い人なんてどうでもよかった。

アスファルトから砂利道に逸れて、南京錠のかけられたフェンスをよじ登り、立ち入り禁止の螺旋階段を一気にかけ上がっていく。


そして辿り着いた最上階の出入り口から飛び込んできた、私がさっきまで眺めていた景色と、腕を組み目を細めて笑う、一生懸命追いかけた、大好きな人の姿。


「あの、あの…!!」

上手く言葉が出てこないのは息が上がるからじゃない。泣いてるからじゃない。緩く結んだ髪を優雅に靡かせて、この人はこんなにも微笑んでくれているのに、やっぱり少しだけ怖いんだ。

「駆け引きも、計算高い女も好かねぇ。…まぁ相手がユメだと、まんまと騙される俺も俺だが」

ゆっくりと手を引かれて灯台の外へ踏み出せば、強い風が攫う前に、暖かい手のひらが涙を拭って、遅れた指先が少しだけ唇をなぞっていく。

「その唇は何の為にある?何処のロマンチック野郎が吹き込んだか知らねぇが、以心伝心なんて嘘だと思いな。人は話すために、何を思っているのか伝えるために口がある」

あっという間に眩しい胸元に閉じ込められ、泣きじゃくったままコクコクと頷くしかできない私を、諭すように低音は流れて。見上げれば八の字に曲がった眉が、可愛く思えるほど不釣り合いに目元は笑っていた。

「他の男の受け売りなんざ真に受けて笑ってんじゃねぇよ。解ったかい」

「はい、ごめんなさい、もう笑いませんから…!」

胸がいっぱいで妙な事を口走ったものだから、言い換える言葉を用意するより先に沈黙と軽快な笑い声が降ってきて、違うと口走ろうとした否定の言葉さえ、全力の笑顔を前に早まる鼓動がかき消していく。


「まあ、こういう伝え方もある」


細められた瞳の端が、綺麗に瞬いて。呼吸が止まった間に重なったこの唇が、少し前に欲しいと願って言えなかったそれだと言う事を把握した頃には、めいいっぱい目を開ききっていた。



「なんて顔してんだ」


数センチ先、熱を持った息遣いと微笑みにはまた心を奪われたけれど。

初夏の、
青葉の頃に吹き上げる強めの風は
決してこの熱を奪いはしない。



【青嵐、吹き抜ける】




お題投函ネタ箱より
■泣くのが遅すぎた■走る■甘い

 


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