汚いアパート
空になったラーメンのカップ
脱ぎっぱなしのジーンズ。
その男は丸めたパーカーを枕に、難しそうな書籍の山に足を投げ出して、読みかけの冊子をアイマスクにして蒸した部屋で寝ている。
扇風機の風で、ゴミ箱から出たコンビニ袋の耳が、ピラピラはためいていた。
「きったな」
部屋に上がるとそんな光景が広がっていた。お構い無くヒールのまま部屋に入って、冊子で三回くらいおでこを叩いてやったら、小気味いい音たてた三回目が眉間の辺りにクリーンヒットした。
「おはよ。ねえ、部屋汚すぎ」
ひたいをさすりながら彼は目を覚ました。イテーみたいな顔の後、ほんの少し優しい顔で笑った気がしたけど、すぐに真顔になってしまった。
「靴脱げよ」
「嫌よ、こんな部屋汚くて裸足じゃ歩けない 」
「靴履いたまま襲われたいのか」
「ばっか!」
ぐっと腰に回った手に引き寄せられて、身体がローの胸の上に重なるのを両手で軽くあらがいながら、ニヤっと笑った彼と、今日最初のキスをした。
「こんな部屋じゃしたくないかな」
「その気なんだろ」
からかって笑いながら嫌味言ってみたら、座り直した彼が首筋を舐めてくる。こうやってふざけてじゃれあうのも好きだけど、こんなんじゃ片付く前に日が暮れてしまう。
手頃なサイズの本で腹に一撃入れると、楽しそうに「つれねぇ」なんて言って、お腹を掻きながら風呂場に消えていった。
嬉しくって、言葉と裏腹に笑いが込み上げてくる。何気ない彼とのひととき、幸せなこの瞬間。
毎日会えるわけじゃない。
部屋を見て解るように、面倒くさがりだから連絡もマメじゃない。
当然私は毎日会いたい。なんならここに住みたいくらい。でも愛しすぎると彼が離れる気がして、彼はフランクなお付き合いが好きなんじゃないかって。
その辺の思いをいちいち確認するとヘビー級チャンピオンとか思われちゃうかもしれないから、私は勝手な推測で、彼のお荷物にならないようにフランクを演じている。
ここへ来る口実はいつも部屋の片付けだ。もっと会いたい時に、会いに来られたらいいのに。
もっともっと想われたい、
もっともっと欲しい。
一人で居たらこんな切ない思考回路になるってのに、一緒に居られるわずかなこの時間が、そんな気持ちを全部吹っ飛ばしていく。
「おい、タオル投げろ」
振り返ると、風呂上がりの彼が真っ裸で手を伸ばして、拭くものをせがんでいた。
「ちょっと何っ」
不意打ちすぎて笑ってしまう。
私にウケたのがわかると、調子に乗って早く拭きに来いとか言うから、そりゃあ盛大に笑ってしまった。
私、不満だらけなんだけど。
そう思っても、こうして汚いやり口で私を笑わせてはかき消していくんだ。
「馬鹿じゃないの」
私は思いっきりバスタオルを投げつけてやった。
まんまと彼にしてやられて、幸せな暖かい気持ちで部屋を片付けて。どうせ帰ったら次に会うまでの間、ネガティブな思考で彼への文句ばかりが浮かぶってのに。
片付ける私を横から邪魔しては笑わせて、たまにこうしてイタズラを仕掛けてきて、飽きたらまた本を読んで、読んで、読んで。
そして今日もまた、捲ったページの分だけ私の気持ちを置き去りにして、本人が手伝わないまま部屋だけが綺麗になった。
「あー、あーあー」
涼もうと占拠した扇風機の真ん前で、声を変声して遊ぶ。 片付いて広くなった部屋の畳には鈍く夕陽が反射して、一筋の道を作っていた。
「ろーおー、ろーろー」
また本を読み始めた彼の名前を読んでみたけど、聞こえてるんだか聞こえてないんだか。ローは私の事ちゃんと好きなのかな。
「ばーかばーか」
返答なんて無いだろと思っていたら、彼が私をゆっくり押し倒して。閉じた本を頭の下に、枕にするみたいに入れてきた。
「俺は綺麗好きなんだ」
どんな甘い言葉を囁かれるのかと、うっかり期待した。意味が全く解らない。
綺麗好き??? 一体誰が片付けたと思ってるんだこいつは。まったく改めてビフォア・アフターを見せてやりたい。
そんなことより何度寝ても落ち着かないこの状況。ドキドキするのが聞こえたら、何かしゃくだから嫌なのに。
「いつも汚いくせに」
精一杯の反撃のつもりだったんだ。
「お前が来ないから散らかしてやってんだ」
なのにそんな事言うから、罵ってやりたくなる。いつも色んな事が言い足りない。いつもいつも、本当に。
口実が無いと、この部屋へ来ない事に気が付いていたという訳か。そうとは知らず、片付けに来てやったわ!みたいな顔でやって来る私の方が、とんでもなくバカ野郎じゃないか。
「お前今日帰るなよ」
「なんでよ」
「居たいんだろ?俺と」
私がもっと独占したいことを、それでも怖くて言えない事を、初めから知っていただなんて。
「我儘のひとつでも言ってみろ」
図星だろうと勝ち誇っていた癖に、突然真剣な顔するから、もう負けたっていいなんて思ってしまった。
「もっと連絡して。もっと会いたい。いい加減にしてよあんたうるさくて堪んない!ってくらい、いっぱい好きって言われたい。でも重たい女とか脳内花畑とか思われたくない。ほんとローむかつく大っ嫌いバーカ」
「ひとつって言っただろ」
そう呟いて、優しいキスが降ってきた。俺は愛してる、そう付け加えて。