「ユメ、お前をここで降ろす」


珍しくこんな所に座らせて、
何かあるんじゃ、と思った矢先のその言葉が私を優しく切り裂いた。

その鋭さ故、痛みが直ぐには解らずに笑ってしまう。




「なに言ってんの急に。ねぇ、そろそろ寒いんだけど戻らない?」


彼が掛けてくれたご愛用のマントにくるまっていても一向に暖まらない体は、既に足先まで冷たくなっていて、気持ちは既にベッドで温めあった昨日を思い出していた。


「シャンクス、行こ」


痺れを切らして立ち上がると、纏わり付く人肌に温まった砂が、音も無く下へ下へと落ちて行く。その光景に私は何か良からぬものを感じて、残りの砂を払い落とせずに彼を振り返った。



この顔、私は知っている。
眩しい物を見るような
故郷を懐かしむようなその目。


「ユメ、」


この先を言わせてはいけないと、防衛本能が働いて響いた耳鳴りの中で、彼の声はいとも容易く胸を刺した。



「お前をここに置いていく、すまねぇ」


彼ありきの心が身体ごと消滅したような感覚に、何度も私を温めたマントが手からするりと落ちる。



愛しいから置いていくのだ
愛しているから




抱き締められるのがこれ程までに辛かったのは後にも先にもこの時だけだった。私は、私を捨てた彼を酷く憎んだ。


馴染みのない街は冷たく、
見知らぬ人々の中で浮く自分は正に孤独で、「あんなにも愛していたのに」「あんなにも愛し合ったのに」と、もう居ない彼の残像に問い詰め続ける毎日を、ただ酒に溺れて過ごした。

それでも意識を飛ばしてくれるからと好んで飲んだ琥珀色が、彼らの船で過ごした日々を走馬灯のように映し出すせいで、散々枕を濡らした後も、また彼等の夢を見る始末。


しかしその一方で、この現実と過ぎ去る時間は、確実に私の傷を風化させてくれた。

一人で街を歩く事が平気になった。お隣さんとの何気ない会話も。花に水をやって微笑む事もできるし、道行く猫に声をかけて愛でる事もできる。

一人でご飯も食べられるし
一人で泣かずに眠る事もできる。
恋愛ものの映画や小説を見ても、泣かなくなった。


私の中でシャンクスが過去の男になったんだと実感できる毎日が幸せで穏やかで、私はまた小窓を開けて花の鉢植えに水をやる。


待っていろと、あの時確かに言われたけど、 私は彼を待ってやらない事にした。そうやって過去を振り返ってみても秋風が吹き抜けるだけで、ちっとも悲しくはならなかった。



「忘れた記念に祝杯でもあげるか」


仲良くなって最近連れ込んだ猫に話し掛けてみたがニャーとも言わない。その代わりに可愛く尻尾をくねらせて餌のおねだりを始めた。


「おいで、ニコラシカ」


ユメは台所に引っ込んでいそいそとレモンの輪切りを作ると、シュガーポットを持ってテラスであぐらをかいた。

グラスにブランデーを注いでレモンの輪切りで蓋をすると、角砂糖を三つ取り出して二つをレモンに乗せ、もう一つを猫の前に置いてやった。
ゆっくり瞬きしながら遠慮勝ちに舐め始める姿が可愛くて目を細めると、その後ろに自分でも忘れていたゴミが立て掛けてあるのに気が付いた。



いつだったか、絵を描くからモデルをやれとごねてみた事があった。「ヌードか」と 、からかいながらも彼は優しい眼差しで、木樽に肩肘を付いて、しばらくの間キャンバスとにらめっこする私に微笑んでくれてたっけ。


輝ける日々の記憶はどれも眩しい程懐かしくて、あの頃の自分へ手紙を書けるならなんて言ってあげようか、なんて頬を緩ませながら、角砂糖が乗ったレモンを半分に折って口へ放り込んだ。


噛み締めたその刺激に思わず顔がしかんで、それを追うように溶けだした砂糖が少しずつ刺激を和らげて、やがて口いっぱいに甘酸っぱさが広がっていく。

床に置き去りだったグラスを手にとると、新聞にくるまれて放置されたそれを片手で破きながら「もう時効だろう」と、開いてみる事にした。



「シャンクスの肖像画描いてあげよっか?私結構いい腕してんのよ」


「昼間から脱がす気か」


「馬っ鹿じゃないの?ヌードの肖像画なんて残して誰が喜ぶのよ」


「ユメしかいないだろ」


「確かに。…いい体してますねぇ、シャンクスさん」


「なんだやる気か?誘われちゃ仕方ねぇな」


「ちょっと動かないでよ。冗談に決まってるでしょ、描けないじゃない」


「モデル代、頂かねぇとな」



今でも覚えている。
シャンクスがじゃれてくるから
筆はなかなか進まなくて、
その度に愛を求めあった事。

キスの後に必ず言う
『愛してる』も、
らしくないわねと罵って
わざと何度も愛を囁かせた事も。


私はブランデーをぐっと喉に流し込んだ。噛み締めるレモンに顔を歪めて、それを直ぐに甘さが和らげて。ブランデーを口いっぱいに含んで、複雑に混ざり合うそれをごくりと飲み干す。


もう一度、もう一度と、噛み潰す度に果肉が苦味を帯びてくる。歯を食いしばると、小さくなった砂糖が砂のようにじゃりりと音をたてて、まずいなと呟いた。


あの頃のシャンクスが、あの時のまま、変わらぬ眼差しで私に笑いかけてくる。触れれば感じるざらりとしたキャンバスの繊維。
指先から掌で繰り返し撫でてみるけど、時が止まった彼は静かに私を見つめるだけだった。


そうしてまた
ブランデーを飲み干す。


私は待たないからね、シャンクス。



「次は私があなたを置いていく」


相変わらず無邪気な彼にキスをすると、私は黒いショールを羽織って、一直線に海へと駆け出した。

大きなそれを抱えて、
夜の街を必死に走って、

冷たい砂浜に足をとられながら、波音が聞こえる少し拓けた場所まで来ると、次は忘れないように火をつけた。



私には花がある。
猫もいる。
語り合える人も。

私は貴方がくれた最後の贈り物、この平穏で平和な街で、これからも生きていく。


放った火はじわじわと広がって、キャンバスの端から中心の彼へと伸び、音をたてながら激しく燃え盛った。

煙が目にしみて滲む視界の中、首筋に残した唇形の傷跡と共に、煙になって星空へと吸い込まれていくのを、ぼんやりと見上げた。



「さよならシャンクス」






本当は知っている
視界が滲むその訳を

本当は気が付いている
捕らわれた心が
そこから離れられない事を

追憶のニコラシカに思いを馳せて
本当はいつまでも待っている事を


-Castle Made Of Sand
-砂の城




 


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