2010バレンタイン





アルコール臭たちこめるキッチンで、ユメは椅子にうなだれていた。
テーブルの上にある半分以上減ってしまったウイスキーのせいである。とは言っても別に呑んだくれている訳ではない 。

もう少しで終わろうとしているバレンタインに滑り込みでチョコを作っているのだ。お酒が好きなあの人にはぴったりなんじゃないかと、ウイスキーボンボンなどに挑戦したのが全ての始まりだった。

チョコにウイスキーを流し込むだけだ、なんて思って本を開いたら未知の領域が現れたのだ。

砂糖を溶かして沸騰させ、ウイスキーを混ぜるまでは成功するのだが、いざ成型となると思うようにいかない。白い粉の窪みに流し込み、固まるまで12時間も待たなければならないせいで、前日から取り掛かったにも関わらず、一度の失敗のせいでもうバレンタインは終わろうとしている。


「ちゃんと勉強しとけば良かったな…」

充満する酒気と眠気で、コンディションは悪くなるばかりだが、せっかく渡すと決めてこんなにも頑張っているのだ。もう失敗はできない。

時計の針は既に10を差し示していた。

ユメは固まったウイスキーにチョコをかけると、戦場の様なキッチンをそのままに部屋へ戻りワンピースに着替えた。

改めて見るキッチンは、
口では言い表せきれない程の荒れ模様。散乱した粉は床まで広がり、焦がした鍋や調理器具が無造作に放置されている。 まるで酒乱が暴れながら料理をした跡のようだ。


冷蔵庫で固まったチョコを取り出して、銀紙でキャンディを包むように、一つ一つ綺麗に包装していく。再び見た時計が11を回っているのを見ると、彼の行きつけの小さな酒場へと走って行った。




「お代はいらないわ」

カウンターを隔てた所でグラスを拭く、煙草の似合ったその女が呟いた。

「今日は男性優待デーだから」

ひたすら酒を煽るたった一人の常連客は、女の言葉の意図を理解すると、目を細めてにやりと口角をあげた。

「店の経営は大丈夫かね」

「火の車よ。貴方しかこないんだもの」

言葉の割には少しも気にとめていない様子で笑い返すと、樹木の間に浮かぶ幾つかのシャボン玉を窓越しに眺めた。

「ユメだって来るだろう」

この男は本当に、と思ったに違いない。女はカウンターに寄りかかり、呆れた様子で白煙を天井に吹きつけた。

「ユメの目当てはお酒じゃないもの」

それ以上言ってやるなと、笑みを浮かべて答える男の顔は、どこか嬉しそうにも見えた。きっと毎日表れる筈のユメがまだ顔を見せていない理由も、全てお見通しなのだろう。

「私裏を片付けてくるわ。あんまり待たせると可哀想だし」

女は窓の外の小さな勇士に目配せをすると、空ビンの詰まったケースを持って、勝手口へと消えていった。


「よかった!まだ居てくれて」

開けられたドアが軋んだ音を立てると、声に遅れてカカオの甘い香りが、店いっぱいに広がった。

「今日は随分遅かったな」

「待っててくれたの?」

隣に座るといつもの様に横顔を眺めた。たくさん目に焼き付けたら、夢にでも出てきてくれるんじゃないかという試みだ。 勿論一度も夢に会いに来てくれた事は、無いのだけれど。

「ユメが顔を出すのが日課なように、私もユメの顔を見て帰るのが日課になったようでな」

そう言ってちらりと見ると、目を細めてにやりと笑った。

「じゃあ早く会いに来なきゃね、レイさんお酒飲み過ぎちゃうから」


胸を熱くするには充分過ぎる言葉と、その表情に酔っているのがバレてしまわない様に憎まれ口を叩いてみる。
「参ったな」と笑って、また酒を煽る彼を見ながら、一方通行の小さな恋に今日もいい事があったと、この瞬間が霞んでしまわないように必死で記憶に焼き付けた。


女はこうしてデートなんかで起こった小さな出来事を、寝る前なんかに「幸せだった」「嬉しかった」と思い出しながら復習をするからいつまでも忘れないもので、 一方、男の人がデートや会話の内容まで記憶していないのは、女と違いその復習をしないからだそうだ。


たとえ彼が、毎日こうして通いつめる私が何を話したのか、どんな表情だったかなんて覚えていなくても、それでもいいと思った。憧れにも似た、到底叶うとは思えない片想い。自分だけが覚えていればそれでいい。


「レイさんこれあげる」

「なんだね」

「バレンタインだから、ウイスキーボンボン作ったの」

ユメは彼が包み紙を剥がして口に入れるまでの一通りを見守ると、安堵の溜め息をつき、自分も一つ力作を口にした。

お酒の味を理解できないユメにはやっぱり解らない味だったが、手を止めずに一つ一つ、でも味わうように、微笑みながら口にする彼を見ていると、少しは好みに近づけたのだろうと安心した。


慣れない酒気に囲まれての作業と、口にしたわずかなウイスキーで、徹夜をした脳は段々と回らなくなり、こくりこくりと揺れているだけだった頭を、いつの間にかカウンターに乗せて、ユメは意識を手離してしまっていた。


「あら、寝ちゃってるじゃない」


勝手口から戻ってきた女は、カウンターに重ねられた銀紙をみると、続けて男の顔を伺った 。


「酒を控えろと言うのに、中身がウイスキーだ。まったく可愛い娘だよ」

「ユメったら頑張ったのねぇ…それ馬鹿みたいに時間かかるのよ?」


酒場にきても全く酒を飲まない程アルコールに弱いユメが、時間をかけて作ったとなればこうして寝てしまうのも無理はない。

店を締める時間だと女店主は告げた。ユメに声を掛けて肩を揺すったが、一向に目を醒ます気配はない。
男は上着を一枚掛けてやるとそのまま背におぶってユメの家へと歩いた。


部屋の隅のベッドへ寝かせた後、
キッチンの椅子で目覚める時を待とうと思ったのには訳があった。

ドアをくぐり抜けて、一番に目に入るキッチンはまるで戦場の痕のようで、それが荒れていれば荒れている程に頬がゆるむ。
上出来な菓子はこんな余韻まで感じさせてくれるのかと、その甘さに酔いしれながら、贈り物への感想を言ってやろうと待つ事にしたのだった。


暗がりの空が少しずつ太陽に滲み出した頃、ようやく目を覚ましたユメは、寝ぼけ眼に映った覚えのない状況に飛び起きると、よろめく足で急いで階段を降りていく。

そこにあったのは、
良く覚えのある奮闘の痕と、
それを受け取った男の背中だった。


キッチンの荒れ模様は相手を想い、いかに必死だったかを映し出しているバロメーターの様なものだ。それを本人に見られたのだから堪ったものではない。
おはようと掛けられた声に生返事を返し、それどころではないと、手遅れ承知でキッチンを片付けにかかった。


「苦戦したようだな」


顔を見ずとも、彼がどんな表情をしているのかすぐ解ってしまう。そんな口振りに、できれば見られたくなかったと焦りと羞恥が交互に打ち寄せる。

「片付くまで目瞑っててよ」

堪らなくなって忙しく右往左往しながらそうは言ってみたが、もう充分楽しんだと笑う彼に、それもそうだと片付ける気がそがれてしまった。


「あとユメ。男の前で簡単に眠るもんじゃない」

「レイさんだからいいじゃない」


テーブルの上を大雑把に片付けて、散らばった粉を布巾で拭き取りながらそう言うと、急に腕を捕まれた事でよろめいた体は、依然として腰掛けたままの彼の上に倒れ込んでしまった 。


「レイさん?」

「ユメ。男は幾つになっても男だ、覚えておくといい」

「え…あの…はい」


予想もしなかった展開に、追いつかない頭を懸命に働かせ、取り敢えず彼の上から退こうと試みるが、動揺してしまってなんともぎこちない動きになってしまう。

「待ちなさい」

再び引き寄せられて捕まり、隠したかった目線からいとも簡単に前髪がよけられ、遮断するものがなくなった瞳は、真っ直ぐに私を捉えていた。


「あんなに甘い物は初めてだ。美味かった、礼をせねばな」


もう充分だと慌てふためきながら離れ、「ホワイトデーを楽しみにしているから」と、早まってしまった心臓を落ち着けるために、できるだけ冷静に話すフリをしてみたが、それに気付いている彼はやはり、いつもの様に優しく微笑んでいた。

「今日はもうお店行かないからね」

「それは困った。今日は深酒だな」



今日はもう会ったのだ。
そう思っても、カラカラと大口で笑いながら家を出て行ったあの人を思い出すと、やはり店へと歩き出してしまう自分がいる。

どんな気持ちでいるのかとか、どう思っているのかとか、核心に迫りたいとは思わなかった。絶妙な距離でしか味わえない、甘くて苦いこの人を、私はもう少しだけ味わっていたいのかもしれない。


「レイさん!いつまで飲んでるの!!」


whiskey bonbon

 


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