酒は辞めた。
絵を描くのも辞めた。
すっかり馴染んだ街で
風のように暮らし。
穏やかに流れては暖かく包み、
時には包まれ。
人とは不思議なものだ。
あんなにも怪訝な目で見ていたのに、一度綻びを見せると風のように気分を変える。未知のものに怖さを覚える臆病な人間の本質は、互いに綻び合う事でその目の色を変えていき、そのうち街の誰もが家族のように暖かく愛をくれるようになり。今となっては、そんな始まりも懐かしく感じられる。
飼っていた猫は
ある日突然死んだ。
数年がかりで傷を癒してくれた愛猫の死を神聖に弔おうと、その夜、私は再びあの海へ向かった。浜辺の砂を久々に踏み、あの場所へ。
そして動かなくなった小さな体へ、
共に愛したニコラシカを注ぎ、
火葬をもって天に昇るのを見送った。
静かに、激しく溢れる涙は、二度と味わう事が無いだろうと思っていたあの喪失感そのもので、再び私を無に戻していく。
あんな思いはもうしないと決めた人間も、こうして知らず知らずに愛してしまい、また失い、愚かさに泣くのだろう。
しかし、愛猫を包む焔と陽炎、それと引き換える様に現れた姿に、私は直ぐ涙の意味を変えた。
夢にまで見た光景だった。
この愛に、一生すらかけて。
何をしても消えやせず、
傷も想いも深まるばかりで。
苦しみの中そよぐ風に励まされ、
やっとの事で生きてきた。
そんなあの日の彼が、
幻では無い証明に数年分歳をとり、
目の前に現れたのだ。
もしまた会いに来る事があったら、その時は刺してやるとか、それが駄目なら他人の振りでもするつもりだったが、実際そんな事はできる筈もなく。
言葉を失い、わななく口を抑えた私は、素直に待ち侘びた胸へと飛び込んでいた。
だから酒は辞めた。
でもそれは、幸せが訪れたからではない。時々会いに来るようになった今でも、あの酒を飲めば悲しみに溺れてしまうからだ。
昔のように描けないのも、キャンバスの繊維に触れる度、あの日の痛みを思い出すから。
しかし、
煙と共に空へ登ったデッサン。
孤独を埋めてくれた、
愛猫、ニコラシカ。
思いを馳せたものは全て星になり、愛したものは巡り戻った。
すると、あの絵の首筋に残したキスは、執着を暗示していたのかもしれないと。傷付け合っても尚、互いに離れられず引き合う私達の運命を燃やし、空へ届け、星に変え。何処からでも見失うことのないように輝いたのかもしれないと感じるのだ。そしてその度に憂う気持ちを癒してくれる。
「またここに居たのか」
「うん。星がよく見えるから」
「今日は中々に冷えるな、…そろそろ戻るぞ」
「じゃあ私が温めてあげようか?」
「また代を取る気だろ」
「唇ひとつでいいですよシャンクスさん。今ならとってもお買い得」
差し出し合った手を掴み、
唇を重ね合う二人に
月明かりが少し長めの影を残す。
懐かしい会話に微笑み合う二人は、砂浜に足跡を並べ、何処までも寄り添い歩んで行く。その横で泡立つ白波は、一人の女が作り上げた孤独な砂城を、静かに連れ去っては海へと返していった。
追憶のニコラシカ
【追憶】
過去の事を思い出してしのぶこと。