自宅のドアに背を預け、しゃがみこんで携帯の画面を覗いていたら、聞き覚えのある声がして顔を上げた。
「君は…」
「あ…あの時の」
驚いた表情で立ち尽くすこの人は、紛れもなくあの時の紳士だ。
数日前、出張先のホテルでシャワーを浴びた後、色々あってバスタオル一枚という姿のまま外へ出てオートロックが締まり、さてどうしたものかと立ち尽くしていた所に彼が通った。
その姿に戸惑いながらも声を掛けてくれて、鍵は中だと言えば、着ていた上着を私に羽織らせて、そのまま下までホテルの人を呼びに行ってくれたのだ。
「君はいつも部屋の外にいるな」
「鍵落としたの。お兄さんお隣さんだったんだ…世界狭いね」
「そうだな」
ポケットの鍵を出しながら目の前を通り過ぎていく彼に、おやすみなさいと頭を下げてまた携帯に視線を戻したものの、違和感がするほど長い間ドアの閉まる音が聞こえてこないから、不思議に思って足音の消えた左側に首をかしげた。
「茶でも出そうか?」
ドアの内側に立ったまま両腕を組んでいるお兄さんが、目が合った瞬間ニコっと微笑む。見られていたという不意打ちに驚いたけれど、丁度心細かった私は直ぐに飛びついた。
「ラッキー。お邪魔します」
ささっと目の前に立てば、驚いた様な表情のあと、期待とは裏腹に眉が八の字に下がっていく。
もしかしたら気を使ってくれただけなのに、本気にして困らせてしまったかもしれない。気まずさに息をつけば、戻ろうにも引き返しにくくて思わず目が泳いでしまった。
「あのー…ごめんなさい、冗談でした?」
「いやいいんだ、こんな時間に女性が一人で居た方が危ないだろう。ただ警戒心の欠片も無かったのでな」
「だってタオル一枚の女も食わないお兄さんが悪い事する様には見えない」
初めて出会った時の姿を思い出したら、今更ながら笑えてくる。あんな裸同然の格好でつっ立っていたら何をされても文句は言えないってのに、この人はその時も今も笑って私を助けようとしている。そんな人に警戒心なんて、もっとおっかない事が頭に浮かぶ今は湧いてもこなかった。
「どうぞ」
仕切り直す様に促されて部屋に入れば、同じような間取りなのに、まるで異空間みたいな空気が流れていた。
物はあまりないのに寂しさを感じさせないのは、隅に置かれた観葉植物のせいか。板間にぼんやり反射するシーリングの明かりが暖かくさえ感じる。
「わー…見たまんま、って感じの綺麗な部屋」
「どういう意味かな」
「堅実誠実温厚な感じが滲み出てる。あと、凄くしっかりしてそう」
リビングに繋がったキッチンで、並べたカップに湯を注ぐ姿が、奥まった一角には窮屈そうに見えて、なんだかとても微笑ましい。
「面白くないだろう」
「面白いよ。心配症で紳士なお兄さんって凄く可愛い」
困らせるのが癖になりそうなくらい面白い顔をする彼をひとしきり笑って、つられるように向かいに座ると、差し出されたコーヒーに手を伸ばした。
「あの時、何故あんな姿で外にいたんだ?」
「うーん…酔ったまま風呂にでも入ったんじゃないかな」
「君は…もっとしっかりした方がいい」
「そうだね」
彼の周囲は常に暖かくて平和なオーラで包まれている。その温度に取り込まれて、説明する気にもなれなかった私は、その質問を適当に嘘で流してコーヒーと共に飲み込んだ。
「鍵はどうするんだ」
「朝になったら管理人さんとこに行く」
「ならそれまで好きにしていればいい」
「お兄さんは?」
「起きているから何かあったら呼べばいい」
そう言い残し、彼は飲みかけのコーヒーを持ったまま隣の部屋へと消えてしまった。声を掛けやすくするためだろうか、少しだけ開いた扉の隙間からはキーボードを叩く音や紙が重なり合う音が聞こえてくる。
ちょっとお茶を頂くだけだった筈がトントン話は進んで居座りコースになってしまった。
お兄さんはお仕事モードに入ってしまったから邪魔はできないし、好きにしろと取り残されても、人様のお家でできる事なんて何も無い。
あっけなく終わってしまったティータイムに戸惑いながら、特にすることもない私は無意味に天井を眺めたり、壁掛け時計の秒針を目で追ったりしていた。
あまりにも暇で勝手にカップを洗っていた時、振り返った位置から彼の背中が見えて、声を掛けてみようと歩み寄って扉を押した。
起きてないじゃん
掛けようとした言葉をなんとか寸前で飲み込んで、口を両手で抑えて必死に笑いを殺す。起きているからと言っていた癖に、何枚か重なった書類の上にぴったり顔を付けていて、歪んだ眼鏡がむにっと頬骨の辺りに食い込んでいた。
うっすら口まで開けているから、真面目そうな彼のあられもない姿に腹がよじれる。部屋の隅でひとしきり身悶えて、息を整えてから改めて彼の顔を覗き込んでみた。
眼というのは、見えてなくとも人を引き込む力があるのだろうか。そう思えるほど、閉じられた瞼のラインと睫毛から目が離せなくなる。
無意識に伸びた自分の手に驚いて慌てて引っ込め、引力のまま縮んだ距離感に、思わず後ずさった。
私はどうやら彼の笑顔や善意、親切心に包まれて、言い様のない安息と癒しを感じている様で、太古の昔から人々が崇めてきた太陽とさして変わりないとさえ思ってしまっているみたいだ。
下心もない善意の塊に触れる行為が「裏切り」だと感じたのは、きっとそのせいだろう。
彼は彼のままでいい。
触れたいと思った下心には蓋をしておこう。部屋の電気を消してリビングに戻った私はソファーに座って直ぐ、うたた寝からの夢を見始めていた。
甘さに切なさをひと匙混ぜたような雰囲気を漂わせ、怪しげな影が迫ってくる設定すら無視して、甘やかな時を永遠に過ごし続ける、テーブルを挟んで語り合う男女の風景。セピア色の世界で繰り広げられる、ただの会話劇だった。
帰り際の女が何かを言って、
微笑んだ男がそれに答えて。
ところが女は、男が何を話しても何を聞いても物憂げな顔をする。
たいした展開もないフランス映画は好きじゃないのに、私はそんな二人を、聞き覚えのある懐かしいオルゴールを聴きながら、頬杖をついて眺めていた。
オルゴールの音は次第に大きくなり、かき消されるように映像が途切れて、暗闇の中から射す強い光に目を瞑っているうちに、あのオルゴール音は携帯のアラームだという事を思い出した。
慌てて手探りでアラームを止めて、瞼の隙間からちらつく光を手で遮り、深く眠った時の幸福感を伴った、独特の気だるさにうーんと伸びをしながら目を開けて、ぼやけた視界の中に立つ人をしばらくの間、無になって見つめていた。
「おはよう」
声をかけられて、
コーヒー片手に立つ彼が、私を見下ろしているんだと気が付くまでにいったいどれくらい時間がかかったんだろう。
「……ちょっと、…もーやだ……
…いつから見てんのよ。…寝起きの顔なんて見られたくないんだけど」
腕で必死に顔を隠したら、柔らかい笑い声が聞こえてくる。
「君にも恥ずかしい事があったのか」
「どういう意味よソレ」
潜ってやろうと引っ張りあげたのは、自分で被った覚えのない布団で、それだけでもくすぐったいっていうのに。それはよくよく見れば、私が彼に掛けた筈のジャケットと、それだけじゃ寒いだろうと思って掛けてあげた毛布だという事に気が付いてしまった。
目覚めてから彼は、どんな気持ちでこれに触れたんだろう。どんな顔をして私に掛けたのか、何を見ていたのか。
そう考えたら、ますます布団から顔を出せなくなる。今もなお笑い続ける彼に、潜った布団の内側から、ジャケットだけを突き返した。
「はい、温めておきましたよ」
「わらじのつもりかな」
手から離れた感触にもぞもぞと顔を出せば「暖かいな」なんて言いながら着始める彼が居て、その甘ったるさから今すぐ外へ逃げたくなった。
「帰る」
「朝食くらい出そうか」
「いらない。ありがとうね」
慌てて飛び出した玄関先で、いつも通りの共有通路が冷たい現実に感じる程、夢のような空間にいたんだと改めて実感した。
あんなに外へ出たかったのに、今では漂う甘さが名残惜しい。
壁に手をつき、開いたドアを抑える彼の腕をすり抜けて、私は気になる寝癖を直しながら向き直った。
「お世話になりました」
ぺこっと頭を下げて微笑む彼に小さく手を振ったら、何故だか眠っていた時の事を思い出した。
確かあの映画の二人も別れ際、こんな風に何かを話していたっけ。
「何か困ったらいつでも来るといい」
夢から覚めてしまったからなんて言っていたのか解らないけど、今なら最後の台詞を思い出せそうな気がする。多分その鍵はこのお兄さんの笑顔だ。
一夜分眺めた笑顔を暫く見つめて、そして私はようやく思い出した。あの女は最後に名前を聞いたんだ。
「あ、」
「また忘れ物か?」
「うん。お兄さんの名前」
「トキだ」
「…ありがとう」
名前が聞けたのに、
映画どうり物憂げな気持になったのは、暖かさからくる寂しさだと思っていた。
「君は教えてくれないのかな」
どうしようもない切なさに駆られて歩き始めた冷たい廊下で、それを聞いた瞬間に胸が騒ぐ。
「…ユメ。」
名前を教えて、ゆっくり振り返った先にある、優しいトキの目に吸い込まれそうになった。
「ばいばいトキ」
あの女はきっと、
名を尋ねて欲しかったんだ。そして男の口から聞きたかったんだ。その声が呼ぶ、自分の名を。
「鍵を見つけたらまたおいで、ユメ」
ああ、トキは、
なんて甘い声で呼ぶんだろう。
今にも泣きそうな笑顔を浮かべているであろう自分が不思議だった。多分ここ最近で一番の笑顔だったかもしれない。それくらい子供みたいに笑ってしまった。
午前8:00
いつもと違う休日の朝
フランス映画のような恋をした。
MAIN
「君は…」
「あ…あの時の」
驚いた表情で立ち尽くすこの人は、紛れもなくあの時の紳士だ。
数日前、出張先のホテルでシャワーを浴びた後、色々あってバスタオル一枚という姿のまま外へ出てオートロックが締まり、さてどうしたものかと立ち尽くしていた所に彼が通った。
その姿に戸惑いながらも声を掛けてくれて、鍵は中だと言えば、着ていた上着を私に羽織らせて、そのまま下までホテルの人を呼びに行ってくれたのだ。
「君はいつも部屋の外にいるな」
「鍵落としたの。お兄さんお隣さんだったんだ…世界狭いね」
「そうだな」
ポケットの鍵を出しながら目の前を通り過ぎていく彼に、おやすみなさいと頭を下げてまた携帯に視線を戻したものの、違和感がするほど長い間ドアの閉まる音が聞こえてこないから、不思議に思って足音の消えた左側に首をかしげた。
「茶でも出そうか?」
ドアの内側に立ったまま両腕を組んでいるお兄さんが、目が合った瞬間ニコっと微笑む。見られていたという不意打ちに驚いたけれど、丁度心細かった私は直ぐに飛びついた。
「ラッキー。お邪魔します」
ささっと目の前に立てば、驚いた様な表情のあと、期待とは裏腹に眉が八の字に下がっていく。
もしかしたら気を使ってくれただけなのに、本気にして困らせてしまったかもしれない。気まずさに息をつけば、戻ろうにも引き返しにくくて思わず目が泳いでしまった。
「あのー…ごめんなさい、冗談でした?」
「いやいいんだ、こんな時間に女性が一人で居た方が危ないだろう。ただ警戒心の欠片も無かったのでな」
「だってタオル一枚の女も食わないお兄さんが悪い事する様には見えない」
初めて出会った時の姿を思い出したら、今更ながら笑えてくる。あんな裸同然の格好でつっ立っていたら何をされても文句は言えないってのに、この人はその時も今も笑って私を助けようとしている。そんな人に警戒心なんて、もっとおっかない事が頭に浮かぶ今は湧いてもこなかった。
「どうぞ」
仕切り直す様に促されて部屋に入れば、同じような間取りなのに、まるで異空間みたいな空気が流れていた。
物はあまりないのに寂しさを感じさせないのは、隅に置かれた観葉植物のせいか。板間にぼんやり反射するシーリングの明かりが暖かくさえ感じる。
「わー…見たまんま、って感じの綺麗な部屋」
「どういう意味かな」
「堅実誠実温厚な感じが滲み出てる。あと、凄くしっかりしてそう」
リビングに繋がったキッチンで、並べたカップに湯を注ぐ姿が、奥まった一角には窮屈そうに見えて、なんだかとても微笑ましい。
「面白くないだろう」
「面白いよ。心配症で紳士なお兄さんって凄く可愛い」
困らせるのが癖になりそうなくらい面白い顔をする彼をひとしきり笑って、つられるように向かいに座ると、差し出されたコーヒーに手を伸ばした。
「あの時、何故あんな姿で外にいたんだ?」
「うーん…酔ったまま風呂にでも入ったんじゃないかな」
「君は…もっとしっかりした方がいい」
「そうだね」
彼の周囲は常に暖かくて平和なオーラで包まれている。その温度に取り込まれて、説明する気にもなれなかった私は、その質問を適当に嘘で流してコーヒーと共に飲み込んだ。
「鍵はどうするんだ」
「朝になったら管理人さんとこに行く」
「ならそれまで好きにしていればいい」
「お兄さんは?」
「起きているから何かあったら呼べばいい」
そう言い残し、彼は飲みかけのコーヒーを持ったまま隣の部屋へと消えてしまった。声を掛けやすくするためだろうか、少しだけ開いた扉の隙間からはキーボードを叩く音や紙が重なり合う音が聞こえてくる。
ちょっとお茶を頂くだけだった筈がトントン話は進んで居座りコースになってしまった。
お兄さんはお仕事モードに入ってしまったから邪魔はできないし、好きにしろと取り残されても、人様のお家でできる事なんて何も無い。
あっけなく終わってしまったティータイムに戸惑いながら、特にすることもない私は無意味に天井を眺めたり、壁掛け時計の秒針を目で追ったりしていた。
あまりにも暇で勝手にカップを洗っていた時、振り返った位置から彼の背中が見えて、声を掛けてみようと歩み寄って扉を押した。
起きてないじゃん
掛けようとした言葉をなんとか寸前で飲み込んで、口を両手で抑えて必死に笑いを殺す。起きているからと言っていた癖に、何枚か重なった書類の上にぴったり顔を付けていて、歪んだ眼鏡がむにっと頬骨の辺りに食い込んでいた。
うっすら口まで開けているから、真面目そうな彼のあられもない姿に腹がよじれる。部屋の隅でひとしきり身悶えて、息を整えてから改めて彼の顔を覗き込んでみた。
眼というのは、見えてなくとも人を引き込む力があるのだろうか。そう思えるほど、閉じられた瞼のラインと睫毛から目が離せなくなる。
無意識に伸びた自分の手に驚いて慌てて引っ込め、引力のまま縮んだ距離感に、思わず後ずさった。
私はどうやら彼の笑顔や善意、親切心に包まれて、言い様のない安息と癒しを感じている様で、太古の昔から人々が崇めてきた太陽とさして変わりないとさえ思ってしまっているみたいだ。
下心もない善意の塊に触れる行為が「裏切り」だと感じたのは、きっとそのせいだろう。
彼は彼のままでいい。
触れたいと思った下心には蓋をしておこう。部屋の電気を消してリビングに戻った私はソファーに座って直ぐ、うたた寝からの夢を見始めていた。
甘さに切なさをひと匙混ぜたような雰囲気を漂わせ、怪しげな影が迫ってくる設定すら無視して、甘やかな時を永遠に過ごし続ける、テーブルを挟んで語り合う男女の風景。セピア色の世界で繰り広げられる、ただの会話劇だった。
帰り際の女が何かを言って、
微笑んだ男がそれに答えて。
ところが女は、男が何を話しても何を聞いても物憂げな顔をする。
たいした展開もないフランス映画は好きじゃないのに、私はそんな二人を、聞き覚えのある懐かしいオルゴールを聴きながら、頬杖をついて眺めていた。
オルゴールの音は次第に大きくなり、かき消されるように映像が途切れて、暗闇の中から射す強い光に目を瞑っているうちに、あのオルゴール音は携帯のアラームだという事を思い出した。
慌てて手探りでアラームを止めて、瞼の隙間からちらつく光を手で遮り、深く眠った時の幸福感を伴った、独特の気だるさにうーんと伸びをしながら目を開けて、ぼやけた視界の中に立つ人をしばらくの間、無になって見つめていた。
「おはよう」
声をかけられて、
コーヒー片手に立つ彼が、私を見下ろしているんだと気が付くまでにいったいどれくらい時間がかかったんだろう。
「……ちょっと、…もーやだ……
…いつから見てんのよ。…寝起きの顔なんて見られたくないんだけど」
腕で必死に顔を隠したら、柔らかい笑い声が聞こえてくる。
「君にも恥ずかしい事があったのか」
「どういう意味よソレ」
潜ってやろうと引っ張りあげたのは、自分で被った覚えのない布団で、それだけでもくすぐったいっていうのに。それはよくよく見れば、私が彼に掛けた筈のジャケットと、それだけじゃ寒いだろうと思って掛けてあげた毛布だという事に気が付いてしまった。
目覚めてから彼は、どんな気持ちでこれに触れたんだろう。どんな顔をして私に掛けたのか、何を見ていたのか。
そう考えたら、ますます布団から顔を出せなくなる。今もなお笑い続ける彼に、潜った布団の内側から、ジャケットだけを突き返した。
「はい、温めておきましたよ」
「わらじのつもりかな」
手から離れた感触にもぞもぞと顔を出せば「暖かいな」なんて言いながら着始める彼が居て、その甘ったるさから今すぐ外へ逃げたくなった。
「帰る」
「朝食くらい出そうか」
「いらない。ありがとうね」
慌てて飛び出した玄関先で、いつも通りの共有通路が冷たい現実に感じる程、夢のような空間にいたんだと改めて実感した。
あんなに外へ出たかったのに、今では漂う甘さが名残惜しい。
壁に手をつき、開いたドアを抑える彼の腕をすり抜けて、私は気になる寝癖を直しながら向き直った。
「お世話になりました」
ぺこっと頭を下げて微笑む彼に小さく手を振ったら、何故だか眠っていた時の事を思い出した。
確かあの映画の二人も別れ際、こんな風に何かを話していたっけ。
「何か困ったらいつでも来るといい」
夢から覚めてしまったからなんて言っていたのか解らないけど、今なら最後の台詞を思い出せそうな気がする。多分その鍵はこのお兄さんの笑顔だ。
一夜分眺めた笑顔を暫く見つめて、そして私はようやく思い出した。あの女は最後に名前を聞いたんだ。
「あ、」
「また忘れ物か?」
「うん。お兄さんの名前」
「トキだ」
「…ありがとう」
名前が聞けたのに、
映画どうり物憂げな気持になったのは、暖かさからくる寂しさだと思っていた。
「君は教えてくれないのかな」
どうしようもない切なさに駆られて歩き始めた冷たい廊下で、それを聞いた瞬間に胸が騒ぐ。
「…ユメ。」
名前を教えて、ゆっくり振り返った先にある、優しいトキの目に吸い込まれそうになった。
「ばいばいトキ」
あの女はきっと、
名を尋ねて欲しかったんだ。そして男の口から聞きたかったんだ。その声が呼ぶ、自分の名を。
「鍵を見つけたらまたおいで、ユメ」
ああ、トキは、
なんて甘い声で呼ぶんだろう。
今にも泣きそうな笑顔を浮かべているであろう自分が不思議だった。多分ここ最近で一番の笑顔だったかもしれない。それくらい子供みたいに笑ってしまった。
午前8:00
いつもと違う休日の朝
フランス映画のような恋をした。