ひょんなことから互の名を知った私達は、直ぐに「ただいま」と「お帰り」を言い合う、暖かくてくすぐったい関係になった。

自宅が憂鬱な場所である私にとって、誰かが笑っておかえりを言ってくれるというのは、余分な気持ちが付いてくるにしても有り難い事だ。
まるで安らぐ事なんてなかったけれど、トキがこの壁を隔てた隣に居るというだけで、穏やかな温かい気持ちになれる。

ドアの前に立ち、運良く彼に居合わせて、声を聞けた日常の刺が抜けきる瞬間に、私は今までに得た事のない安らぎを体感していた。



「あ。おかえりトキ」


「ただいま」



突然甘い物が食べたくなって、コンビニに行こうと扉を開けた所で偶然居合わせて、おかえりを言えた優越感に幸せを噛み締めた。

今日は微笑みをくれた彼に少しだけ現実逃避しよう。シュークリームを買おうと思ったけれど、そこは2個入りのショートケーキに変えて、ささやかな幸せをひっそり祝うのもいいかもしれない。



「出掛けるのかい」


「うん。おやつ買いに」



真実なんだけど、単純に説明すればこんなにも酷く子供的だという事に話した後になって気がついた。



あー、しまった

すごく笑われてる。




扉に当てた拳に頭を沈めて震えるトキに、そんなに面白くないでしょうと呆れていたけれど、しつこく笑われるうちに羞恥心がふつふつ湧いてきて、部屋に帰ろうかと思った時だった。



「ケーキを頂いたんだけど、お茶でもどうかな」


散々笑っておいてそんな顔されても、ハイお邪魔しますなんて言える訳ないでしょう。羞恥心が未消化なんですけど。腹いせに嫌だと言ってみようか。
そうも思ったけれど、にこにこ笑って待つだけの彼には全く適う気がしない。


「じゃあ…少しだけお邪魔します」


どうぞと一言、大きく扉を開けて待つ側まで行くと、至近距離で笑うその顔が眩しすぎる事に気が付いて、促されるまま先にあがらせて貰った。


久しぶりの部屋は特になんの代わり映えもなくて、あの日のまま時が止まっていたみたいな、温かい空間が私を包んでくれる。


「飲み物は何でもいいかな」

「うん」

ダウンを背もたれに掛けて前と同じ椅子に座れば、キッチンに立つ彼の背まであの日の様で、なんだか懐かしく感じた。


「これってトキの好み?」


大人しく座っていられなくて隣に立てば、数種類の洒落た茶葉が、女子並みにずらっと並んでいて、なんだか面白くなってしまった。


「いや、患者さんから頂いたんだ」

「え、トキってお医者さんなの?」

「そんなものかな」


笑ってやろうと思ったのにこれはとんでもないしっぺ返しだ。どこまで完璧な男なんだ。頂き物といい人柄といい、愛されている事は言うまでもなく解る。


「…凄いなぁ」

「使命に基づいて好きに生きているだけだ」


ガラス製のポットに注がれたお湯が、茶葉の色に染まりながらあったかそうに湯気をたてて、その延長線上にあるトキが、目を細めているところに視線がぶつかった。


ああ、
私この微笑み苦手かも。
耐えられない。


重なった小皿とフォークを持って逃げ出すようにテーブルへ戻り、私は真っ白なケーキボックスを開けた。



「わぁ…凄い!こんなにある」


コーヒーゼリー、ショートケーキ、モンブラン、苺タルト。どれもきらきらと輝いて見えて、コンビニのスイーツじゃあこの感動は味わえなかっただろうなと、感慨深い気持ちで眺めた。

どれにしようか、ああでもないこうでもないと必死に考えていたものだから、ティーセットが置かれた事も、トキが目の前で頬杖ついて見ていた事にも気が付かなくて、うんうん考えながら指を宙で迷わせていた。



「苺大好き。タルトもらっちゃおうかなー」



次の瞬間、 笑ってフリーズしたままの私は、
胸の中で弾けた強い衝撃に卒倒しそうになった。
ふと顔を上げれば、とんでもなく穏やかに笑う彼がいて、なんなら全部食べても構わないよ、だなんて更に甘やかしてくるから、甘いものを食べたかった筈なのに戦意喪失してしまって、タルトの味なんか解らないほど舌が馬鹿になってしまった。これってこんなに甘い物だったかな。今日の苺はどうもおかしい。


「半分あげる」

眺めるだけで手付かずのトキに、奪い取ったフォークで、半分に切り分けた納得のいかないタルトを皿に乗せて差し出した。


「ショートケーキもトキが食べてね」

トキだけでも甘すぎるのにショートケーキなんてとんでもない。甘味は全て彼に押し付けて、断りも得ずに取り出した苦そうなゼリーでクールダウンを試みたけれど、まるで愛でる様な視線に、その作戦は無意味なものになった。

カップを口に付ける仕草、頬杖をつく彼の揺れる髪、ケーキを一口食べた後に必ず私を見て微笑むその表情。
ゆったりとした動きは私を戸惑わせるには充分すぎるほどで目も心まで奪われる。


「…なんでそんなに見てくるの?」

「聞かない方がいい」

「なによ」

「ユメの百面相は面白い」


カップを置いたかと思えば、口元を拳で隠して笑いに肩を震わせ始めた。覆いきれなかった優しい目は拗ねた私を見つめ続けて、何の嫌味か、モンブランまで勧めてくる。


「トキにあげる」

「こんなには食べられないな」

「男なんだからもりもり食べなさいよ」

「手伝ってはくれないのかな」

「モンブランは嫌い」


苺を器用によけながら削られていたショートケーキはなくなり、空いたスペースに私が拒否したモンブランが乗る。上機嫌に笑うトキは、もう食べられないなんて嘘だったとしか思えない早さで、全てをたいらげていった。


「甘いの好きなの?」

「ああ。好きだよ」

「ふーん…可愛いね、幸せそう」


大の男が女に可愛いだなんて言われて、きっとなんて切り返せばいいのか解らないんだろう。困った顔を見ながら、さっきの仕返しができたと達成感で頬が引き攣りそうなほど全力で笑ってしまった。

すると成功の余韻に浸る間もなく、お茶を一口気分を切り替えてしまったトキは、応戦する様に再び苦手なあの微笑みを浮かべてきた。


「今日は随分と我が儘だ」

「甘やかすから悪いのよ」


負けじと微笑み返した頃、最後まで取り残されていたショートケーキの苺に、彼はやっとフォークを刺した。


「可愛いな、君は」


全くなんてこと言うんだか。そんな訳無いわよと、いくらでも否定の言葉を用意していたのに、目の前に突き出された物に反射的に口を開ければ「好きなんだろう?」と苺が放り込まれて、目を見る事ができなくなった私は、やけに甘い苺を咀嚼しながら俯く他なかった。

やっぱり駄目だ。この甘さはどうも好きになれない。

こんなにも暖かい眼差しを貰ったことは今までに一度も無いから、このこっ恥ずかしさをどう片付けていいのか解らなくなる。
決して嫌いなわけではない筈で、何処かで甘さを欲している事も解っているし、きっと一人になった頃に噛み締めるのだろう事も知っている。

けれどこんな平穏に包まれてはいけない様な、自分はもっとキリキリした場所に居なくてはならないような気がして、この甘さをうまく消化することができなかった。


「これジャスミンティー??芝生の味がする」

「食べたことがあるのか」

「あるわけないじゃない」


横暴になっていく私を相変わらず笑って受け流すから、羞恥心を引きずったまま客とは思えない行動はいつまでも続いた。



二人で食器を片付けた後、好きなだけ居ればいいと言ってくれた彼に甘えてソファーに寝そべり、本棚から取った手頃な本を開いて、目の上に乗せた。

あの日のように耳に残るキーボードの音が心地よくて、あっという間に睡魔に襲われた私は数時間後、予防線であったアイマスク代わりの本を床に落とした事にも気付かずに、またしても彼に寝顔を晒す事になる。


「ちゃんと寝てるのか?くまが酷いな」


寝顔を見られるのは嫌だったけど、頬を撫でるトキが、苦しそうにも見えるほど心配そうな顔をするから、もうそれどころじゃなくなっていた。

こんな顔はさせたくないと強く思った私は、考えた末、心配症な指先を捕まえて、そっと握り返してみる事にした。


「そうなんです先生。お茶に誘って寝かせてくれない男がいまして。どうしたら治りますか?」

「一緒に寝てあげようか」

「…先生、真顔でとんでもない事言いますね」

「君もだろう」


突然始まった滅茶苦茶な患者ごっこは直ぐに終わり、耐えきれなくなって笑い始めれば、トキは呆れたように笑って、もう少し寝てなさいと毛布を掛けてくれる。


「ねぇ待って」


トキが不思議そうに振り返ったのは、私が再び指先を捕まえたからだ。


「一緒に寝てくれるんじゃないの?」


さっきは自ら応戦して言っていた癖に、そんなに驚かれたら、その可愛さに誰だって笑ってしまうだろう。

クスクス笑い始めた私を見て、冗談だと気付いたトキは、我が儘な子供をなだめるみたいに身をかがめて、髪を優しく撫でてくれた。


「ごめん、困らせるつもりじゃ無かったんだけど。でもできれば見える所に居てくれないかな…お願い」


大好きで苦手な微笑みを浮かべた彼は、一度自室に消えて、仕事道具を持って直ぐにリビングへ戻ってきた。

さっきまでティータイムをしていたテーブルに、幾つかの書類とノートパソコンが置かれて、私の大好きなタイピング音がかたかたと響き始める。


勘違いしそうだ。
トキにではなくて、甘さに浸っていてもいいのだと。

このまま現実逃避を続けて、いつまでも甘えていたくなるけれど、玄関を出た先で私を待つのは、冷たい寒い怖い孤独辛い寂しい、嫌な事だらけの現実世界。
決して浸っていていい訳がない。いつまでも楽園にいる事は許されないのだ。


それでも今は、今だけは嫌な事ばかりの日常を戦い抜くための力を少しだけ私に。目が覚めたらまた頑張るから。

今までに得た事の無い安心感に包まれて、重たくなる瞼の隙に彼の後ろ姿を閉じ込めて、私は再び眠りに落ちた。



 


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