シャッター街を抜ければ、広がる暗がりの夜道。 街頭が照らす電柱の広告、ゴミ箱、野良猫、無機質なマンションとマンション、それからマンション。


外観は何も変わらないし、花見なんかする暇もなかったから、なんの実感も無いけれど、新年度の始まりを迎えたこの街にも去年と変わらず、確かな春が訪れているらしい。



別れの季節の象徴が散り、
伸びた葉桜が狭い道路で擦れ違う終バスの窓を叩く。

まだ終点に着く前なのに、早々と回送の文字が浮かぶ車内には、沢山のテンション振り切ったお行儀の悪い大学生達の姿が見えた。
連休前の金曜日だから、きっと何処の会社も学校も歓迎会をしてるんだろう。

そう言えば駅前でも直座りの人を見かけた。学生が多く住んでいるのであろうこの地区も、殴り合いでもしてきたのか、燃え尽きたファイターの様に項垂れる男や、無防備に鞄を広げて眠るうら若き乙女まで。


あー、
なんてみっともないんだろうか。いい歳こいて自分の限界くらい知っているだろうに、人様に迷惑を掛けて。

後日、駆け付けてくれた駅員さんやお巡りさんに菓子折りでも持って、謝罪に行っていればいいけど。と、同級生を介抱した記憶と重ねながら、まるで母親のように思う。

まぁ、この人達には縁がないだろうから知る事も無いんだろうけれど、酔っ払いの面倒を見るのは本当に疲れるのだ。

ホント目が覚めたら、一発飛び蹴りでも食らわしてやりたい程に。そう考えたところで、それはそれは、深い溜め息をついた。





「何やってんのよ」


お酒は飲まないと言っていたこの人が、何故どうしてどうなって、私の家の前で寛いでいるのか。
私の知っているトキはこんな、宴会鼻メガネなんて死んでも掛けない。じゃあこの革靴をルンルン揺らしている男は一体誰なんだ。



「お帰りユメ」


ああこれは大きなドワーフ…じゃない、紛れもなくトキだ。広げられた長い脚を跨いで、顔色を伺うためにしゃがみ込めば、鼻眼鏡の奥は予想外に、なんとも憂鬱そうな顔をしていた。



「ねぇ………何事?」

「豆が浮いてたから」

「は?」

「新手のカフェオレかと思ったんだ」



うん?…うん。……そうか。とりあえず家にしまおう。もしかしたら彼の一大事なのかもしれないだなんて思ったけど、これはただの酔っ払い確定だ。


「ほら立って!鍵は?」


揺らめくトキの手を引いてドアを開け、そのまま玄関に放置して部屋に入ればベッドの上にはパジャマが綺麗に畳まれていて、朝までは普通のトキだったのにと哀れに思う。きっと、折角だから院長も、とか言って上手いことのせられたに違いない。


寝間着のズボンだけ持ってリビングへ向かえば、思いの外、足取りのしっかりしたトキがソファーへ座った所だった。


「受付の新人の娘が飲めと」

「なにを?」

「コーヒーのなんだったか、鈍器みたいな名前の」

「ああ、ベルベットハンマーね」

「仕方なく飲んだら、今宵も貴方を想うって意味だと聞かされて」

「あらモテるのね、口説かれてるじゃない」

「君に会いたくなったから帰ってきた」


一瞬で突っ込みどころを忘れた。天井を眺めながら目をこすって、今日宿題忘れたんだーと台所の母親へ話し掛ける小学生のようなノリでよくもそんな。

口説かれてるのに帰ってくるなんて…鈍器って…ていうか鼻眼鏡が似合うって………いやいやそこじゃない。この人は今とんでもない事を口走っている。

トキが私を想う?そんなまさか。でも、会いたくなったからと言われて、思い返せば、何故自宅ではなく私の家の前に居たのかも説明がつく…いや、説明は…つかない。認めない。

真に受けちゃいけないと解ってるのに、グラスの水が揺れたのは、戸惑ったからじゃなくて突然引き寄せられたからだった。


「先週来なかったろう。俺居たのに」


強引に腕を掴むから、グラスから水だけが飛び出して、フローリングに水しぶきが散る。すっかり別人になってしまった彼の行動や言動は、全く予測不可能で心臓がおかしくなる。
普段は「俺」なんて言わない癖に、何処か男子生徒化している口調は我が儘キャラを一層濃くしていて、背中をぎゅうぎゅうするから既に頭は真っ白になっていた。この調子で襲われでもしたら私は…いや、今のも忘れよう。


「ちょっと、溢れた水拭いていいかな」


何とか抜け出そうとフローリングを指さすけれど、嫌だとか沢山待ったから離したくないだとか、もう耳を塞ぎたくなる言葉ばかり耳元に流れてくる。


「解った解った明日も来るから。ほら!ネンネシマスヨー!」


全力の微笑みからなんとか目を逸らし、寝かせてしまえと立ち上がらせる。放っておいても死にやしないんだ。寧ろ私の心臓が止まる前に帰らねば。部屋の扉まで同行して、寝床へ向かう背を見送ったら全力で走ろう。


「ほら早く入って……ちょっ、こらあああ」

「一緒に寝るだろう」

「は!?、寝ない寝ない私寝ないから!!!ちょっと本当に勘弁してよ!!!」


立たせた時のまま繋いでいた手は、いつの間に腰にまわり、がっしりホールドされたままツツツと寄せられて。勢い良く寝転んだトキの胸板へ二度目のダイブが決まって、鎖骨のあたりに激しく鼻を強打した。


「…もう!!ホント覚えときなさいよ!明日起きたら飛び蹴りだからっ!!!」


あっちこっちにはね飛んだクッションを片手で集めて積み上げ、高めの枕を作って背を預ける姿を見れば、私の抗議は何一つ耳に入っていない事が解る。

寝心地の良さを求めて揺れる身体は容赦なく私の体を締め付けて、隙間なく密着したところで頬ずりまでし始め、ヒゲ、ヒゲ痛いと言う私の言葉は、凄いスピードで眠りに落ちた彼により、同じ速度で独り言となる。

なんて野郎。まるで嵐だ。
こんな距離で、ましてや触れた事さえ無かった領域に囚われた私が、眠れる筈は無く。



不眠のまま迎えた朝、
頭上で鳴るツーベルの目覚まし時計に手を伸ばした彼は、腕の中で笑う私を見て予想通りの反応を見せる。そんなトキがおはようより先に発した第一声はワタワタだった。
多分、私は何を、と言いたかったのだろうけれど、古典的な動揺の仕方にベッドが揺れる程笑ってしまって涙まで滲んでくる。


昨日は苦労したんだから仕返しに虐めてやろうかと思い、説明してあげようかと問えば、覚悟を決めたのかゴクリと生唾を飲んだのが見えたから、遠慮なくトキの胸に乗り上げて両腕を背に巻き付け、こうやって帰ろうとした私を捕まえて離さなかったのよと言えば、赤いんだ青いんだか、顔色をころころ変えて最後にはフリーズしてしまった。



「土曜は午前診療じゃないの?」

「!……しまった」

慌てて飛び起きたトキを見て、遂に含み笑いは盛大な爆笑へと変わる。慌てて彼が掛けた眼鏡は昨日の鼻メガネで、何だこれはとゴミ箱へ投げ捨てたからだ。

何故帰らなかったんだという酔っ払い独特の筋が通らない抗議を受け流しながら、その背を追って、歯磨きを始めた不機嫌な表情を鏡越しに眺める。最後はそうだな、ドヤ顔でとどめでも刺してやろう。


「トキ、それ洗顔」


ぶはっと吐き出す姿を見送って、鞄を手にした私は、次こそ玄関の扉を開けた。言い訳は聞いてやらない事にしよう。


「お邪魔しましたー」


さっそうと通路に躍り出て自宅の鍵を開けた時、飛び蹴りを忘れていた事を思い出したけれど、携帯の待受画面に映る、鼻メガネのトキを見て勘弁してやるかとまたひと笑い。

今日は久々にカーテンでも開けて部屋に光を入れようか。窓を開けたら暖かい風が吹いてきて鳥のさえずりさえ流れてくる。少し遅れて響いた隣人のドタバタと出勤していく音を聞いた私は、うっかりやり過ごしていた、確かな春を感じていた。










「とまぁね……こういう事でしたけれども。どうでしょうかトキ君、改めて聞かされる気分は」

「その…すまない。本当にすまない」


夜になり、
また隣人の部屋へやって来た私はリビングで家主の男を正座させている。子供の様なトキとの約束を果たすためじゃない。こうして虐めぬくために来た。


するとテーブルには到底男のチョイスとは思えない、寒気がする程可愛いパステルカラーのお菓子が山盛り並んでいて。

恐らく鈍器の様な名前の酒をよこした、この男に想いを寄せる新人の娘に聞いてしまったのであろう事は容易く想像できた。


「受付の新人にでも聞いたんでしょ」

「何故解るんだ」

「あのねぇ…決死で口説いてるレディを華麗に無視して帰った上に、翌日には忘れて他の女に渡すお勧めの菓子折り聞くなんて。そんな事してたらいつか刺されるわよ」


ほらでたよワタワタ。
現実でワタワタ言う奴なんて初めて見た。私はそんな事までしたのかと溜息をつく姿を見れば、昨晩の温度なんて当然全く覚えていないだろうと、少しだけ面白くない気持になる。腹いせにこのお菓子は全て頂戴する事にしよう。あと高そうな珈琲も。


「ここで一番たかぁい珈琲いれて欲しいなー」

珈琲を待つ間、さて次はどの記憶を蒸し返そうかと企んでいたら、一旦部屋へ戻ったトキが不思議な物を抱いて帰ってきた。


「これ持って帰ってくれないか」

「どうしたのこれ」

「患者さんから」

「トキに、兎……………ねぇ」


待合室は頂き物で溢れているから置く場所が無いんだと言うから、それならとラッピングを剥がす。少し大きな兎のぬいぐるみはイースターを意識したのか、淡い黄色でなんとも可愛く微笑んでいる。お腹のあたりのポケットからはポプリのラベンダーの香りがした。


「うん、気に入った。毎日怖くて眠れないから抱きしめて寝ますわね、貴方だと思って」


私をたぶらかしておいて忘れた罰だ。せいぜい狼狽えるがいい。


「呼ばれれば行くけれど。」


これ見よがしの嫌味に耐えかねたのか、不機嫌な顔で放たれた意外な一言に絶句した。 なるほど、応戦する気か。受けてたとうじゃないか。アンタの弱みはあほ程握っている。


「なに?私に一緒に寝て欲しいなとか言わせる気なの?絶対に嫌よ」


「一晩中私を介抱してたんだろう」


「はぁ?!あーんたが離さなかったんでしょう?どの口がそんな事言うのよ」


「酒に飲まれた情けない男なんて放って起けばいいんだ。そんなだとつけ込まれて悪い男に泣かされるぞ」


「ちょっとちょっと!!世話させといて聞き捨てならないわね!有無を言わさす捕まえて帰さなかった悪い男はあんたでしょ!この天然たらし男!!!…いいわ。じゃあ昨日なんて言ってたかこの兎さんに再現して貰いましょう。…君を思ったら会いたくなったんだ〜俺先週待ってたのに〜ぎゅー」


「なっ………なっ……!」


「わたわた!……あっははは、うっそー」


「君はっ!本当にっー、」


「あああ投げたー!大事にするのに馬鹿馬鹿!!」


「こらっ…食べ物を投げるのはやめないかっ!」


投げ合いに巻き込まれてクッションは破け、大量の羽根が舞う中を七色のマカロンが飛び交う。時々二人の間を跳ねる兎は、それはそれは楽しげに花の香りを振りまいていた。

巡る季節は四月兎の踊る頃。
暖かい風は
今日も二人の間を吹き抜ける。




【春眠、暁を覚えず】


日の出が急に早くなったので
夜明けに目覚める事が出来なくなった
もう所々では鳥がさえずっている
待ちに待った春が来たのか
そういえば昨夜は
風雨の吹き荒れる音がした
折角の花がどれほど落ちた事だろう

でも、こんな心配は
厳しい冬の間は出来なかった事だ
嗚呼、春が来て幸せだなあ




 


MAIN