休日が退屈に感じられるのは一体どれくらいぶりだろうか。あれから何度もアリスのワンシーンの様な日々が続いた。けれど、その華やいだ不自然な日常に全てを捨て置いてもいいと思える程依存してしまい。糖度の分だけひらく帰宅後の温度差が耐え難くなった私は、彼の家を訪れる機会を見失いつつあった。


出会いの日。大きな変化をもたらした再会の日。酔っぱらいのトキが私を待ち伏せていたあの日。隈が酷いと心配そうに頬を撫でるトキが、ラベンダー香る兎をくれたあの日。

過ぎてく日々があの日を過去にしても、励みにしながら怒涛の毎日を戦い続けた。だけどやっぱり薄れてくると恋しくて。それでも同じ分だけ掠れていった勇気のせいで、ドアも叩けなくなってしまい。

どうしたら会えるのか考えた末、口実になりそうな美味しい珈琲を探しに行く事を思い付き、今日は外へ出掛けてみる事にした。



途中ナンパ男の相手をしてしまったのは、一軒目の珈琲店のウィンドウを前にしても、トキの好みを何一つ知らない事を痛感したからかもしれない。

その瞬間、ただの隣人を楽園と勝手に謳っている自分が嫌になり。幸せばかりで恐ろしい記憶を忘れかけていた私は「依存なんてしてない」と自分に言い訳をするために、見知らぬ男と居酒屋の暖簾をくぐった。

昔はこの手の誘いに乗って食事だけ頂くなんて事もしていたし、潔癖な程抵抗があるわけでもないから、気持ち次第では楽しめるだろうと思っていた。

しかしその時間は言うなれば空っぽ。相手の話は上の空、声がする度トキの顔が浮かぶ。居心地悪い上に退屈で、一刻も早く帰りたかった。

でも簡単に誘いに乗ってしまった手前、相手に申し訳なくて。もう少し飲みなよと出される酒をグイグイ喉に押し込む。付いて来ておいてなんだけど、潰そうとしている事が直ぐ解るきつい酒のチョイスに、男の黒い部分をみてとても嫌な気になった。しかしお生憎様。私は酔い潰れる程弱くはない。



余計な外出を控える私が、わざわざ町に出てきたのは一体なんでだ?

そんな事は解ってる。
タイミングを逃して会い辛くなったトキのために、口実の珈琲を買いに来たんだ。でも甘い物が好きなこと以外、何も知らなかった。
親切な気の良い人だけど、所詮踏み込めない何かを持つ「他人」である事を今更思い知った。


社交辞令と本心の境目が解らなくなっている今の私に、それを見極める力なんて無いけれど、ただ言葉に甘えて楽園に入り浸る自身に罪悪感が沸いてくる。

依存なんてしてないさ。
私は隣の部屋がなくたって、自分の世界を独立させられる。そう証明するつもりが、世界はいつの間に、あの人以外全てが敵になっていた。


いつになったら会えるだろう。
…そうか。
どんなコーヒーが好きなのか、
聞いてみたらいいんだ。


酒のお陰で斜め上をいく閃きに少し笑って。どんな私でも迎えてくれるだろうかと、呑み潰れた男を置いて、駅前の百円ショップに揚々と歩き始めた。







往診の帰り、街で彼女を見かけたが、男に絡まれているのを見て、弧を描いていた口は直ぐに元へ戻った。

何も止める必要はないし、隣に住んでいるだけの他人の行動を制限するような権利もない。蝶のように舞う君が気まぐれに何処へ行こうと、所詮私には関係ない事だ。


ただ時々は、羽根を休めに来て欲しいと思う。仕事を終えて、やっと訪れた休日に君が居ないのは、少しの不自然ささえ感じさせる。パソコンに向かいキーを打つ後ろに、君の寝息が聞こえないのはどうも。



「あ、お久しぶりでーす」

「ユメ…?」


近頃は通路でさえ出くわさないな。と、丁度そう思っていた所だった。

自宅のドア前に座るユメが、いつぞやの朝、衝撃で目覚めた時に捨てた筈の、ふざけたヒゲ付き眼鏡を掛けて緩く微笑んでいた。



「見て見て。トキが酔ってた時のまんま再現」


「いつから居たんだ…こんなに冷えて。早く入りなさい」


吹き込む通路の風は容赦なく彼女から熱を奪っただろう。私のために冷えた身体を早く温めてやりたくて手を伸ばせば、人の気も知らないで、元気な声量をそのままに一日の報告を始めた。


「もう!聞いてくれるかなぁ!久しぶりにお茶がしたいななんて思ってたんだけど、間があくと来にくくて。だからお土産の珈琲探しに行ったのよ。そしたら店主がジャコウネコの糞から取り出した珈琲豆を勧めてきてね、そんなとんでもない物、トキは飲まないわよって思って私、」


「…酔ってるのか?」

「失礼ね。酔ってないわよ、沢山飲んだだけ」


玄関で壁に背を預け、座り直してしまった彼女は、靴を脱いだだけでリビングまでは行こうとしない。
ただ髪に指先を絡ませて、「トキはもっと深みのある物を飲む筈なのよ、私コーヒーの味なんて解らないけど」と口を尖らせる。

彼女の脳内に住まわる私は、ジャコウ猫の珈琲は好まないらしいが、実際には飲んだ事も無いし詳しくも無い。一方的に繰り広げられる話は間違いに溢れていたが、それでも同じ様に壁に背を預け、彼女の考える私を聞いていたくて相槌をうった。


「結局トキが何を好きか全然解らなかったのよ。だから」

「だから?」

「買えなかった」


まくし立てるような語り口が緩やかに掠れ、視線も同時に靴箱へ逸れる。私を暖めるにはもう充分過ぎる甘さが漂い始めていたが、素直に喜べないのは、昼間の光景を見てしまったからだろう。


「一人で飲んでいたのか?」

「んーん。知らない男と」

「関心しないな」

「だってトキの家ばっかり来てるでしょ?なんか嫌になってくるのよ。此処が無いと生きていけない人間なのかもしれないと思うと。だから行ってみたけど全然楽しくなかったわ。寧ろ不愉快で」

「声を掛けた方が…良かったかな」

「何? 」

「見たんだよ君を。丁度男と話していた所だった」

「ふーん。軽い女だと思ったんじゃない?」

「君がどんな風に生きようと、私には関係の無い事だ」

「そっか」

「ただ、君がいない休日は中々に退屈だ」


冷たく突き放されたとでも思っただろうか。わかり易く俯いた憂い顔に頬が緩んで仕方ない。一刻も早く見せてやりたくてリビングへの扉を開ければ、驚いて駆け寄るユメが私のジャケットの裾を掴んだ。



「どうしたのこれ?花畑みたいじゃない。貰ったの?」

「そんなとこかな」

「ホント、女子力高すぎ」

ユメが笑えば花も部屋も一斉に彩られ、童話の春の女神とは彼女ではないかとさえ思う。
ソファーに我が物顔で座ったユメは薮から棒に、鼻眼鏡の付けヒゲはどう撫でれば王様に見えるかと面白い事を呟いた。まず宴会芸ものの眼鏡を掛けた国王など存在しないだろう。それにこんなにも愛らしいユメが掛けたところで王になんて見える筈がない。

隣に寄り添い緩く髪を撫でれば、花の香りに混じり時々香る、他の男と嗜んできたという酒の名残り。身体を悪くしたい訳ではないが、私も相手が出来るほど飲めれば良かった。


「どうしたの?」

「知らない男について行くのはやめなさい」

「うん。もうしない。……ねぇトキ、」


自分の話した言葉の意味を考えられるほど正常ではない彼女はやはり、酒にやられているのかもしれない。


「私やっぱり酔ってるのかな。怒られてるのに凄く嬉しいの」


内心穏やかではなくなる事を懸念して、今すぐ帰りなさいと勧めれば、「珍しい」とかえって喜び始め、前の仕返しに困らせてやると堂々寝室を占領し、一緒に寝ようよと手招きが始まった。
やめないかと何度たしなめても、延々続く無邪気な猛攻。そもそも、取り乱したままの私に勝算など無い。


クッションに沈む、口角を一杯に吊り上げた笑顔と重ねられた手が、会えずにいたつまらない日々を隙間無く埋めていく。


「トキが好きな珈琲を知りたい」

「どれもついでだ、君が来てくれる事の。なんだって美味しく頂こう」

「ふーん。……ねえコレ、もう見飽きたでしょ。そろそろ外そうかしら」

「魔除けにつけておきなさい」

「え?この部屋おばけ出るの?」


どれもこれも水と変わりないと言えば、その自由な羽を裂く事になりはしないかと、微睡む君に乗じて有耶無耶にしておいた。

それにしても仕事を持ち帰る癖を直しておいて良かったと思う。今日は朝まで、待ち望んだ美しい羽根を眺めながら、君が延々と聞く、私の好きな物について語るフリをしていられるのだから。





次に目覚めた時、隣にあったのは魔除けの眼鏡だけだった。机には「三時頃また」と書かれた紙が一枚。残された言葉はこれだけだろうかと裏返したそこには、決して上手とは言えない兎が、吹き出し付きで有難うと手を振っていて、名残惜しさを少し払拭していく。


「まるで子供のようだな」


彼女がではなく、もう待ち侘びている自分自身にそう呟いた正午過ぎ、余裕を取り戻したくて窓を開けた。
頭を冷やすつもりだったのだが、真隣りからはただならぬ煙の臭いが流れてくるものだから、肝を冷やす事となる。


「何を燃やしてるんだ!」

「燃やしてないって!焦がしただけだって…あぁ」

私と知って開けられた隙間から無理やりドアを開け、キッチンへ走り去るユメを追えば、後ろにはオーブンがあり、必死に隠す腕の間から見える焼き菓子が、先程と同じ匂いを漂わせていた。


「甘い物は…嫌いなんだろう?」

「あーもうトキばーか最悪。はいもうバイバーイ」


玄関まで押し戻され、突き放す横暴な態度を受けて初めて、早とちりとはいえ、強引に部屋へあがってしまった事を後悔した。


「後で持っていこうと思ってたのよ。でも、あああ!もう!」


しかし彼女が怒る理由を知ってしまえば、また上がらずにはいられない。私のために焼いたあの焼き菓子は恐らく、捨てられる事になるだろうから。


「お邪魔してもいいかな」

「いいけど…。ちょっと!熱いよ?!」

「焦げては、ないと思うんだが」

「え?そうなの?」


真っ黒に見えるその端を摘んでみれば、苦そうに見せかけて、とんと甘いカカオの味。彼女はまた私のために砂糖を多めに盛ったようだ。


「お茶でも、出そうか?」


再開した時から変わらない台詞をもう一度。これからもこの幸福は、甘さを含みながら積み重ねられて行くのだろうか。ならばあの日からやけに緩く流れる時に感謝せねばならない。


「まって、仕上げをね。おトキさんパウダー!」


ユメは更に粉砂糖をレースペーパーの上からかけ、ふと息をかけた。永遠の魔法をかけるようなその仕草で、まさに一瞬、時を止めて。


「はい。甘党のお兄さん、ガトーショコラはお好き?」


本当は甘い物なんて好きではない。食べる度にまじまじと見つめ「可愛いね」と言うその言葉に違和感を感じながらも、愛でられていると、愛されているような気がして甘い気になる。その一口に甘い君を重ねているだけだ。

「ああ、好きだよ。全部食べたい」

両手を塞ぐワンホールを受け取り、空いた手で「呆れるほど甘党ね」と微笑む君の手を引いて、このまま攫っていく事にしよう。


苦いコーヒーを出して、笑い声を聞いて、ソファーに広がる魅了してやまない美しい羽根を眺めていたいと願っていた。機会を見失った君にカップを買って、君が笑いそうな程、沢山の花も置いて、ドアが鳴るのを待ってしまう程に。
どうしたかと聞かれれば、きっとまた来院する患者さんが等と言ってしまうのだろうとも思っていた。そしてその全てが予想通り再現され、甘い苦虫を噛み潰す。


ああ私は。
君のせいで、益々嘘つきになっていく。



【愚か者のシンフォニー】

今日も甘党のフリをして
呆れる程に君だけを


 


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