雨の日は





単身者が多く暮らす11階建てのこのマンションに、同じ夜間学校の友達が住んでいる事を知ったのは半年くらい前の事だった。

仕事をしてから学校に来たり、昼間の学校に行ってから夜も学校なんて子もいるくらい休まる暇もない生活だけど、それぞれが様々なライフスタイルを送りながら時折すれ違う敷地内で僅かな自由時間を共有していた。



「ちょっとちょっと聞いて!」



早朝、ロビーのポストに突っ込まれた迷惑チラシを片付けにきたら夜勤明けの友人が帰宅した所に出くわした。


「私見たのよ!怪人!」


目が合うなりお帰りもおはようも言わさない物言いで腕を引っ掴むから、友人の腕にぶら下がったコンビニのおでんがぶんぶん揺れる。


「ほら溢れるよ、落ち着きなって」


「おっけ、解った。すぐ落ち着く」


忙しない動きで袋の中を確認し、
セーフと言いながら優雅に広げた手が次は壁に当たって、ついにおでんが袋の中で溢れ出たのが見えた。


「いやあああああい!!!」


「うるさいってば!」


奇声を上げる友人をなだめながら、爆笑しそうな自分も落ち着けて話の続きを促した。



「この前コンビニから帰ったら凄いオーラを放つムキムキのでかい男がエレベーターから出てきて…ゆらーりゆらーりこっちへ来たのよ」


「ただの住人でしょ?」


「でね、すれ違う訳だから挨拶とかするじゃない?そしたら無視すんのよ!あんなに勇気を出してコンニチハって言ったのに無表情で…すごい目つきで凝視してるだけなの!コンニチハじゃなくてオハヨウゴザイマスだった事を差し引いても無視にあの顔は無いと思わない?」


「ふーん」


「今まであんな人居なかったのよね…
聞いたらさ、みんな見た事はあるのに部屋に戻るところは見た事無いんだってさ。まるでファントムよね」



ここに住んで一年くらい経つけど確かにそんなガタイのいい人は見た事がない。でも私達が知らないうちに新しい住人が引っ越してくる可能性なんて当然の如くあるんだから、そんなに気になる話題でも無かった。

ただその新しい住人も体が大きくて強面なだけで、ファントム呼ばわりされているなんて知らないんだろうなと思ったら映画同様で少し可哀想に思う。


「くりすてぃーん…くりすてぃーん…って怖!連れてかれるッヒー!」


「解ったから他人をとやかく言うのやめなさいって」


袋をバシャバシャさせながら悶えている友人を無視してポストに鍵をかけると、先にエレベーターホールへと歩き出した。


「いやー…解ってると思うけどさ。一応女のひとり暮らしなんだから気をつけようねって話。…あ、一緒に課題やらない?後で行くから」


「はいはい、ちょっと片付けるから来るなら昼過ぎにしてね」



先にエレベーターを降りた友達を見送って最上階で降りると土砂降りの雨が廊下の中程までを濡らしていた。

折角の休みでも、こんな雨じゃあ出かける気なんておきない。ユメは昼までの時間潰しを考えながら自宅のドアを開けた。


「あ…」


部屋を見た瞬間、
昨日の文化祭後に持ち帰った荷物が目に入った。角材が何本かと大きなプラカード、たたんだ数枚のダンボールが持ち帰った時のまま部屋の隅に置きっぱなしにしてある。

一応客が来るわけだし出来るだけ何とかしてみようと、取り敢えずダンボールを縛っていた紐を解いた。
資源ごみの日はバイトがあるし、前日に出せば管理人さんに怒られるから袋に詰めて燃えるゴミに出す事にしよう。

ダンボールを小さく切って、角材も半分くらいまで切れ目を入れて折り、どんどん袋詰めにしていく。

プラカードは…もういいか。


ベランダに出すために窓を開けて、
雨が部屋に入るのを極力抑えるために、転がすように一気に外に出して、自分も外に出ると急いで窓を閉めた。

豪雨のせいで全身は
あっという間に冷たくなっていく。

スリッパを履こうかと悩んだけれど、こんなにびしょびしょじゃあ履く意味も無い気がして裸足のまま袋を隅に運んでいく。角材はまとめるべきじゃなかったと後悔しながら、まあ頑張ればいけるだろうと重量が増えた最後の一つを全力で持ち上げた時だった。



「うっ…わぁっ…!!」


ドーンとベランダが揺れるくらいの音が響いて、破けた袋から角材がガラガラと転がっていく。滑って背中から倒れた衝撃で息が止まりそうだ。

灰色の雲を見上げながらゆっくり息を整えて、なんでびしょ濡れのベランダに寝てるんだろうとお掃除スイッチが切れた気だるい体をさすった。


ガラッ

…えっ?


突然お隣から窓を開ける音がして、騒音を怒られるのではと飛び起きた私は無意識に正座してしまった。


「うるさくしてすいません…!ちょっと滑ってしまって…」


あちら側へ向けて謝罪してみたけれど
隣人は一言も喋らないし、かといって窓を閉める音も聞こえてこない。

怒るつもりじゃないのかな?
もしかしたら
偶然開けただけなのかもしれないし…


「すいませんでした」


とにかく最後にもう一度だけ謝って、妙な気まずさから逃げるために部屋に入ろうと窓に手をかけた。


「あれ?……え?…あーっ!」


しつこくガタつかせて、もびくともしない。窓の周りをよく見れば、立て掛けていたプラカードが、綺麗に内側に張り付いているのが見えた。

なんてダサい。
この一部始終はきっとお隣さんに聞こえているだろう。どうせ何も言わないなら、こんな恥ずかしい事もスルーしてくれないかな。





「何事だ」



…あー…。
…喋った…。



「…部屋に置いてた物がつっかえて、開かなくなりました」


聞いておいてやっぱり何も言わない隣人に困惑しつつも、助けはいらないと伝えるべきかと話を続けた。


「でも大丈夫です。もう少しで友達が遊びに来るんで、いつも勝手に入ってくるから直ぐに開けて貰えると思います」



またもや続く沈黙にそわそわしていたら、
嫌な感じに空が光って体が跳ね上がる。

まさかと覚悟して耳を塞いだ私は、
次の瞬間響いた雷の音に凄いスピードでしゃがみこんで、あろう事か再び足を滑らせた。


「いっ!」


いくら見えてはいないといってもこの音を聞いていたら何が起こったかくらい見当がつくだろう。度重なる醜態晒しになんだか死にたくなってくる。


「………フ」


あれ?
なんか今…フッて言った…?


気のせいだろうか と宙を眺めていたら、仕切りの下から突然黒い傘が伸びてくる。


「使え。気休めくらいにはなるだろう」


沈黙に冷たさを感じていたから、一応ピンチを救ってくれたのが嬉しくて素直にそれを受け取った。


「あの、
傘なんかさしたら雷おちませんかね…」


「金属を狙って落ちる訳ではない」


「良かったぁ…」


あ。
またフッて言った。


「風邪をひくなよ」



ピシャリと窓が締まってから、やっと笑われていたんだと気が付いて無性に腹立たしくなった。

それなのに程なくしてやってきた友達にまで指さして笑われた挙句、窓のサッシに挟まった「みせものじゃありません」とかかれたプラカードと一緒に写メまで取られてしまった。


「ユメがこんなどんくさいとは思わなかったわー。…ハハハハ駄目、笑いが止まらない…!」


「…ホント厄日だわ」


「風呂いきなよ、ここは勝手に片付けてるから」





お言葉に甘えて湯に浸かったら、今なら眠れるんじゃないかってぐらいに全身の力が抜けた。


あー笑われちゃったよ
馬鹿だと思われたかな。
声、低かったなぁ。
傘…どうしようか。

また話せるかな。





「ユメんちの雑巾ってどこ?」


ノックも無しに風呂の戸が開いて、勝手に煎れたのか片手でコーヒーを飲む友人が、続けて見下ろしながら「何かあったの?」なんて聞いてくる。

別に、
なんて言ってはみたけれど。
変な胸のざわつきを
私は確実に持て余していた。


「洗面所の下。………ねえ」


「ん、なに?」


「私…気になる人できたかも」








なぜこんなにも気になるのかは
自分でも良く分からない。

ただ事実として、あれから今に至るまでの間ベランダに立て掛けたままの黒い傘と、短く笑ったような低い声がずっと頭を巡っている。

わりと無口で威圧感があって、初めこそ嫌悪感さえあったのに笑われた瞬間それを全部吹っ飛ばしていった気がする。最後には体の心配までされてしまったし、口下手だけども本当は親切で優しい人なのかもしれない。


友人が帰った後の夜、何となくな二度目の風呂上がり、そんな延長線で物思いにふけりたくなった私は外でチューハイを飲みたくなって、出来るだけ静かにベランダの窓を開けた。幸い雨はあがっているし、思った程に寒くもない。


そーっと運び出した椅子を持って壁際に置こうと思ったら、またもや椅子の足がガリっと音を立てて壁をひっかいてしまった。


「あっ」


結構大きな音が鳴ってしまって一瞬ドキッとする。耳を済ませても窓を開ける音どころか足音一つしないから、もう少し物音には気をつけようと胸をなでおろした。



「また締め出されたか」


「わっ!!!居たんですか?!」


誰もいないと思ってたのに仕切り壁の向こうにはお隣さんもいた様で。心臓に悪い声のかけ方に寿命が何年か縮んだんじゃないかってぐらい…いや、死ぬほど驚いた。


居るなら居るでこんばんはくらい
言ってくれたらいいのに…


「…椅子ぶつけただけです」


大きく息を吐いて椅子に座れば、
呼吸の仕方一つ考えてしまう程やけに沈黙が気になる。ここは私の空間で自由な筈なのに、薄い仕切りの向こう側には誰かがいて一人のようで一人ではない。

どうしようかと悩んでいたら、ちょうど今朝方お借りした黒い傘が目に入った。


「あ、忘れないうちに傘お返します。今朝はありがとうございました」


下の隙間から渡せば汚れてしまうと思って、柵に腕を突き出して仕切りの向こうへ差し出した。


「あの、取って下さい…腕が結構ツライです…!」


なかなか掴んでくれないから変な角度で伸ばした腕がプルプルしてしまう。こんな滑稽な姿見えなくて良かったと歯を食いしばっていたら、なんと傘ではなくて突然腕を掴まれた。



「わっ…!!」



「女がそんな事をするでない。どんな奴かも知れぬのだぞ」



薄い仕切りに向かって意識はどんどん集中していく。まるで暴漢に襲われたみたいにバクバクしているのに、心中では腕をぐるっと包んでしまうほど大きな手なんだなぁと呑気なことを思っていた。



「とってもいい人でしたけど…気をつけます」



傘が離れるのと同時に腕は離された。
椅子に座り直せば驚いた分だけ安堵のため息がでる。腕に感じた温度をさすって、存在を忘れていた缶チューハイに手を伸ばした。



「…お父さんみたい」



プシっと音を立てて開いた缶に口を付けようとした瞬間ふと出てしまった。
すると彼も何かを飲んでいたようで、ゴホッとむせる音が聞こえてくる。



「あ!!!ごめんなさい!!大丈夫ですか?!…あの…失礼な意味ではなくて傘といい今といい、暖かく心配して下さるからつい」



「他人は他人だ。あまり気を許すな」



沈黙にびくびくしていたけど、
脅かしておいて結局また心配してくれるんだと思ったらなんだか面白くて笑ってしまう。


「はい、次からそうします」



やっぱり。
隣人さんはとっても優しい人だ。



「最近越してこられたんですか?」


「そうだ」


「ユメっていいます。色々ご迷惑掛けてしまいましたが…これからも宜しくお願いしますね」




声を聞く度に胸を高鳴らせて、
白い壁を見つめて。

また話せたらいいのになぁと、ユメは暖かい気持ちで雲がかかった月を眺めた。




 


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