ヒーロー








お風呂上がり、適当にタンクトップとハーフパンツを着てビールの缶を開けた。まだ早いと思いながらも出してしまったカーペットにクッションを一つ置いて背を預けたら、そこからなんとも言えない至福の時が始まる。


「秋の夜長っていいですなぁ」


フンフン言いながら片手でテレビのチャンネルを変えれば新しい柔軟剤のCMが流れていて、丁度今日の洗濯で切らした事を思い出した。


「新しいの買わなきゃなー……あ!」


そう。
今日の洗濯で切らしたんだ。
そしてその洗濯物は、忘れてた。


「ああ〜最悪…折角あったまってたのに」


お風呂の前に干すはずだったのに、飼い犬が買ったばかりの靴をこっそり持ってきて噛みまくってたものだから取り返すのとショックですっかり忘れていたのだ。

まあどうせバスタオルを数枚干すだけだから湯冷めする程でもないかと、ユメはそのままの格好でベランダの窓を開けた。



スリッパを履けば、一歩前へ出た事で窓を開けたときよりも風が冷たく感じる。干し終えてから少しだけ星を眺めてみたけれど、うっすら雲がかかっていてよく見えなかったから早々に切り上げて窓に手をかけた。

…のだけど。


「はっ!?」


あれ?こんなに建て付け悪かったっけ。
なんてガタガタやっていたら、部屋のテーブルに置いてた筈のビールがカーペットの上でどくどくいってるのが窓越しに見えた。


「馬鹿馬鹿カーペットがあああ!!!」


今すぐ拭いたら間に合う筈だと尚開かない窓をガタつかせていたら、ビールを零した犯人が窓際で2足立ちになってはしゃいでいる事に違和感を感じる。

綺麗にロックされた鍵を外から眺めながら、窓を引っ掻く爪音に絶望して全身の力が抜けていった。


「ちょっと…嘘でしょ…最低…
なんでそんなに馬鹿なのよ…」


鳥肌が立ち始めた腕をさすりながら、取り敢えず中へ入る方法を考えてみた。金銭的にも危険度的にも窓を割る訳にはいかないし、二階とはいえホロ酔い気分で飛び降りれば絶対私の事だから骨とか折るだろう。
無理を承知で「ココ、アケロ」と指を指してみるけど、何度か首を傾げた挙句、飽きたのか犯人はクッションに寝そべってしまった。


「ちょっとちょっと!なんで!
おいでったら!開けてよ!」


もう骨を折る気で飛ぶしかないなと、柵に手をかけた時だった。ガチャりと遠巻きにドアを開ける音が聞こえた気がして耳をすませば、しばらくして隣の部屋の明かりがついたのだ。



そうだ!!!!
お隣のレイさんだ!!!
お帰りレイさん!!神様ありがとう!!



「レイさーん…レイさーん…
居ますかー? 助けて下さいー…」


ベランダの仕切りを控えめに叩きながら呼べば、すぐに隣の窓が開く音がした。


「なんだ!?どうかしたか」


「飼い犬に締め出されちゃったんです、もう寒くて死にそうなんです助けて下さい」


仕切りのせいでどんな顔をしているかは解らないけど、少しの沈黙のあと物凄く軽快な笑い声が聞こえてきた。


「笑い事じゃないんですよ?!本当に寒いんですって!!」


笑いを引きずりながら足音は部屋に消えていき、またすぐに戻ってくると次は仕切りを隔てて傍に立つ音がして、仕切りの上にジャケットが一枚掛けられた。


「ユメ、これを着て下がっていろ」


「はい!神様!」


クスクス笑う声と物音が聞こえたけど、寒さしのぎを貸して貰えた感動で彼が何をするのかは考えてもなくて、ただ言葉通りにジャケットを着ながら少し後ろに下がった時だった。


「わっ…!」


急に飛び出た人間の頭に驚いて全身が跳ね上がる。どこにどう足をかけたらこんな高い仕切りを登れるのか検討もつかないけれど、いとも簡単に仕切りを越えたレイさんがスチャっと効果音でも付きそうなほど綺麗に目の前に現れた。


「凄いですね…あ、お帰りなさい」


自分の家のベランダに急に人が現れるってなんだかとても不思議で、何と言っていいのか混乱してしまう。
言葉を選び間違えたのか、凝視したままフリーズしてしまった彼を不安げに見つめていたら、小さな溜息のあと笑いながらただいまと言ってくれた。


「玄関は開いているのか?」


「はい」


「…無用心だな」



レイさんに玄関から入ってもらって窓の鍵を開けてもらおうと思ったけれど、それはできないと突っぱねられてしまった。
女の部屋には入れんだとか男を簡単に上げるもんじゃないとか言ったレイさんは今時なかなかいない紳士な方だと思う。お酒のせいで少し陽気になった私はそんな彼の背中を見ながら「別に大丈夫ですよー」と言いながら、絶滅危惧種の神様だと頭をかすめた言葉に一人でツボに入って笑っていた。

するとベランダの端で柵に手をかけていた彼が、更に足を掛け始めた。


「あの……何してるんですか?」


「降りるに決まってるだろう」


えっ、えっ、なんて驚いているうちにベランダから彼の姿は消えていて、慌てて柵の下を覗けばこちらを見上げるレイさんが両手を広げていた。



「おい、早く飛べ」


「ええええええええええ!!!
とっ…飛ぶんですか?!私が!?」


「他に誰がいるんだ」


「そんな!だって…、本当に飛ぶんですか!?私学生の頃、階段の三段飛ばしで骨とか折っちゃったし…私お酒入ってますし…その、無理なんですそれだけは!!」


無理なものは無理だし怖いものは怖い。
トラウマはトラウマだ。
私はそんな身軽で丈夫なレイさんとは違うんだとは思いつつも、険しい顔になってしまったレイさんを見ていたらなんだか悲しくなってくる。確かに今ベストな方法はそれだけしか無いんだって事は解っているのにどうしてもそんな勇気は湧かなかった。


「じゃあ飛ばないんだな、俺は帰る」


「えっ…あのっ…」


ためらって俯いているうちに見限られてしまったのか、顔を上げた瞬間、目に入った背を向けて去っていく姿にとてつもないショックを受けた。
助けてくれるんだと思っていたのに、急に突き放された冷たさに胸のあたりがツンとなって涙が出る。


「やだぁ…飛ぶからぁ…」


行ってしまった暗がりの道を眺めてうぐうぐ泣きながら、彼のジャケットを汚さないように仕方なくタンクトップの裾をまくりあげて涙を拭いた。


「おい、腹を隠せ」


「レイさん!!置いてかないで下さい!」


決心させるための置いていくフリだったのか、溜息をつく彼は仕方なさそうにしているけどどこか暖かい笑みを浮かべていて、安心感でまた涙腺が緩み始める。


「俺が受け止めるから飛べ。いいな」


「…絶対落とさないでくださいよ」


随分と偉そうなことを言ってしまったけど怒っている様子は微塵もなくて、寧ろ余裕そうにしているから彼の言う通りにしていたらなんでも上手くいくような気がしてくる。

背に腹は代えられぬ、だっけかな。
もうやるしかない。

恐る恐る柵を越えてベランダの外側に貼り付けば、映画のワンシーンみたいに柵を握り締める手がなんとも非力に感じる。
心臓はバクバクいっているけれど、
笑って待ってくれてるうちに飛ばないとこのままの状態で置いていかれたらそれこそ絶望だ。


「いきますよっ…」


息を大きく吸って、
息を止めて。
目をギュッと瞑って
私は柵から手を離した。


「…っ!!」


体が温もりに包まれたのを感じて息を吐きながら目を開ければ、彼の腕に座るようにして抱きとめられていて、太い首に絡めた腕の中で仕方なさそうに笑うレイさんと目が合った。


「できるじゃないか」


「レイさんっ…!!!!もうなんで置いていくんですか!!…私傷つきました最悪です!!…お風呂上がりだってのに馬鹿イヌは私を締め出すし、出したばっかりのカーペットにビールは零されるし…それだけじゃないんですよ、元はといえばアイツが買ったばかりのパンプスを穴だらけにしたからタオル干し忘れたんです」


壮絶な山場を越えた安堵で、絶望的な状態で突き放された事への怨み、今日の最悪だった出来事まで、話し始めたら口がなかなか止まらない。

冷えきった身体にくっつく温度は暖か過ぎて痺れるようにすら感じたけれど、ちっとも嫌ではなかった。



「あ…あれ?…ごめんなさい」


あろう事か、喋る事に必死で抱き上げられた状態のまま玄関先まで来ていたらしい私は、いまだ腕に腰を乗せて背中を支えられていた。


「もっと用心しろユメ。押入られても文句は言えんのだぞ」


「大丈夫ですよ、だってここのアパートレイさんしか居ないじゃないですか」


「だから用心しろと言ってるんだ」


えっと、それは。
どういうことかな。
なんて今更距離感が異常な事に気が付いて、アルコールの魔法が解けたように思考が回り始める。首に回してしまっている手をどう離そうか、目を細めて笑うレイさんの顔からちっとも目を逸らせなくて、一言も言葉が出てこなくなった私達の間を不思議な沈黙が流れた。



「冷やさんようにな」


「あ、」



沈黙を破ったのは彼で。
久しぶりに地に足が着いて降ろされたのだと理解した途端、はなれていく温度がほんの少しだけ切なさを呼ぶ。振り返りもしない後ろ姿はまるで置いていった時さながらで、なんだか変な感じだった。



「レイさんっ……あの、
…服忘れてます!返しますから!」



「明日でいい、中に入るまで着ていろ」



隣のドアに消えていく背を見送って、
一人取り残されてから暫く立ち尽くしていたけれど、ヒュンとふいに吹いた風に自分の格好を思い出して急いで家の中へ入った。

勿論そこには「ただいま!」とにこにこシッポを振る愛犬と、溢れたビールがカーペットに熱されてアルコール臭を放っているという最悪の光景が待っていたのだけど、全くと言っていいほど怒る気は起きなかった。


今日はもう寝ようかな


カーペットのカバーを剥がして洗濯機に放り込むと、彼の貸してくれたジャケットを脱いで寝室のクローゼットに掛けた。



「…………おやすみなさーい」




去り際に「また明日」をくれた事にも気付かずに、今まで気にした事も無かった、部屋を隔てる壁を眺めながら眠りについた。




 


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