幸せノイズ
うちの犬はよく吠える。
嬉しかったらワン
怒ってもワン
興奮してもワン
何気なくワン
兎に角いちいち声がでかいから、
いくらここがペット可とはいえ
とてもヒヤヒヤする。
そこで今日こそは
なんとかしてみようと
遊んでやりながら懸命に教えていた。
おもちゃで遊ぶ、喜ぶ、
そこで駄目よ!吠えない!
ワン駄目!
静まったらジャーキーをあげて
ひたすらに褒め倒す。
いい線いってるじゃないかと頭をひと撫でして、そろそろ洗濯物を取り込みに行こうかと重い腰を上げた。
パッキンを外されてゴムが飛び出た雨戸は使い物にならなくてそのまま放置しているので、仕方なくガラス戸を締める。
戸を1枚挟んで向こう側、
それに気が付いた飼い犬がピューピュー音の鳴るおもちゃを口にくわえて駆け寄ってくるのが見えて嫌な予感を感じ、
直ぐに戸を開けようと思ったが時すでに遅し、はしゃぎ倒す爪はドアのロックに掛かっていた。
「あーもう、またそれ」
何度もやられてるので
そんな事で慌てはしない。
大体こういう時は
外から適当に相手をしているとまたガチャっと開けてくれる……筈なんですけどね、今日はどうしたんでしょうか。
「お願い!解った!解ったからもう吠えないで!」
色々やってみたけどどうにも駄目で、
そろそろ別の方法を考えなければいけないのかとベランダをうろちょろしてみたけれど、姿が消える度に延々と吠え続けるものだから動くに動けなくなってしまった。
まあ、目の前に居たら居たで
早く相手をしろとうるさいのだけれども。
「おすわり…よーしよし、黙れ」
ワンワンワンワンワンワン
「駄目かぁ…」
仕切り板にもたれて脱力していたら突然荒々しい足音が聞こえてきて、それが自分の方へ向かってくるから全神経が集中し始める。
シャーっと
カーテンを引く音が聞こえ、
しまったと思った瞬間に
乱暴に戸が開けられた。
「おいこら隣人!うっせぇんだよ!!」
「すっ…すいませんごめんなさい!!飼い犬に中から鍵締められちゃいまして…本当にいつもうるさくしてすいません…ごめんなさい!」
「チッ」
あー…あー。
今まで散々うるさくしても苦情を言われた事がなかったから、その分ショックが大きくて呆然としてしまう。
今まで我慢して、
大目に見て下さっていたんだろう。
…申し訳無さすぎて溜息が出る。
今度菓子折りでも持ってお詫びに行こうと考えていたら、舌打ちしたあと戸を締めた筈の隣人さんが再び戸を開ける音がした。
怒鳴られてしまうかもしれないけれど
素直に受け止めて誠心誠意お詫びをしようと心の準備をしていたら、直ぐ横から聞こえてきたのは想像していたお叱りとは全く違うものだった。
ずしっとした物を床に置いた瞬間、
重なり合うたくさんの金属の音。
工具箱のようなものをあさっているのだと解り、お怒りなのに、もしかすると力になって下さるのかと感動で重い気が晴れていく。
「あっ、あの」
「うるせぇ。黙ってどいてろ」
乱暴な話口ではあるけれど、
小さな声でそう言った彼の声は
優しくすら感じられる。
そんなお隣さんが自分なんかのために何かをして下さるのだから、言う通りにしなければと黙ってその様子を眺めていた。
仕切りを止める大きなボルトが一つ一つ外れていき、四角形をぐるりと一周したところでガタっと不動の壁が揺らぎ、遭難しているところに救助が来た様な気分になっていた私は感動の拍手と声援を送っていた。
「わぁ!出られたー!!!
ありがとうござい…まし…………た……」
少し荒っぽい方なのかもしれないとは思いつつ優しさに感動しきっていた私に、その姿はあまりにも刺激的すぎた。
なんと…!!
なんと物騒な形相!!!!
……駄目駄目よ失礼よ私。
助けて頂いたのにその親切な方を見かけで判断するなんて人間らしからぬ、非道徳的な………だめだめだめ凝視しちゃダメ、見ないように見ないように…
そうだ、一刻も早く部屋に!!
…どうやって戻りましょうか。
この流れだと彼の部屋を通る事に、うん。
…それだけは絶対駄目だ。
「あの、窓とか割って下さいますか?」
「…ハァ?」
「私んちの窓をソレでバーンとして頂けましたら私それで中に入れますので」
「てめぇどんだけ馬鹿なんだ…ここから出りゃいいだろうが」
ああああ!
それを!
それを避けたいんです!
取り乱す私をよそに、
珍しいものを見るかのような目でまじまじと見つめてくるお隣さんを刺激しない様に必死で遠回りな言い方を考える。
「いや、あの、これだけ迷惑を掛けたのにも関わらず、更に見ず知らずの殿方のお宅へお……お邪魔するなんて……そんな滅相も……」
「へぇ…そうか」
「ございませんので……ひっ!?」
何を企んでるんですか?と言わんばかりの極悪ポーズでジリジリ間を詰め始めたお隣さんから少しずつ後ずさるうちに外付けの洗濯機へ行き止まってしまい、
それでも後ろへ下がろうと
反り返りすぎて洗濯機に背中が乗ったところで後一歩の距離がずいっと縮められた。
顔の横に手をつかれて
洗濯機の蓋がきしんだ音をたてる。
目の前にはさっき驚愕した恐ろしい形相よりも、はるかに恐ろしい人がニヤリと不吉な笑みを浮かべていた。
「引き摺り込んで
喰っちまうのも悪かねぇ」
耳元に掛かるかすれた低音が
言葉以上の恐怖を演出している。
とんでもなく恐ろしいセリフに血液が逆流し始めたんじゃないかと思うぐらい体がざわついて私はぎゅっと目を閉じた。
「…っっっごめんなさいごめんなさい!!!食べないで下さい何でもしますから!お詫びでしたら後日改めまして何か素敵なものをお持ちしますし作りすぎたのでお裾分けです的な事もこれからはしていきたいと思いますのでどうか!!どうか!あの…………え?…あれ?」
必死で喋り続け、
言葉に詰まったのをキッカケに目を開けてみれば何処にも姿は見えなくて周囲には人の気配すら無くなっている。
体勢を立て直して深呼吸し
倒れた仕切りをまたいで恐る恐るお隣さんの部屋を覗いてみれば、窓から直線状に見える玄関先で扉を止めている所だった。
「早く出ていけ」
「……でもお家に上がるなんてその」
「閉めんぞコラ」
「ハイー!」
慌てて脱いだスリッパを逆さまに持ち
部屋を見ないようにしながら玄関へ向かえば、恐ろしい装飾の革靴が扉が締まるのを防いでいてデザインが解らないほど無残に曲がってしまっている。
裸足のまま外へ出て持ち主の姿を探せば、共有通路の奥で煙草をふかしているのが見えて私は完全に拍子抜けしてしまった。
「ちったぁバカ犬躾やがれ」
「はい…あの、ありがとうございました」
部屋に入ってから外した仕切はどうするんだろうかと考えていたらそのうちまたガタガタと音がして、カーテンを開けた時にはもうすっかり元通りになっていた。
とっても怖いけど
すごく親切なお隣さんだったなぁ。
隣人トラブルで殺傷事件が起きる事もザラにあるこんな時代にお隣さんが優しい人で本当に良かった。
そう思ったら
早速何かをしたい気分になってくる。
親切にしてくれた隣人さんに
できるだけ迷惑がかからないように
自分ができる事を必死に考えて。
私は餌を片手に愛犬を呼んだ。
***
その馬鹿さ加減に怒る気も失せてくる。
吠えないように躾けているのかと思ったら、聞こえてくるのは鍵の開け方を教える声だった。
「やってごらん、こう。こうやったら開く、閉まる開く閉まる………はい…違ーう違う。こう!こうすんの!違うったら馬鹿このお馬鹿!」
「てめぇだろ…どこまで馬鹿なんだあの女」
楽しそうな声に耳を傾けながら、
とんだ間抜け女だと呟く口元に
うっすらと笑みを浮かべて。
男はひたすらに天井を仰いでいた。