これで情けをかけているなんて非情な事を仰るので馬鹿馬鹿しくなり、貴方がよこした従者という命を私は急にかなぐり捨てたくなったのです。

今こそ主従関係に終止符を。
最後となる夜空を目に焼き付けて
私は荒れ野に咲いた媚薬草を摘みました。





ートリスタンとイゾルデー




「聖帝様が慈悲深いのは
貴女にだけですね」


料理の匂いが立ち込める厨房で、
にこやかに笑うまだ幼い子供達に思わず「は?」と言ってしまった。


私にだけ…?
情けを?慈悲を?
嬉しくもなんともない。
そんなもの望んでいないというのに。


何様ですかと問えば当然のように
非情な暴君でお馴染みの聖帝様ですと返ってくるのだろうけど、そんな聖帝様が何かの間違いか奇跡の類で平々凡々な一人の女に情をかけているとして、特別扱いでもしているつもりなのか。


あの日のことは忘れもしない。
何処とも解らぬ異次元にポツリと放り出された私の前に現れた物騒な集団のボスは暫く偉そうに眺めたあと私を城へと連れ去った。

見ず知らずのこんな風貌の男でも着いていく事に不安はなく、寧ろ不可解な現象と世界に混乱し、絶望し、怯えていた私には「助けて貰えた」という安心感しかなかった。目を逸らしても向けられる視線は食い入る様に私を捉え続け、ならば私もと彼の目を見つめてみたのがそもそもいけなかったのかもしれない。

きっとその逸らしようのない青い瞳に
魂の全てを吸われてしまったんだろう。





「おかえりなさいませ聖帝様」
「お食事の用意ができました」


従者と主との決まり言葉を交わしあい、
視線を感じては熱くなり、
貴方の姿を見て胸をときめかせた。
私以外には子供か男しかおらず、私だけを一番近くに置いて調度品を見定める様に彼はいつも私を見る。

特別扱いされているのだと錯覚するには充分すぎる状況に、浮かれながら毎日を幸せに過ごしていた。



しかし当然ながらそれはどれだけ近くにいようとも変わる事はない。来る日も来る日も、ただ給仕に勤しむ私を連れ去った時と同じようにじっと見ているだけ。

幸福だと思っていたのに歪に気付かず過ごし続けた結果、私の身体を支配するのはいつの間にか切なさと哀しみだけになっていた。

飢えを満たすために必死で貴方の姿を追っても次の瞬間には胸が締め付けられて息が止まりそうになる。身を焼く想いは全身を焦がし、満たすどころか欲深くなっていく。近頃では彼を見る目が血走ってはいないだろうかと怖くて目を見るのすらやめてしまっていた。






それでも彼は、
見ているのだろうか。



部屋の一角から感じる大きな存在感に、腕の動きがぎこちなくなっていくのを平然としたフリでどうにかやり過ごす。できるだけあの人の目に止まらぬよう、難なくこなしたい一心で懸命に皿を並べた。

それでも焦れば焦る程ぼんやりとしてしまい、白いテーブルクロスに浮く銀の食器がやけに目に止まる。他の給仕の者が次第に減っていく事にすら気付かずに私はこの時間が永遠に終わらない様な気さえしていた。


「失礼しました」


小さく聞こえた声にハッとして顔を上げれば、晩餐の用意をする子供達に混ざっていた筈が最後の一人が退室する所だった。

ばたりと外気を遮断する音がこの部屋の空気までもを止める。しまったと固まる背中があの視線を感じて震えだしそうになった。


後はこの部屋を出るだけ
歩け。扉まで。


言い聞かせながら何とか扉の前までたどり着き、後は失礼しましたと一声掛けて扉を開ければそれで終わりだったのに。



「もう見ぬのか」



全てを見通していた様な言葉に体は凍ったように動かなくなり、血の巡りが解るほど全身が脈打ち始める。

はいそうでございますとでも
言えというのか。
そう思った途端怒りにも似た感情がふつふつと込み上げてきて、失礼しますと突き放して退室するつもりが彼の目を、
顔を見てしまった。


暫く見ないようにしていた想い人の瞳はとてつもない破壊力で私を飲み込んでいく。そらす事もできず見つめ合う間中、満たされては枯渇していくのを凄い速度で何度も繰り返す胸中は、ぐるぐると渦巻いて今にも狂い出しそうだった。


何故そんな顔で笑うのよ
私はこんなに、


「どうした」


「いえ、何でもございません。
直ぐにお食事をお持ちします」


体中に激情がかけ巡り
あんなにぎこちなかった体が、止まっていた足が嘘のようにすんなり動き始めて城の外まで振り返らずに走り抜けた。

私の心を殺しておいて、
これで情けをかけているなんて。
救われた事も想いを伝える事もできないこの主従関係も全部が馬鹿馬鹿しい。貴方がよこした従者という命もこんなに辛いならもういらない。


伝えられないのなら
「貴方が私を愛せばいいのよ」


吹き荒れる砂塵の中で愛の媚薬と呼ばれた花を手にして一生分の涙を流し、再び部屋へ戻った私は砂を浴びた廃人のような姿でその扉を開けた。


静かなる晩餐が
また違った沈黙に包まれて、
手を止めて呆然としている城主の側まで歩み寄ると今しがた手をつけていた杯の上でその花を握り締めた。

ためらう様に手をつたう花の雫がぽたりと落ちて葡萄酒の表面を揺らし、テーブルクロスに僅かな砂が散っていく。

奇行を咎める事もなく、さも余裕げに微笑んでいた彼は最後に一枚花びらを浮かべた瞬間驚いた様にも見えた。それがこの花の意味を知るせいか落ちた砂のせいかは解らないが、直ぐにまた動じておらぬと言わんばかりにふんぞり返り、口の端をつり上げた。


「毒草では御座いません、
どうぞ召しませ」


「お前もどうだ」


そのまま立ち去ろうとするのを扉の手前で呼び止められ、仕方なく振り返れば憎らしくも彼はまだ微笑んでいた。


「私には効きません」


「ほう…何故だ」


反旗を翻す意思表示としてエプロンの紐を解き、真っ直ぐ突き出すように伸ばした腕から、わざと銀のトレーを床に落とした。



「もう骨抜きだからです。
愛してしまいました」




がらんがらんとトレーが回る音を聞きながら揺れた青い瞳を真っ直ぐに見据える。限界をとうに超えた私はひどく饒舌だった。


「異世界の凡人をなぜ拾われたのですか。こんな荒廃した世界で孤独に彷徨う女に手など差し伸べて。たとえ聖帝様の気まぐれだとしても私には救世主なのです、焦がれてしまうのです」



面食らった様な顔からは
いつもの余裕さが完全に消えていた。


「一介のメイドが主に愛を乞うなんて許されないでしょうから、今限りで従者を辞めさせて頂きます」


結び目を解かれて首に掛かるだけだった白いフリルのエプロンを無造作に捨て、黒いワンピースのボタンを全て外し、両腕を抜くと真下に落ちた服が足元で輪を描く。

ヘッドドレスを外せば
ありがちな、
思いの丈だけ伸ばした髪が肩に流れ。


「私はこんなもの着たくはなかった」


靴も、靴下も、メイドとして与えられた忌まわしい服は全て脱ぎ捨てた。
思いも恨みごとも伝えた今、
私はもう死んでもいい。


「貴方が跪いて私に愛を乞えばいいのに。
すがりついて愛を囁けばいいのに。」


邪魔な涙が溢れて、
言葉がかすれていくのを
無理矢理作った精一杯の笑顔で流した。



「それが叶わぬので盛りました。
無礼は死で償います、どうぞ殺して下さい」



「…生かしておけば姿を消すのだろう。
ならば仕方ない」



ゆっくりと、
主が立ち上がるのを見て
私は目を閉じた。

歩み寄る足音が段々と近づき
ついにその気配を正面に感じた途端
触れた温度と衝撃に体が揺らぐ。

私は、殺されたのだ。





「お前を逃がす気などない」



人肌に目を開ければ
信じられない光景があった。

目の前でかた膝をつく男は立ち尽くす私の腰を抱き、鳩尾の辺りから見上げる唇が、握られた手の甲に柔らかな接吻を落としながら切望した通りに愛を乞い、愛を囁いていた。


「何が気に入らん。この聖帝が力にものを言わさず愛でていたのを愛と呼ばず何と言うのだ」


砕ける事しか考えなかった脳は言葉を理解せず、ただその距離感と温度にわなわなと震える事しかできない。



「覚悟しろ。もう従者には戻れぬぞ」


斜め下から伸びる手が頬から髪を撫で、
立ち上がると身体を強く抱き締めた。

この上なく嬉しい筈が
お前を愛していると囁く声も甘やかな動作も、まさか貴方がと思えば何一つ信じられなくて涙が溢れる。



「同情でしたらっ…お戯れならどうか、」


全身に感じる熱に胸が痛み、
今にもおかしくなりそうで離れようと身をよじったが胸板を押し返す腕はいとも簡単に捕らわれた。



「ならばとどめをくれてやろう」



片腕に抱いたまま杯に手を伸ばし、葡萄酒を飲み込んだ喉が悩ましげにごくりと音を立てる。



「効かぬな」


にやりと笑う瞳は
それに反して優しさを含んでいて。

震える身体を倒され、
力のままに抱き寄せられた背が彼の意のままに反らされていくのがやけにスローに感じる。

胸の谷間に溢された葡萄酒を
馴染ませながら撫であげる掌に、
喜びで身体はうち震え。
溜息にも似た嬌声を堪える術はない。

焦がれた唇が触れて
口内を犯す温度と質量に目をみ開ければ
絡みつく真摯な眼に涙が滲み、
その衝撃に自分の瞳が揺れたのが解った。



「こんなもの
お前の前ではただの水にすぎん」



口の端からこぼれ落ちる葡萄酒が
熱を持った青い眼が、
稲妻のように胸を痺れさせていく。


「名を呼べ、ユメ」


かつて呼んだ事もない名を呟けば、
満足げに微笑むサウザーが白いマントで体を包んでくれた。




「おい!残りは好きにしろ」


突然空気を壊した大声に目を丸くして驚いた。呼ばれた従者達はこんな状況下でわらわらと周囲を取り巻き始めて、余韻に震える私は真っ赤になって慌てたが、誰一人そんな事は気にしていなかった。

ところが、
喜びの声を上げながら夢中で料理に手を伸ばす子供達に安堵したが束の間、直ぐに私の姿を見つけてその有様に静まり始めてしまった。

脱ぎ捨てたメイド服の
なんと気まずい事か。


あわあわと、そんな視線に戸惑う私をにやりと笑って抱き上げたサウザーは、驚きに目を輝かせる子供達の横を通り抜けて。

見せ付けるように口づけながら
私を悠々と寝室へ連れ去ったのだった。





 


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