御礼



そこは虚無だった。何も見えなくて聞こえない。暗闇で辺りを手探るように伸ばした手は空を切り、声を出そうとした口からは泡沫らしきものが広がって頬を撫でていく。ふと、夢の途中で迷い込んでしまった世界は水の中を想像させた。
ひどく心地がいい。不透明な鎖でがんじがらめになっていたこの身は軽く、不感でいられる。もうわたしは自由だ。


「おい、寝るな」

瞼を開けるとそこはとても狭くて不自由だった。吸い込んだ空気は生臭い生命の香りがして、おまけに薄ら寒い。身じろぐと肘に当たる体温に、記憶も目覚めていく。





「この山を?」

白石たちと同じく振り返った先には、大雪山。淡く訪れた新緑と冬の名残が混在した山々は連なるほどに圧倒的な自然が口を開けて待ち構えていた。
山の天候は移ろいやすいと聞く。言い知れぬ不安が頭をもたげる。

動揺を見透かしたように、笑っていたと思った山は急に牙を向き、崩れた天候となって襲い掛かった。まるで真冬のような冷気を帯びた風が身体に叩き付けられ、外套を手繰り寄せた手は感覚が薄い。
「下山しよう」「追っ手が来てるんだぞ」論争に耳を傾けるのが精一杯で、意識が朦朧とし始める。素っ裸になった白石を見て、少し正気を取り戻したけど。
それも束の間だ。気付けば尾形によって仕留められたエゾシカはアシリパちゃんの指示で皮を剥がれている最中だった。それに入って寒さを凌ぐらしい。正直に言うと気が引けるがそんなことを気にしてる状況じゃないだろ、と一喝されてしまった。なるほどアシリパちゃんは正しい。

「尾形と入れ」
「は?」

何故その組み合わせなのか。杉元とアシリパちゃんの組み合わせは理解できても、これだけは了承しかねる。喋るたびに体温が抜けていくかと思うほど寒くてたまらないが、尾形と密着するなんて御免被る。「白石と尾形でいいだろ?」抗議すると「白石はパウチカムイに取り憑かれている」と返されてしまったうえに、さっさと入れ、いい加減にしろ、とついに怒られてしまった。本当にアシリパちゃんは正しい。

「さっさと行くぞ」

それでもまだ食い下がろうと口を開けようとしたら、尾形に首根っこを掴まれて粗雑に捩じり込まれる。未だに残る生暖かさと粘膜の柔らかさに良い心地はしなかった。





覚醒したついさっきまでの記憶が繋がる。
「寝ると死ぬぞ」尾形の言葉に納得はしたが、浮遊感が抜けない思考では苛立ちが募るばかりだ。

「もっと寄れ」
「こっちだって狭いんだよ」

そう返しながら肩を竦めて抱え込む。少しでも小さくなって言われた通り身体を離す。
こっちだって、好きでアンタと身体をくっつけてる訳じゃないんだよ、と心中で零す。

「違う、そっちじゃない」

掴まれた腕を引かれ、抱え込まれる。
耳には吐息が届き、冷たい火薬の匂いが鼻を掠める。慎ましく鳴る心音が背を叩く。外の音は一斉届かず、心臓が動いている音だけが皮一枚を通して空間を満たしていく。

ああ、だから嫌だったんだ。尾形となんて。
人肌がじんわりとわたしを蕩かし、懸念していた不安を自覚させる。まるで首輪をするように熱を分け与える。温かくて、苦しくて、不自由な首輪。
こいつもきっといつか死ぬだろう。わたしの知らないところで、わたしのことなんか覚えてもいなくて。それでも待ち続けることがどれだけ苦しいことか、不毛なことか知ろうともせずに。
そんな男にまた恋慕するなんて。

こんなの、くそったれだ。




2017728
確か10巻のあの回を妄想して書いたはず


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