昔、小学4年生の頃に下校中の雨の中でゴミ置き場に捨てられていた子猫を拾った事があった。
心配で、見過ごせなくて助けてあげなきゃって思って、家に持って帰れば酷くお母さんから怒られたのを覚えてる。
アンタがお世話出来るわけないじゃないと言われ、次の日お母さんは私が学校に行ってる間に保健所へ猫を持っていった。学校から帰ってきた時、わんわん泣いた。その後、お兄ちゃんが猫拾ってきた時は何も言わなかったくせに。
そして今日も。雨が降る中、ゴミ置き場に捨てられたような猫を見つけた。猫、って言っても人間なんだけど。
猫さんは大量のゴミ袋に背中を預けてぐったりしていて、気絶してるみたいだった。口の端が切れているようで血が出ていて、顔にも所々傷があって服も汚れている。……男の子ってなんでこんなに傷だらけになるんだろう。溜息を吐きつつも、ポケットにしまってたハンカチで濡れた頬と血を拭った。
「あの、大丈夫ですか」
雨音に消されるくらいの声で問いかける。だって、この猫さん怖そうな顔してて正直怖い。……でも、知らんぷり出来なかった。
どうしようと考え、猫さんの肩を揺らすと顔を顰めたので、耳元でもう一度声をかけた。
「あのっ、大丈夫ですかっ!」
「……あ?……誰?」
ゆっくり目が空いたその人は、私に問いかける。
誰ってあなたは誰なの?
って聞きたいけど、口出しするのもちょっと怖い。ゴミ袋に預けていた背中を起こした猫さんは顔を顰めた。
「ァ……痛ってェ……」
「だ、大丈夫ですか……?倒れてたから心配でっ……あの、ハンカチ、」
「おー大丈夫大丈夫。これくらいかすり傷だし」
腕をぐるぐる回して身体に異常が無いか確認する猫さん。どう見てもかすり傷で済んでいるとは思えなくて、心配で胸がゾワゾワした。本当に大丈夫なのかな、死んじゃったりしないかな。
「あ、あのっ……き、救急車呼びますか?」
「こんなんで救急車はいらねーよ。ありがと、優しいんだなお前」
猫さんはニカって笑うと、ゆっくり立ち上がる。こんなにケガしてるのに、また体力があるなんて。
立ち上がった猫さんは私よりも、私のお兄ちゃんよりも背が高くて肩幅も広い。雨に濡れた長い黒髪が、魅力的に見えた。
私に向けて笑った顔は、どんどん私の胸の鼓動をどきどきと早めていく。う、あ。なんだろ、これ。
なんだか顔が熱くて、顔を見れなくなって、地面に視線を落とす。頭が混乱してきて思わずポケットに手を入れたら絆創膏が入ってたので、差し出した。
「つつ使ってください!」
「おお、サンキュ。……なあ、お前の」
「じじじゃあ!!」
「おい!」
絆創膏と一緒に傘も差し出すと、受け取ってくれた猫さんを置いて走る。後ろから声をかけられたけど、走って逃げた。あの感じだったら死ななそうだったし、何より自分の中で分からないけど、これ以上そばに居たらもっと顔が熱くなりそうで。それを見られたくなくて、花柄のお気に入りの傘を猫さんに渡したまま、雨の中走って帰った。
ずぶ濡れで帰ってきた事にお母さんは私を怒ったけど、別に後悔はしてない。
しかし絶対に熱がある、と思って家に帰って体温を測ったけど、平熱だった。あの時の熱さは、熱じゃないとしたらなんだったんだろう。
△
あんなにケガしてたのに、不良だと思っていたのに、あの人はとても優しかった。不良って態度が大きくて自由奔放で、喧嘩っぱやくて、上手く謝る事も出来ないどうしようもない人間って思ってる。
何故なら、そんな不良が私の身近に存在しているから。
「勉強してるの?……もうそろそろ寝なさい」
「うん…もうちょっと勉強して寝るね」
「……アンタはお兄ちゃんみたいにならないようにね」
夜も深まる頃、最後にボソッと愚痴を吐いたお母さんはリビングの扉を閉めて寝室へと向かったようだ。カチ、コチと時計の秒針だけが聞こえるリビングで、もう何回も何回も書きなぞった漢字を漢字ノートいっぱいに埋める。
23時を回った時、玄関の鍵が開く音がした。けれどチェーンによって開く事が出来ない音がして、また扉は閉まる。
私はゆっくりリビングの扉を開けて玄関のチェーンを外し、ドアの鍵を開けた。
「……遅いよ、お兄ちゃん」
「……うっせー」
玄関の入り口に座って小声で愚痴を吐くお兄ちゃんは、立ち上がって私の間を通り中に入る。再びチェーンと鍵を閉めて、お兄ちゃんの後を追った。
暗闇だったから気づかなかったけど、リビングに戻ると、明かりで傷だらけになっているのが分かった。
「また怪我して……絆創膏貼るから、とりあえずお風呂入ってくれば?」
そう問いかけると、お風呂場へと足を進めた。
私のお兄ちゃんは一個年上で、小学校の高学年くらいから喧嘩が強くなっていった。けれど六年生あたりに反抗期ってのに入っちゃって、お母さんとよく喧嘩するようになった。
中学に入学すると、こうやって帰る時間が遅くなるまで、何処かで喧嘩してるらしい。呆れたお母さんは鍵もチェーンもかけて完全放棄。
鶏冠みたいな髪型で、変なズボン履いて、喧嘩の何がいいんだか分かんない。どうせお兄ちゃんもそこら辺のコンビニに屯ろしてダベってるダサい不良と同じだ。
でもそんなお兄ちゃんでも、見過ごすことは出来なかった。
「痛ェッ」
「もう……また無茶なんかするからだよ」
お兄ちゃんの部屋で救急箱に入ってた絆創膏を貼っていく。足は捻挫してるようで足首のあたりが赤く腫れ上がっていて、湿布を貼ってテーピングする。
歳を重ねる事に増える怪我に、私はどんどんお兄ちゃんが心配になった。
「はい、終わり。他に痛いとこ無い?」
「大丈夫だっての」
「本当に……?」
「本当。そんな心配すんな」
ニャアと鳴いて寄るネコ――ペケJを撫でながらお兄ちゃんは笑って言う。……人の気持ちも知らないで。口に出さず拳を握ってそんな気持ちを抑えた。
「ペケも心配してる」
「猫が言ってる事分かるわけねーじゃん」
「分かるの」
「分かんねーよ」
途方とないやりとりをすると、お兄ちゃんはダル…と小声で愚痴を吐く。なんでそんな風に言うの、なんで真剣に聞いてくれないの。
悔しくて目の前がぼやけてきて、涙が滴り落ちる。そんな私に、お兄ちゃんは親指で涙を拭って背中を優しくさすってくれた。
こういう優しいところもあるのに、なんで。
「あーもう……泣くなって」
「だってお兄ちゃん、ちゃんと聞いてくれないんだもん……。なんで喧嘩するの、そんなんカッコ良くないじゃん」
「名前が言ってんのは昔のヤンキーの事言ってんだろ。自分の意見なんて持たねぇで群れて武器使って殴ってよ……ンなの俺もカッコ悪りぃって思ってる」
「……お兄ちゃんは違うの?」
「違う。一番じゃなきゃ意味が無い。群れてる先輩共も弱っちぃし、ンな奴らに敬語使う意味も分かんねえ。俺は俺らしい喧嘩をやってるだけだ」
そう語るお兄ちゃんの目はキラキラしている。私だって、本当は気遣いの出来る優しいお兄ちゃんだって事は知っている。なのに、何で喧嘩するのか分からなかった。今の発言を聞いても、正直よく分からない。自分の身を削って喧嘩する、そこに何があるんだろう。
「もしかしたら、あの猫みたいな人もそうなのかな……」
「猫みたいな人って誰?」
「先週怪我してた怖い人が居て、その人倒れてたから声かけたの」
「……お前なあ、心配性も程々にしとけよ。しかもソイツも不良だろ?あんまり関わんな」
溜息を吐きながら忠告するお兄ちゃんの言葉に、気まずくなる。そりゃあ私だって怖かったし関わりたくなかった。もしかしたら声かけただけで殴られるんじゃないかって、ビクビクした。それでも、自分の中の気持ちは助けたいって事でいっぱいだった。
「でもその人、ありがとうって言ってくれたの。優しいなって、言ってくれたの。私が今まで出会ってきた不良って、いっつも反抗的な態度で人を見下したような事言って……馬鹿にして笑って……。お兄ちゃんもそういう人になるんじゃないかって心配してた所もあったの」
「そんな事やんねーよ、カッコ悪りぃ」
「うん…さっきのお兄ちゃん見たら、違うなって分かった。それにあの怪我してた人も、なんだか分からないけど、お兄ちゃんみたいにキラキラしてた」
「……でもソイツ、負けてんだろ。カッコ悪りぃじゃん」
「そうかな……」
あの人は多分喧嘩に負けたからあそこに居たんだと思う。でもあんなにずぶ濡れになってても、ニコニコして私に話しかけてくれた。喧嘩に負けて悔しかっただろうに、自分のことなんて後回しにして優しい不良だった。
その人に対してカッコ悪いなんて、私は思わない。むしろカッコ良かった。
……それは、その、顔が、とかスタイルが、とかじゃなくて。怖かったけど、カッコ良かったんだ。
「もしお兄ちゃんが負けても、私はカッコ悪いなんて思わないよ。私のお兄ちゃんはカッコ良いの知ってるもん」
「……何で負けた時の事言ってんだ」
「今日こんなに怪我したのに負けてないの?」
「してねーよ。雑魚の人数が多かっただけで全員ノシたっての」
「そうなの?」
「あぁ。リーダーのやつなんかチョーパンして即落ちさせたしな」
「チョーパン?」
「頭突きのこと」
ひえ。……やっぱり、喧嘩は怖いや。
私の知らない世界が、男の子たちの世界で広がっている。そこは踏み入れてはいけない領域で、立ち入ろうとは思わなかったけど、こんなにもキラキラ輝いてる人たちを見ると、踏み入れたくなってしまう。
でも私とは別世界の事であって、私に出来る事といえば、ただ見て、怪我した所を治してあげる事。
「……応援は出来ないけど、負けないでね」
「負けねーよ。俺は」
「あと、お兄ちゃんあのズボンカッコ悪いからやめたら?」
「アレがカッコイイんだよ!」
「あと髪型も鶏みたいだからやめてほしい」
「うるせ!女には分かんねーだろ、この良さが!」
意地になって反論するお兄ちゃんも、私は好きだ。多分これからも私はこうやって怪我したお兄ちゃんの帰りを待って、また絆創膏を貼る。今は少し、それが嫌じゃない。
「そういえばその猫みたいな人、お兄ちゃんと同じ制服着てたよ」
「……ならただの弱っちぃ不良なんじゃねーの。今の中学に俺より強いやつ、見たことないし」
「そうなのかな?」
そう答えると、ペケがにゃぁんと鳴いた。
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